残り物

 既読の付かないトーク画面を見つめる響弥の前に現れたのは例のカリスマ委員長だった。最近よく渉に絡んでいるA組の男子生徒――朝霧修。

「神永くん」と呼ばれて顔を上げると、柔和な笑みを浮かべる朝霧が「やあ」と手を振った。職員室前で待ちぼうけていた響弥は、朝霧に目を向けたままへこりと微妙な会釈をする。


「施設棟の四階で彼女が待ってるよ」

「…………はへ?」


 何だって?

 目を丸くした響弥に反して、朝霧は笑顔を一時消去した真剣味のある表情を作った。


「何か問題に巻き込まれたみたいでね、一人で困っていたよ。僕が行かなかったらどうなっていたか……」

「問題って、芽亜凛ちゃんが……!?」


 肯定した朝霧の暗い瞳は、状況がどれほど深刻なものだったかを語っている。響弥の背中に嫌な汗が流れた。

 先週に続いてトラブル発生。またしてもE組関連か――自分が遭ったカツアゲよりも最悪な光景が脳裏をよぎる。


「早く行ってあげるといい。一人のままじゃ心細いだろうからね」

「お、おう……! サンキュー!」


 なぜその場に朝霧が居合わせたかはこの際置いておくとして、ひとまず芽亜凛の元に急がなければ。

 彼は響弥が付き合っている相手と知って、こうして呼びに来たのだ。分をわきまえていると言えるし、彼女の安全を保証してこちらに来たはずである。響弥は朝霧の気遣いに心のなかで感謝しようと思って、けれども、


「貸しひとつってことで」


 横切った響弥の肩をぐっと掴み、朝霧はにこりと口角を上げて言った。響弥の内側で『何か』がすぅっと目を開く。

 響弥はぱちぱちと瞬きをして、「……あぁ、うん」と苦笑した。


「今度望月くんのこと教えてよ。中学の話とか聞いてみたいな」

「べ、別にいいけど」

「ああ、よかった。それじゃ、また」


 心から安堵したような息をつき、朝霧修はにこにこと笑顔を崩さずに廊下の向こう側へと歩いていった。

 響弥は胸に手を当てて「びっくりした……」と呟く。まるで最初から恩を売るのが目的だった……みたいな雰囲気を微弱ながらに感じ取りドキリとした。

 ギブアンドテイクか、まあそれも仕方ないだろう。あれじゃあ渉が圧されるのも無理ないなと思い、とにかく先を急ごうと響弥は足を動かした。




 両目が充血した芽亜凛を見て、保健室で目薬をさそうと提案したのは響弥だった。


「い、いったい何があったの?」


 椅子に腰掛けて目薬をさし終えた芽亜凛に尋ねる。

 四階の手洗い場で合流した芽亜凛は、何事もなかったかのように平然としていた。何ともないはずないのに。彼女がそんなふうだから、響弥は抱き締めたい衝動を抑えた。


「目にゴミが入って、動けなくなっていたところを助けていただきました」

「四階で何してたの……?」


 赤みの引いた芽亜凛の瞳が、質問が多いですねと言わんばかりに響弥を見つめる。


「女の子にはいろいろあるんです」

「いろいろって?」

「ひと気のないお手洗いを利用することとか、男の人にもあるでしょう?」

「んー……俺はないけど」


 芽亜凛は使い切りの目薬をゴミ箱に捨てて、「テストを取りに行きましょう」と立ち上がる。なんだか話を逸らされた気がするが、響弥は「そうだね」と賛同して保健室を後にした。


 再び職員室前で待つことになり、響弥はE組担任とした会話を思い出した。

 芽亜凛が四階にいるとも知らずにずっと待っていた時――自分が届けましょうかと先生に持ちかけた。だが、テスト結果は本人への手渡しじゃないと駄目らしく、受け取れなかった。手間がかかるが、やはり直接受け取ってもらうしかない。

 そうして、職員室に入って出てくるときには、芽亜凛は紙の束を抱えていた。


「どうだった?」

「……普通です」


 芽亜凛は伏目がちに答え、階段をすたすたと上る。解答用紙とは色の異なる結果表には、『3』という赤文字が透けて見えていた。学年三位だ。


(三位……すご)


