第四話
舌鼓
あたしが自然に笑えるのは、
* * *
無塩バターと砂糖を十分に混ぜてから、さらに溶き卵を入れて混ぜ合わせる。とろみのある生地に薄力粉とベーキングパウダーを振るいながら、
「最初はゆっくり混ぜてね。いい?」
「ま、任せて」
――本当に大丈夫かな、ゴムベラを持つ手が震えているけど。
椎葉の不安もよそに、三城はボウルのなかにヘラを突き入れ、フライ返しの要領で底から裏返した。案の定、粉が溢れて空気に舞う。ああ、言わんこっちゃない。
「楓……」
「ごめん、やる気がついほとばし――ああっ!」
偏った粉を戻そうとして机上にこぼした。椎葉はやれやれと額に手を当てる。あたしがすると言うので任せてしまったけれど、役割を逆にしたほうがよかったか。
「もうちょっとさ、それを、こう……生地に沈めてさ」
椎葉が身振り手振りで説明すると、三城はふんふんと頷いてヘラを細やかに動かした。
六月二十三日、今日は日曜日。椎葉は家に三城を招いて一緒にお菓子作りに励んでいた。と言っても、やりたいとお願いしてきたのは三城だが。
「もっと手際よく混ぜないと」
「む、むーりぃー!」
仕方ないなと、椎葉は三城の後ろに回り込んでヘラを持つ手を握った。くすぐったそうに窄める三城の肩越しからボウルを見やり、さくさくと切るように意識して混ぜる。
三城は友達に贈る程度の頻度で、椎葉の家にお菓子作りをしに来る。家電の都合で自分の家ではできないから、こうして椎葉の家を訪ねてくるのだ。
別に来て困ることはないので、椎葉も三城とのお菓子作りを楽しんでいる。普段よりもキッチン周りを汚すことにはなるが、どうせ親は不在だし、弟も外遊びに出かけているため邪魔する者はいない。
「わかった?」と問いかけてみれば、三城は首を振り向き『にへへ』と笑った。
「穂がいると、なんか安心する」
「私は自動ロボットか」
「じゃなくて、はじめての共同作業みたいな?」
「はじめてじゃないでしょ」
苦笑して返すと、三城は「そうだね」とくつくつ笑った。二人でお菓子作りを楽しむようになったのは中学の時からだ。はじめてしたのは一年生の夏休み。
『お菓子作りしてみたいんだよね。でもうちじゃできなくてさ』と嘆く三城に、じゃあうちでする? と誘ったのが椎葉だった。陸上部の練習がない日を二人で指定して、学校近くで待ち合わせをし、買い物を済ませてから家に招いた。それ以前から放課後や休日に遊ぶことはあったけれど、はじめて家に呼んだのはその時である。
「味見していい?」
「まだおいしくないでしょ」
「えーっ、そう?」
興味ありげにボウルを見つめる三城から離れて、椎葉はチョコチップの封を開けた。
「入れるんだよね?」
「うん。あっ、あたしにも頂戴」
親友はボウルを手で支えたまま、あーんと行儀悪く口を開けた。まったく、食い意地ばっかり張って……と呆れながら、椎葉はチョコチップをスプーンで掬い取り、開かれた大きな口へと押し込んだ。残りは袋から直接ボウルに投入する。
三城は、飴玉を転がすように舌の上でチョコレートを弄びながら生地を混ぜる。だいぶ動きがよくなっているみたいだ。教えた甲斐があったのかもしれない。
そうやって生地を整えている間に、椎葉はカップを用意して型に挿し込む。オーブンの予熱は完了しているため、あとは型に入れて焼くだけだ。
「穂って普段はお菓子作らないんでしょ? なのによく器用にできるよね。手際がいいっていうかなんて言うか」
「楓が不器用なだけじゃない?」
「えーっ嘘! そこらの子よりはあたしのほうがまだできるでしょ」
どうだか。中学の調理実習でも三城が活躍していた覚えはないし、包丁の扱いなんか見ていて怖くなるレベルで危うい。
リンゴの皮剥きをした時は指まで赤くしていたし、ごぼうのささがきはほとんど縦に切っていた。ただ、ハンバーグをこねるのはうまくて、大きさも、三城の形作るものはみな平等だった。天性の才能と言うのだろうか、質量の感覚が鋭いんだなと感心したものである。
それに、椎葉がお菓子作りをするのは三城と一緒の時だけだ。普段はお菓子どころか、料理全般は手伝い程度にしか行わない。材料とレシピさえあれば作れる自信はあるけれど、料理もお菓子作りも特に趣味というわけではないのだ。
私が張り切るのは楓と作るときだけだよ――そう言ったらどんな顔をするのだろう。
「穂と結婚する男は幸せだねー」
「えっ何、突然」
型に入れたカップに生地を流しながら、三城はふふふっと頬を緩める。彼女が入れるのだから、きっとどのカップも同じ分量になるだろう。椎葉は型が動かないように支えつつ耳を傾けた。
「あたしいっつも思ってるよ。穂は将来いいお嫁さんになるだろうなぁって。綺麗好きだし、おしゃれだし、料理もできるし」
「お菓子作れるだけじゃん。楓にもできるよ」
「あたしは一人じゃ無理だから! 胃袋掴むことなんて諦めてるし」
はいオッケー、と言って生地の注ぎ込みが終わる。型を軽く叩いて空気を抜き、予熱したオーブンに運び入れて、タイマーを二十五分にセットした。
「あとは焼き上がるのを待つだけか」
「待ってる間に洗い物ね」
「わかってるって」
エプロンを外しかけた三城に釘を刺して、二人で流し台の前に立つ。
「私は楓の作るきんぴら好きだよ」
「――え?」
ぽつりと呟いた椎葉の言葉に、三城はきょとんとしてスポンジを泡立てる手を止めた。
「中学で作ったでしょ、きんぴらごぼう。厚み五センチくらいあるやつ」
「あ、ああ……あの滅茶苦茶固かったやつね」
「私噛みごたえいいほうが好きだから、だから私の胃袋は掴んでるよ」
「胃袋だけ?」
こぼれるように笑って、三城はいたずらっぽく首を傾げた。どんな返事を期待してんのよ、と軽く流し見ながら、椎葉は「さあね」と肩をすくめる。
「てかあたしも穂の卵焼き好きだし」
「そんなん作ったっけ」
「憶えてないの? これも中学でやったやつなのに」
じとりと眉をひそめて睨まれて、椎葉は整頓された記憶の引き出しを開けた。「ああ、だし巻き卵ね」と正解を答えると、
「憶えてるじゃん」
「今思い出したの」
これも調理実習の時の話だ。奇跡的に卵の焼き加減がよかったらしく、先生にクラスで一番上手だねと褒められたのだった。
しかし三城には一口しか上げていないし、作ったのもその一度きり。だというのに、彼女のなかで印象強く残されているのは椎葉穂にとって意外な事実であった。こうやって何度か作っているお菓子ではなくて、一度きりの卵焼きだなんて。
「あたしの胃袋も穂ががっちり掴んでるねー」
ヘラの泡を洗い流して言う三城は、椎葉が無事思い出したことに上機嫌であった。胃袋だけ? と真似しようとしたそのとき、エプロンの内側でスマホが着信音を奏でる。
「あ、ごめん、ちょっと」
椎葉は手をタオルで拭って、着信相手を見つめながら廊下に出た。
『し、しし椎葉さん! み、
「…………」
受話器越しのクソチビの声は無駄に大きくて困り果てていた。とりあえず話だけ聞いて――
最後に椎葉穂が思ったことは、男って本当に馬鹿だなということだけだった。
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