犬女

 ハードルが一礼するかのごとくのろのろと倒れた。

 タータントラックの上で振り返った世戸優歌ゆうかは走るのをやめ、しまったと顔色を曇らせる。椎葉しいばの隣で水分補給をしていた三城さんじょうかえでは、瞬く間に鬼の形相を作り彼女の元に向かった。

 世戸の肩を押して胸ぐらを掴み寄せ、「あんたいい加減にしなさいよ!」と、三城が怒り散らす。


「何回同じミスしたら気が済むの? やる気ないなら退部してくんない? あんた陸上部向いてないよ」


 世戸は眉間にしわを寄せ、三城の手を押しのけた。


「今のは私の問題でしょ。あんたには関係ない」

「同じミスを繰り返されるこっちの身にもなりなさいよ」

「だからぁ、私がミスしてあんたに迷惑かけたかって聞いてるんだけど」


 今しているハードル走は練習メニューであり、トレーニングのひとつに過ぎない。誰かのミスで団体に迷惑がかかることはないし、世戸の言うとおり個人の問題である。強いて言うならハードルを起こす手間がかかるという点か。

 うんざりした顔で嘆息し、世戸は胸の前で腕を組んだ。


「イライラするのは勝手だけど、それで私に当たらないでよ。先週から、あんたちょっとおかしいんじゃない? 重いなら休めば?」

「は? 何?」

「生理顔で怒鳴んないでっつってんの」


 そう返せば、三城はこめかみに血管を浮かべて世戸優歌に掴みかかる。「ちょっとやめてよ!」と世戸の金切り声が響いて、先輩と話していた瀬川せがわ千晶ちあきが駆けていく。

 やれやれと、椎葉みのりはタオルを首から外した。最近毎日のように怒る三城の姿を見ている。今日はいつにも増して沸点が低いようだ。

 彼女は別に椎葉のフォローがなくても一人で戦い続けるだろう。納得するまで相手と当たり、後は子供のように膨れていじけるだけ。後から椎葉が愚痴を聞いてやれば、三城の機嫌はリセットされる。だが最近周りに当たりがちな、不安定な彼女を諌めるのは、自分の役目だとも思った。


 仕様がないなとベンチから腰を上げたところで、「椎葉さーんっ!」と、聞き慣れた馬鹿の声が弾けた。顔だけ向けると、フェンス越しに両手を掛ける、食い気味の宇野涼介の姿があった。

 椎葉はあっさりと方向転換し、扉をくぐってフェンスの向こう側へと行く。


「でかい声で呼ばないで。何?」

「嫌がらせしてきた」


 ――は?


「だーかーら、あのたちばなめあ――」


 椎葉は自分より四、五センチ低い宇野の頭を叩いた。小気味のいい乾いた音がして宇野は頭を押さえる。


「痛ってえ!」

「声抑えて。じゃないと次は蹴り飛ばすよ」


 宇野は陸上部で鍛え抜かれた椎葉の長い脚を見て顔を歪めた。ずり落ちた鞄を肩に掛け直し、前傾姿勢で今度こそ声を潜める。


「橘芽亜凛に嫌がらせしてきたから、オレにも金くれよ」


 ん! と小さな手のひらを見せる宇野涼介。――いや別に頼んでないし。お駄賃ちょーだいって、小学生のお使いかよ。


「証拠」

「あ?」

「嫌がらせしてきた証拠は?」


 当然の質問をして、彼より大きな手のひらを向ける。ああしたこうしたなんて、口だけなら何とでも言えるだろう。論より証拠だ。見せてもらわないと話にならない。

 宇野の顔は見る見るうちに赤くなり、酸素不足の金魚みたいにぱくぱくと口を震わせた。


「オレにまた上まで行けって言うのか……!」

「いや知んないし。こっちも証拠がないと何もできないから」


 その口ぶりからして用意していないのだろう。何をしたのか知らないが、報酬を求める立場なら録音なりカメラ撮影なりして証拠を用意しておくものだ。そこまで頭が回らなかったのか。――残念。じゃあね。

 馬鹿は馬鹿でも頭の回転が鈍い大馬鹿だと再認識して、椎葉穂はくるりと背を向けた。「鬼ーっ!」と叫ぶ宇野の声を聞きながらトラック上に戻るとする。

 まったく誰から聞いたのやら――新堂しんどうか、宮部陸か。


 椎葉はあの日、確かに新堂明樹はるきに袖の下を用いた。

『C組の神永響弥のこと、なんでもいいから痛めつけてくんない?』

 結果、響弥は顔に怪我を負って帰ってきたが、やったのは新堂ではなくその悪友の宮部陸だという。新堂は言いふらすタイプではないので、手伝う代わりに半分を宮部に渡し、そこから宇野に伝わったと考えるのが妥当だろう。

 随分勝手な行いをしているようだが、椎葉が頼んだのは一回きりである。宇野が何をしようと宮部が何をしようと、椎葉穂には関係のないことだ。馬鹿とハサミは使いよう。上辺だけ装っていればいいのである。


 椎葉はまだ言い争っている三城たちのほうを見た。

 中学の時、部活動の所属先に悩んでいた椎葉を、陸上部に誘ったのが三城だった。彼女から学んだこと、教わったことは多くあり、陸上部にかけるその熱量も知っている。互いの癖を理解し合うほど、隣で見てきたのだ。


 そんな真面目な三城が、やる気のない世戸優歌に目を付けるのは必然的とも言えた。

 三城楓は世戸と出会った当初から、彼女の部活に対する姿勢と意識の低さが気に食わず、それを庇う瀬川千晶含め嫌うようになったのだ。だから彼女たちが練習に不誠実なのは今にはじまったことではないし、三城が怒っているのは最初からなのである。――とは言え、


