見えない救済者

 誰? と芽亜凛は身構えた。なぜこのタイミングで、こんなところに来たのだろうかと、相手が男子ということもあり警戒心を強くした。

 片腕ふたつ分の距離にある気配は、「心眼の練習?」と風のように言った。互いが手を伸ばせば触れられそうな位置から放たれた、状況に不釣り合いな言葉である。一人きりで泣いている女子に、普通そんなことを言うだろうか。それとも単なるジョークか――わかるのは、仄かな笑みを織り交ぜた聞き覚えのある声だということ。


「……ぁ、……っ」


 戸惑う芽亜凛は何か言わなきゃと喉を絞ったが、痛みでうまく声が出せない。風邪で喉が腫れている時みたいに、唾を飲むたびに異物感が生じた。

 芽亜凛の見えない視界のなかで、「ん?」と彼は小首を傾げる。あなたは誰ですか。どうしてここにいるんですか。声が出ないんです。目が開けられないんです。助けてください――言葉のすべてを伝えられたらどんなに心地がいいか。

 沈黙に流されて、芽亜凛は喉に手を当てて掻くように動かした。


「こ……こぇが……ゲホッゲホッ」


 ノイズがかったしゃがれた声は、直後咳で掻き消される。芽亜凛は、喘息持ちのように発作的にぜえぜえと息を吐いた。涙を流し、苦痛に咳き込む自分は今、どんな醜態を見せていることだろうか。

 痛みをこらえて肩で息をしていると、「声が出せないの?」と、思いもよらぬ優しい声が返ってきた。芽亜凛はゆっくりと顔を上げて、力強く頷いた。


「そう。わけありのようだから今回は見逃すけど、ここに来ちゃ駄目だよ。いいね?」


 注意とは裏腹に最後まで優しく言って、彼は芽亜凛の反応を仰いだ。確かにそのとおりだと思ったが、同時にこの人に対する疑念も湧いた。

 立入禁止エリアに来ていけないのはそちらも同じのはずである。つまりこの人は、他人に注意をする権利のある立場の者――例えば、放課後ひと気のない四階に用があって、物音を偶然聞いて五階に上ってきた人。校舎を見回る立場にある――生徒会執行部。


 彼の正体に何となく察しが付いて、芽亜凛はおずおずと首肯した。

 この人はきっと味方ではない。けれど敵でもなければ悪でもない。

 偶然居合わせて様子を見に来ただけの、物好きな二年A組の男子生徒だ。


「それじゃあ手洗い場まで案内しようか」


 彼は芽亜凛が求めることを言わずとも汲み取っている。だがその気配は動こうとせず、こちらが承諾するまで手を出すつもりはないのだと窺える。

 芽亜凛が頷きかけたとき、スカートの内側でスマホが震えた。繰り返されるバイブレーションは、それが電話であることを告げている。芽亜凛は眉をひそめて、ポケットの上から触れた。

 ――いったい誰から? 知り合い? また迷惑電話? それともあの人から……?

 様々な可能性が頭のなかで渦を作る。芽亜凛はスマホを取り出し、画面を上にして彼に差し出してみせた。


「見ていいの?」


 彼はワンクッションを口にするが、どうせ芽亜凛が肯定せずともすでに覗き込んでいることだろう。コクリと芽亜凛が顎を引けば、彼の気配が数歩近寄った。画面に表示された番号を見て彼は言う。


「B組の宮部くんから電話みたいだ」


(えっ……)


 ――宮部って宮部陸?


(どうして彼がまた……?)


 先週響弥を通じて関わったばかりの彼が、今度はいったい何の用があるというのだろう。その話以前に、宮部に番号を教えた覚えはないし、交換だってしていない。表示されているのは未登録の番号のはずである。しかし、いったいどこで知った――という疑問は、連日迷惑電話に悩まされる芽亜凛には野暮というものか。

 芽亜凛はムッと唇を歪めることで、気持ちを表そうとした。――あなたは知っている番号のようですけど、私は知りません。未登録の番号表示なら『知らない人からだね』と言えばいいのに、わざわざ宮部陸の個人情報を晒すようなことを告げる意味もわかりません。突っ込みたいことは山ほどあるが、喉が否定するので我慢した。


 止まないコールを前にして、「出ようか?」と彼は提案する。そこは『切ろうか?』ではないのか。選択の余地を与えているようだが、芽亜凛は踏ん切りがつかず思案した。


(宮部陸……相手が知れた今、何を目的でかけてきたのかは気になるところだけど……この人に出てもらっていいの……?)


