昼間の星

 四時限目の体育は新堂の言っていたとおりグラウンドで行うサッカーとなった。先日中止になった体育はC組との合同を予定していたが、今日の相手はD組。合同相手が交互になるのは奇数クラスの宿命みたいなものだ。

 外は相変わらず湿度が高く、空は一面灰色の雲に覆われている。太陽が見えない上、風が吹いているのでまだ過ごしやすいが、土は生乾き状態だ。座ると体操着が湿るため、男子たちは教師の指示が終わるまで腰を浮かせ続けた。

 グループを作って各自でパス練習。その後一度集まって軽く試合をするとのことで、萩野はほかのグループに誘われる前に渉の元へと駆けて行った。


望月もちづきっ、一緒に組んでいいか?」


 すでに仲のいいメンツで固まっていた渉は、男子から人気の高い萩野が自ら来てくれたことに驚きつつ、「お。おう……!」と快く受け入れる。案の定、「あ、ハギタクあっち行っちゃった」と残念そうに誰かが呟いた。

 E組の男子は全員で十五名なので、二手に分かれるなら七対八になるだろう。


 渉と萩野のグループは、一緒にいた杉野すぎの柿沼かきぬまと、クラスから敬遠されがちな熊谷くまがや友貴ともきを含めて計五人となった。ほかに入ってくれそうな者は見当たらないため、どうやら五人ずつ三つのグループに自然と分かれたらしい。

 各グループで距離を取ると、それぞれが輪になってパスを繋ぎはじめる。柿沼は帰宅部でありながらも運動神経抜群なので、杉野が不器用にすっ飛ばしたサッカーボールも胸部で捕らえて、「萩野ーっ」と言いながら見事に返してみせる。杉野から柿沼、柿沼から萩野、そして萩野から渉に繋いだボールは、


「熊谷……あああああっ」


 ――熊谷のよそ見によって遠くへと転がっていく。

 熊谷はひらひらと宙を舞う蝶々に夢中のようだった。彼が敬遠される理由はその自由奔放さと協調性のなさ、故に意思疎通ができないからである。仕方がない、と間にいた柿沼がボールを追って走っていく。

 萩野はドンマイドンマイとエールしながら渉の隣に並んだ。


「なあ望月、百井と話した?」


 渉は萩野を見上げてから首の動きとともに視線を落とす。


「うん……。でもまだ、心の整理ができてないっつーか、追いついてないっつーか……。そっとしとくのがいいのかな……」


 振る舞いこそ委員長らしくしている凛だが、内心のショックはまだ癒えていない。今日だって一時限目の号令を先生に指摘されるまで忘れており、珍しいね百井さんなどと言われて謝っていた。――別に謝るようなことでもないのに。幼馴染の渉が言うのだから、今はまだ触れないでおくのがいいのだろう。

 柿沼が戻ってきたところでパス練習再開――と思った矢先、熊谷はくるりと背を向けて彼方へと駆けていく。


「えっ、あ、おい! あいっつぅ……」


 俺の苦労が……と頭を抱える柿沼。もう一走りも二走りも柿沼なら余裕だろうが、彼ばかりを行かせるわけにはいかない。


「いいよ、俺が行ってくる。みんなはやってて」


 渉は片手を挙げて立候補した。杉野は体力不足だし、萩野には場をまとめておいてもらいたい。

 萩野の「悪いな望月!」という言葉を背中で受けながら、渉は熊谷を追った。ほかグループの邪魔をしないように遠回りをし、やがてグラウンドのど真ん中にうずくまっている熊谷友貴の後ろ姿を捉える。


「くまが……」


 土いじりしている熊谷に呼びかけようとしたとき、左側から勢いよく飛んできたサッカーボールが彼の背中をドンと強く叩いた。「わっ!」と声を上げる熊谷に反して、渉の言葉は喉元までせり上がった熱によって掻き消される。

 ボールが飛んできた先を見ると、新堂と男子二人が熊谷に姿勢を向けて立っていた。


「ぷっ……ダッサ」と吹き出したのがつじ。腹を抱えてギャハギャハと笑っている背の低い男子は宇野うのだ。言わずも知れたE組の問題児三人組である。

 渉は三人の顔をキッと睨んで、熊谷の元に駆け寄った。


「熊谷ー!」

「あ、ワタくん」


 熊谷は渉を見上げてにぱーっと笑ってみせる。地面に文字を書いていたらしく、人差し指は土で真っ黒になっている。

 渉は熊谷の背中に付いた汚れを払い落とした。


「パス練習戻ろう?」


 顔を覗き込んだ渉が言うと、熊谷は「うん」と素直な返事をして立ち上がる。渉が両膝の土を落とすのを手伝っていると、その真上で熊谷は両手の汚れをパンパンと払った。熊谷の両手から落ちた土が渉の背中にかかるが、止める者は誰もいない。

 渉は熊谷の手をしっかりと握ると、来た道を戻ろうとして振り返った。――振り向いた先は真っ白だった。


 顎に殴られたような衝撃が甲走り、脳まで一躍する。喉を押し潰されて呼吸が一瞬止まる。真っ白な視界のなかで薄っすらと鼠色の空が見えた。熊谷の手が離れる。地面から足が離れる。

 渉はグラウンド上に倒れ込んだ。湿った土の感触が背中を冷たく包み込む。瞼を閉じていても開いていても、白と黒が目の前を瞬いていた。アハハハハハハ、と宇野の笑い声が耳にこだまする。

 渉の傍らには、新堂明樹の蹴ったサッカーボールが転がっていた。


「ワタくん空見てるの? 僕もやるー!」


 快活に両手を広げて熊谷友貴が渉の隣に寝そべると、宇野の笑い声がいっそう派手になった。笑っているのは一人だけのようである。周りにいる者はみなこの異常事態に気づいているのに、誰も関わろうとしない。駆け寄ろうとしない。

「なんか、あれ、まずくない……?」と、遠くのほうでD組の誰かが口にした。続いて駆け寄ってくるいくつかの足音が、地面を通じて渉の頭に響き渡る。「望月!」という萩野の声が天から降ってきた。


「望月! 大丈夫か!?」

「……ああ……う、ん……」


 渉は萩野に抱き起こされながら回らない舌を必死に動かす。

 まだ平衡感覚は曖昧なままで、視界がチカチカと明滅している。なぜ自分が地面に横たわっているのかもわからないでいた。

 萩野は渉の顔の前で手を振る。


「ほんとに大丈夫か? 見えてるか?」

「うん……星が、見えてる」

「星?」


 うんん……と唸った渉の横で、「えっ! 星!? どこどこー!」と仰向けの状態から跳ね起きる熊谷友貴。そのまま走り去る彼を、杉野と柿沼が慌てて追っていった。こちらの様子を黙視で窺っていた新堂たちはもう周囲からずらかっている。


「保健室行こう。立てるか?」


 萩野は渉の腕を肩に回して持ち上げた。先生への説明を杉野がしてくれている間に、柿沼は熊谷を確保している。

 渉が昼間に星を見たのは、幼い頃凛に背負投されて以来のことだった。

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