(さすがに当たり過ぎでしょ……)


 三城は依然、神永響弥と芽亜凛とのことで苛立っている。そしてその苛立ちは、先週の一件から勢いを増した――


 彼女たちの揉める様を遠目で眺めながら、はてさてどう割り込もうかと考えた。このまま部長に任せておけばいい気もするし、けれども味方に付くべきかとも思う。椎葉が間に入ることで彼女らの頭が冷えればいいが――

 ふと横から視線を感じて、椎葉は首を動かした。

 木陰でラケットを握り佇むのは、テニス部の松葉まつば千里。千里は椎葉と目が合うと、人差し指をつつっと小さく差した。方向を辿り、椎葉は自分の足元を見る。触れることなく自然停止したような位置で、黄色のテニスボールがひとつ転がっていた。拾い上げて、千里に近付いた。


「あ、取ってくれてありが――」

「あんた何か文句でもあるの?」


 千里の言葉を遮って、椎葉穂はついに吠えた。


「私のことクンクン嗅ぎ回るのはやめてくんない? すごく不愉快だから」


 言い切った後で、私ではなく『私たち』のことか、と頭のなかで訂正した。

 先日トイレで言ったはずだ。誰かにチクったりしないよねと。あれは、これ以上首を突っ込むな、と釘を刺したつもりである。――なのに、なぜまだこいつは私の周りを彷徨く。


「嗅ぎ回ってなんかないよ。親友のために頑張ってるなぁって、見てただけ」


 だからその『見てただけ』が問題であるとどうして気づかない――?

 椎葉は極力表情に出さぬよう努めた。


「あんたいちいち鼻につくんだよね。自覚してる?」

「え、酷い……わたしそんなつもりないよ」

「じゃあ何? 何のつもりで人のことジロジロ見るの?」


 そう、まるで椎葉のことを監視しているみたいに、ふとした時に千里の影がちらつくのだ。見ているだけで反応しない。目立った動きをしない。それが逆に気味が悪いことをこの子はわかっていないのか。

 ――それとも、わかってやっているのか。


「……わたし、椎葉さんはわたしと、同じタイプだなぁって思ってるよ」

「は?」


 予想外の回答に椎葉は片眉を吊り上げた。――誰と誰が同じタイプだって?


「楓ちゃんのために頑張ってるし。わたしは凛ちゃんをサポートしてる。ほら、おんなじ」

「あんたみたいなコウモリと一緒にしないで」


 突き放すように言ってやると、千里は「コウモリ?」と首を傾げた。本当に自覚がないのか、お幸せな子だ。なら教えてあげるよ。


「誰にでも媚びを売るコウモリ女ってこと。そういう人って、結局誰の仲間にもなれないで独りになるんだよ」


 いろんなクラスに顔を出し、いろんなグループを行ったり来たりする松葉千里はコウモリだ。どのグループにもいい顔をするが、どのグループにも属さず、肩入れしない。いくらコミュ力があって交流が広くても、ほとんどは友達止まり、もしくは未満。

 よその分際でクラスに来ては笑顔を振り撒き、日常的な話をして帰っていく。それを椎葉の意思とは反して、グループのみんなは快く受け入れる。どこにも属していない子を、まるでメンバーであるかのように待遇する。あの世戸グループの楠野と岸名でさえそうだった。同じ女子テニス部員ということもあって、より好意的に接するのだ。


 椎葉はそんな千里のことが嫌いだった。椎葉には帰るべき場所があり、優先すべき仲間内もはっきりしている。松葉千里とは似ても似つかない、決定的な違いである。

 もしも千里にそんな場所があるとするならば、それはきっと――


「あはは……わたしには凛ちゃんがいるから」


 そう、そのとおり。

 彼女にはE組の委員長、百井ももい凛がいる。ほかの誰といるときも、意識の矛先には常に百井凛がいる。三城と話している時だって、跳び箱を教わっている時だって、今だってそうだ。彼女が最優先するのは、百井凛。

 千里が尽くすのは、ただ一人のみなのだ。


「それじゃまるで犬じゃん」


 小馬鹿にするように椎葉は肩をすくめた。

 ただ一人、ご主人様に仕えるだけの犬。一人を想い、一人に尽くす犬。優先されるべき帰る場所を理解し、主人に尻尾を振るだけの犬。

 ――何が親友だ。犬の分際で厚かましい。


「だから、だよ」


 千里は小刻みに肩を揺らし、くすくすと笑った。大層、可笑しそうに。


「だからって、何?」

「同じタイプって、言ったでしょ?」

「…………」


 ――ああ、こいつ、そういうことか。

 最大限の侮蔑を込めて放った言葉が、思考の巡りと共に跳ね返る。顔の温度が数段階上がったのを感じて、椎葉穂は唇を引いた。

 親友のために頑張ってる――同じタイプ。

 千里は、三城に対する椎葉の姿勢と、凛に対する自分が同じだと言ったのだ。

 彼女の言う『同じ』は、犬同士と思ってのことだった。


「一緒にしないで」


 先刻言った言葉を繰り返して、椎葉はテニスボールをぶん投げた。千里は「あ」と口を開き、弧を描いて背後に飛んでいくボールを目で追った。


「取ってくれば? 犬なら『取ってこい』できるでしょ」


 先にのが自分だとも気づかずに、椎葉穂は意地悪く告げた。

 振り向いた千里はくすりと口角を上げて、敬礼した。


「わんっ」


 ――ああ、本当にムカつく女だ。

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