 芽亜凛が否定しなかったことを迷いと捉えて、「嫌なら切るし、出るならスピーカーにして話すよ」と彼は補足する。その言葉に後押しされて、芽亜凛は渋々と頷いた。もしここで切ったとしても、宮部はまたかけてくるだろうし、自分は気になってしまうだろうから――後でも今でも結果は同じだ。


「じゃあ繋ぐね」


 画面をタップする音がして、彼は電話に出た。スピーカーにして一拍置いた後、


『あ、橘芽亜凛さん?』


 まさか繋がると思っていなかったような、宮部の上擦った声がした。二年B組の宮部です、なんて礼儀正しい挨拶が続くはずもなく、彼は芽亜凛の反応を窺って息を殺した。そして、


『もしもーし、聞こえてますかー?』

「どちら様かな」

『……は?』

「きみはどちら様って訊いてるんだよ」


 抑揚のない男の声に、スピーカーからは唇を舐めたような湿った音がした。緊張を解そうとしているみたいである。


『そっちこそ、誰? 彼氏じゃないな、他人の電話に勝手に出ていいのかよ』

「用件は何かな、宮部くん」


 電話越しの宮部がゴクリと唾を飲んだ。芽亜凛もこの発言には驚いてしまった。


『あぁ? 何言ってんだお前』と言う宮部の声は風に煽られたように震えている。

「なら陸くんと呼ぼうか。用件は何?」と返せば、『だ、誰だお前……マジで誰だよっ!』と怒鳴り声が割れた。

 芽亜凛はペンケースを握る手に力を込める。電話先の見ず知らずの相手が自分の名前を知っているのだ。宮部陸は今、ただならぬ圧を感じていることだろう。本来芽亜凛が感じるはずだった恐怖を。


「そういきり立つなよ。用件を言うなら今しかないんだ。どのみち着信拒否されるんだから、これが最後のチャンスと思わなくちゃ」

『……はあ? お、お前……っ』

「そのまま奥歯を震わせて逃げるか? きみのプライドが許すならこちらは構わないよ」


 彼の言うことはもっともらしく、喜怒哀楽の読めない声色である。挑戦的ではあるが、相手の神経を逆撫でするような笑い声はない。

 本当に宮部と知り合い同士で、のんびりと雑談をはじめられたらどうしようかと不安もあったが、相手が芽亜凛にとって知らない番号であることは理解しているようだ。他人の携帯電話で仲良く話をされても困るし、彼の対応は常識の範疇か。宮部にとっては違うだろうけれど。

 宮部陸は大きな舌打ちを鳴らして、身を落ち着かせるように荒い鼻呼吸を繰り返した。


『用があるのは橘さんだよ。お前じゃないし、そもそも誰だよお前。人の電話に勝手に出てんじゃねえよ』そう言った後でせせら笑い、『まさか新しい彼氏とか?』

「通りすがりの可能性も考えてほしいな」


 少しも情報を与えない切り返しに、再び舌打ちが聞こえた。よほど相手が誰か知りたいらしい。自分だけが知られているのはフェアじゃないとでも思っているのだろう。


『もういい。直接会いに行ってやるよ』


 その言葉を最後に電話は切れた。「会いに来るってさ」と言って、彼は芽亜凛の手にスマホを戻す。――会いに来るって、まさかここに?


(結局何が言いたかったの……? 他人に話せないから私に会いに来るってこと?)


 相手を突き止めるのに夢中で、宮部が真に何を求めてきたのかまったくわからなかった。


 そんな芽亜凛の心情を読むかのように、「余計なことしちゃったかな?」と彼は言う。芽亜凛は小さくため息をつき、いいえと首を振った。

 彼がここに来たのは誤りじゃないし、あのまま一人でいるよりも安心感がある。視界不良、発声不可の自分に、彼は真面目に接してくれているほうだ。

 それに、どうせ電話に出なくとも、宮部陸は接触を試みようとするはずである。芽亜凛一人では電話に出られなかったし、彼がいたことで威嚇にもなった。


 しかし同時に、不穏な可能性が危惧される。宮部陸が新堂明樹と繋がっているのなら、宇野涼介と関わっていてもおかしくない。一人を起点に、また別の誰かがここに来て、自分を陥れようと忍び寄る。陰口――集団リンチ――暴行。心に錆びついて剥がれない負の記憶が、ゾクリと悪寒を駆り立てた。

 名前の頭文字がAかもしれないこの男は、「もう二度とかけてくるなくらい言えばよかったね」と冗談っぽく笑って、「お手をどうぞ」と移動を誘う。今はとにかくここから離れ、状態を立て直すことに専念するしかない。


 芽亜凛はペンケースをスカートに入れて、片手を浮かせた。彼はそっと指の腹で握り取る。女子の手なんか簡単に包み込んでしまえるような大きな手だ。


「心配しなくても、彼がここに来ることはないよ」


 彼はそう断言して芽亜凛の手を引いた。なぜ? と芽亜凛が首を傾げると、


「電話に出たとき、こちらの声を聞きたがってきただろう? 宮部くんはきみがこんな目に遭っていることを知らないってことさ。だから少なくとも、きみに悪さした奴とはグルじゃない」