 響弥は素直に称賛したが、しかし芽亜凛はどこか落ち込んでいるように見えた。凡ミスでもしたのだろうか。それでも十分すごい成績だと思うけれど――響弥はかける言葉が見つからず、黙って隣に並んだ。


(もっと相談してくれてもいいのにな……)


 響弥は横目で芽亜凛を見る。委員会後のことも今回の件も、芽亜凛は詳しく話そうとしない。まるで言うのを恐れているようにかたくなだ。

 ――信頼されてないのかなぁ。

 内側で、キヒヒと笑う、もうひとり。


 誰もいない教室から鞄を取って、今度こそ帰宅である。

「芽亜凛ちゃん土日はどう過ごすの?」「テストで疲れてるもんね、ゆっくり休んでね」「またメールするね」響弥はほとんど一方的に話しながら、外履きのローファーに指を掛けた。瞬間、二本指に痛みが走る。


「ってえ!」


 反射的に手を引くと、人差し指と中指の第一関節から、つっと赤い線が生じて裂けた。だらりと流れた血液が、手のひらに向かって指を伝う。


(は……、何……?)


 響弥は、血が垂れないようにと気をつけながらローファーのなかを覗き込んだ。

 履けばアキレス腱に当たる踵部分に、カッターナイフの刃がセロハンテープで雑に留められている。斜めに飛び出たそれは、靴を出そうと指を掛ければ当たる仕組みになっていた。響弥は目を細める。誰の仕業だ――?


 宮部か、新堂か、先ほど怪しい動きを見せた宇野涼介か……。それとも三城楓か――?

 奴らの傾向からして、どちらかと言えば女子の仕業のように思えた。新堂明樹は直接呼び出してくるような奴で、宮部陸はなりふり構わず暴力を振るってくるような奴だ。彼らがこんな陰湿な企みを犯すとは思えない。


「っ――」


 ヒッ、と鳴る声を飲み込んだような小さな悲鳴が聞こえた。

 顔を向ければ、芽亜凛が響弥の手を凝視しているではないか。ぱっくりと割れた傷口ではなく、そこから流れ出る血を見て瞳を震わせている。

 響弥は空笑いした。


「ははは……いたずらみたい」


 気づかぬ間に、だいぶ血液が溜まっていたようだった。手のひらに収まりきらずに溢れ出た血は、手の甲にまで伝っている。

 響弥はハンカチを取り出そうとポケットに手を伸ばし、しかし芽亜凛はそれよりも速く、弾かれたように反応して、自分のハンカチを響弥に押し当てた。


「め、芽亜凛ちゃんハンカチが」

「いいから――っ! 押さえてください!」


 悲鳴と怒鳴り声が混ざった、半ばヒステリックな叫び声が昇降口に響いた。

 響弥は丸い目を開閉させる。こんな芽亜凛を見るのははじめてだ。こんなに、感情を剥き出しにする彼女を見るのは――


「もう……たくさんです」

「え?」


 芽亜凛は蚊の鳴くような声で呟いた。


「迷惑電話に、催涙スプレー……玄関前での嫌がらせ……」

「な……、へ? 何それ――」

「私たち……別れたほうがいいのかもしれませんね」


 ――え?

 芽亜凛はハンカチから手を離し、ふらりふらりと背を向けた。「め、芽亜凛ちゃん!」響弥の呼ぶ声にも反応せず、一人で生徒玄関を抜けていく。


「芽亜凛ちゃん……」


 残った響弥は肩を落とし、目線の先の床を見た。思わず『えっ』と声が出そうになった。

 スマホが一台、落ちている。芽亜凛の使っているスマホだ。まさかハンカチを取り出した時に落としたのか。


 響弥は空いた手に血が付いていないかを確認して、スマホを拾った。今ならまだ間に合うかと校門を見たけれど、芽亜凛はもういなかった。

 どうしよう。今日は金曜日だし、明日会うことはできない。いつもバス停で別れてしまう響弥は芽亜凛の家を知らないし、彼女に届けるすべもない。――でも、


 月曜日になれば、学校で会えるよね。


 それが叶わぬ現実とも知らずに、響弥はきたる日を信じた。

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