 なるほど……と芽亜凛は深く納得した。状況を知り得ていない宮部は、誰かが勝手に出たと思い込んでいた。知っていれば『お助けヒーローか?』とでも煽ってきそうなのに、宮部はそうしなかった。もしかしたら、芽亜凛が席を外している間に相席が代わりに出たというような状況を想像していたのかもしれない。だから、まさか声が出せないとも思わないし、その場に本人がいるという思考にも至らなかった。


「まあ、今後繋がる可能性はあるけどね」


 この意見には同意である。宮部のあの慌てっぷりを思えば、やはり何か企みがあったように思える。名前を最後まで自白しなかったことにも合点がいく。芽亜凛が出ていてもそれは同じだっただろう。

 芽亜凛は手を繋ぐ彼を見上げた。この人の言葉には、人を納得させるだけの根拠と説得力が宿っている。どこまでも自分本位で動く人間ではあるが、言葉の端々にある知性は確かだ。以前、善は異常だとか言っていたけれど、あなたはどうなのだと芽亜凛は思った。


「僕の顔が見えてる?」

「い、いえ……」


 ほんの少しマシになった喉で短く答えた。まだ瞳を閉じている芽亜凛には、本当に彼のほうを向けているのかさえわからない。彼は「そっか」と低い声を出して足を止めた。笑みを排除した声色は、なんだかこの人らしくないなと芽亜凛は感じた。


「ここから下が階段だよ。段数は十一。十一段目で踊り場に着く。一歩進んで、手すりに掴まって。そう、その下が一段目」


 彼は芽亜凛の爪先にまで目を配り、手取り足取り丁寧に誘導した。足を踏み外して支えられるなんてまっぴらごめんのため、芽亜凛も慎重に下りていく。思わず繋ぎ手を強く握ると、彼も同じように握り返した。踊り場に着いて、もう十一段。一段一段、一歩一歩と進んでいった。


「ああ、四階に着いたよ。もう少しで手洗い場だ」


 彼は階段を下りきっても手を離さず、芽亜凛を最後まで導いた。彼にとってはこの行いも異常の内に入るのだろうか、芽亜凛にはわからない。ただこの感情を良心じゃなければ何と言うのか、彼の意見を聞きたくなった。


(不思議ね……見方を変えればいい人に思えるのだから。この人も、小坂こさかさんも)


 彼は立ち止まり、「ここが蛇口」と繋いだ芽亜凛の手を移した。ひんやりとした冷たい金属の感触がして、すぐに蛇口をひねって水を出し、顔と瞳をゆすいだ。


「代わりの人を呼んでくるよ」


 その声に芽亜凛が瞼を持ち上げたときには、彼の姿はもうどこにもなかった。


    * * *


「芽亜凛ちゃーん!」


 入念にうがいをして顔を洗っていると、響弥が息を切らしながらやって来た。はあはあと情けなく息を上げて、「だ、大丈夫!? 誰に、何されたの?」と隣で騒ぎ立てる。

 芽亜凛はハンカチで顔を拭き、「大丈夫です。もう何ともありません」とだけ答えた。


「本当に?」

「本当です」

「本当に本当に、本当に大丈夫?」

「本当です。信じられませんか……?」


 わざと疑わしげに返してやれば、響弥は押し黙って、ううん、と頭を振った。唇は不服そうにつぐまれて、眉尻はしょんぼりと垂れている。何があったか教えてほしいのだろう、けれど芽亜凛は、これ以上話を大きくする気はなかった。

 余計なことを言うと、狙われる。戸川先生みたいに、宇野や宮部が死んでしまうかもしれない。

 ――どんなに不満が募ろうと、名前を出すことはできない。


「手繋いでもいい?」と響弥は片手を伸ばした。芽亜凛は先ほどとは逆の手を出して、その手を繋いだ。水で冷えた手が多少なりとも温かくなる。響弥は満足げに微笑んで、職員室へと手を引いた。


 階段を下りている途中、目の前に素早く影が現れた。


「っ!?」


 目を大きく見開いて芽亜凛と響弥を見た宇野涼介は、足をもつれさせながら慌てて階段を戻っていく。驚いたのは芽亜凛も一緒だった。


(どうしてまた……っ――)


 芽亜凛は開いた口を閉ざして響弥の顔を見上げた。まずいのではないかと、瞬時に悟った。帰宅部である宇野涼介が、何の用もないのにこんな場所に来るなんて、そしてふたりを見て逃げ帰っていくなんて、おかしいではないか。

 響弥は眉をひそめて、宇野の行く先を見据えていた。何だったんだと疑問を浮かべた表情でもあり、もしやあいつがやったんじゃないかと気づいているようにも見えた。

 うるさくて仕方ない鼓動が、どうか手のひらを通して伝わりませんようにと芽亜凛は願った。

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