きみを導く鎖の音
夏休みまで残すところ一ヶ月を切った、六月二十一日の放課後。クラスメートが続々と部活動に向かうなか、芽亜凛は教室で探しものをしていた。
ない。ないのだ。机に入れていたはずのペンケースが、鞄のなかにもどこにもないのだ。
異変に気づいたのは掃除から帰ってきた後のこと。移動教室から戻り、その後掃除時間のために教室を出た際には、確かに机のなかに入っていた。しかし戻ってきたらこのありさまである。
(……まさか……)
芽亜凛は左斜め前の座席を窺った。そこは以前、眼鏡ケースがないと言って騒いでいた
――まさかあの時の腹いせに、ペンケースを?
そこまで考えて、芽亜凛はかぶりを振った。いくらなんでもそんな、自分たちが真っ先に疑われそうなことを彼女たちはしないだろう。いまだ勘違いされているとは言え、仕返しだなんて、それじゃあまりに幼稚ではないか。
けれども、敢えてやったという可能性は――?
芽亜凛は楠野の席を見据えた。二人ともすでに部活動に向けて教室を出ている。天気は曇りであるため、女子テニス部の彼女たちはグラウンド上に出ているはずだ。机のなかを見てみるか――しかしまだクラスに人は残っている。調べるなら誰もいなくなった後でだ。
はあ……と思わずため息をついた。どうして彼女たちを疑い、彼女たちから疑われなきゃならないのか。わずかな期間とは言え、
ぐずっていても変わらない。芽亜凛は、掃除前に訪れた多目的教室を覗いてみようと席を立った。もしかしたら置き忘れているだけかもしれないし、見落としがあるかもしれない。
響弥には中間テストの結果を取りに行くと伝えてあるので、職員室前で落ち合うことになるだろう。怪しまれる前に早く見つけて向かわないと。もし誰かの仕業と判明すれば、戸川先生と同じ結果になるかもしれない。それだけは避けなくては――
「あ、」
扉の前で鉢合わせた男子は、芽亜凛を見るやぽかんと口を開いた。横切ろうとする芽亜凛の行く手を写し鏡のように移動して、
「探しものしてるんじゃねーの? ペンケースとか、筆箱とか」
芽亜凛は目をしばたたかせた。彼は何を思ってそんなことを言ったのだろうか。ええ、そうですよ、と肯定してほしいのか。それとも、どうしてそれを? とでも返してほしいんだろうか。どちらにしろ、なぜ自白したんだろうと、芽亜凛は不思議に思った。
「知っているんですか――」
「知ってる!」
宇野は得意げに言って、ポケットに入れた手を引っ張り出した。その手にあるのは、間違いない、芽亜凛のペンケースである。
返してください、と芽亜凛が口を開く前に、宇野は数歩後退した。このとき話し合いに持ち込もうとせず、反射神経で奪い取っていれば、面倒な事態にならなかったのに。
宇野はくるりと踵を返すと、廊下を全速力で駆けていった。
(え?)
その後ろ姿を目で追えば、宇野は振り向いてペンケースを振る。そうしてまた、廊下を走り抜けていく。『返してほしけりゃ、ここまで取りに来い!』と言っているふうだった。
「もう、なんで……」
呆れながらに呟き、芽亜凛は宇野の後を追った。宇野と違って全速力ではなく、ぱたぱたと緩やかな走りで付いていく。子供騙しのくだらない鬼ごっこに付き合っている暇などない、早く取り返して戻らなきゃと、芽亜凛は甘く考えていた。
宇野の逃げ足が速いのか、芽亜凛のやる気が低いのか、二人の距離は一向に縮まらない。
宇野は渡り廊下を渡って、息を切らしながら階段を駆け上がる。時折後ろを振り返り、芽亜凛がちゃんと付いてきているかを確認しながら、四階まで上り詰めた。
芽亜凛はそれをほとんど歩きに近いペースで追った。いったいどこまで行くつもりなのか。このままぐるぐると校舎を周るというのなら、さっさとラストスパートをかけるのが吉か。
再び渡り廊下から生徒棟に戻るかと思えば、さらに宇野は封鎖しているチェーンを越えて、屋上への階段を上がっていった。
芽亜凛は何度目かのため息をつき、チェーンを越える。この先に渡り廊下は存在しないし、屋上は施錠がされている。つまり行き止まり、チェックメイトだ。
宇野は一番奥の扉の前にいた。前屈みで肩を上下させる背中に、芽亜凛はゆっくりと歩み寄る。
「気は済みましたよね、返してください」
呼吸を整えて振り向いた宇野は、「ははっ!」と不敵な笑みを湛えた。そしてペンケースを差し出した手とは別に、芽亜凛の目の前に現れたのは、手に収まるほどの小さなスプレー容器。
確か宇野は制汗スプレーを、よく人に向けて振り撒いていた。そのことを愚鈍な視界で思い出し、しかし大きさは遥かに異なるなと気づく前に、プシュッ――
「うっ!」
強く目を塞いだが遅かった。スプレーが噴射された音を合図に、芽亜凛の視界は真っ暗になる。
「ははっ! やったやった! やってやった!」
ばたばたと足を鳴らし、宇野はペンケースを芽亜凛に投げつけて高々と走り去っていった。鎖の揺れる音を最後に、人の気配が消失する。
「っ……ゲホッゲホッ、ゴホッゴホッ……」
芽亜凛は激しく咳き込んだ。空気を吸おうとすれば、拒絶するかのように肺が跳ねる。まるで身体に侵入した不要な気体を吐き出したいと、全身が訴えかけているようだった。
痛む喉を押さえて、芽亜凛はその場にへたり込む。スプレーのかかった顔全体が、火傷したみたいにひりついた。目は先ほどから開けられず、瞼の内側で眼球がごろごろと暴れ回っている。刺激で涙が滲み出てきた。
宇野の目的は最初からこれだったのだ。芽亜凛を上階へと誘い込み、そこで催涙スプレーを吹きかける。場所はどこでもよかったのかもしれないが、人目につかないところを選んだのだろう。
(ど、どうして……どうしてなのよ……)
彼に襲われる理由に見当が付かず、芽亜凛はペンケースを手繰り寄せて強く握った。目が見えないこの状況下、手探りで元来た道を戻らねばならない。ここ五階は手洗い場もトイレもなく、顔を洗うには暗闇のなかを一人で進んで、階段を下りるほかないのだ。
行き場のない怒りと虚しさに、芽亜凛は唇を噛み締めた。どうして自分がこんな目に遭わなきゃならないの、どうして自分ばかりがと、己に降りかかるすべての試練を恨んだ。
せめて片目だけでもどうにかならないかと開眼を試みたが無理だった。視界さえどうにかなれば、連絡して助けを呼べるのに。
助けを呼ぶ――? 誰に――?
闇のなか、あどけない笑みを向ける凛の姿が浮かんだ。芽亜凛ちゃん、と無音で言って、おいでおいでと手招きをする。その傍らに現れたのは千里。二人は手を繋いで微笑み合うと、背中を向けて歩き出す。
悠々とやってきた渉は、こちらを一瞥した後二人を追って消えていった。ほかに誰か……と周囲を見渡せば、萩野がバスケットボールを指の上で回していた。目もくれず、後ろを向いて去っていく。
芽亜凛ちゃん、と再び唇が蠢いた。顔を上げた響弥はにっこり笑うと、握ってくれとばかりに手を差し出す。告白された時と同じような光景に、瞼の裏が痙攣した。
芽亜凛ちゃん、と響弥が呼んだ。だけどもそれは彼じゃない、もうひとりの彼の声。響弥が白い歯を見せて笑うと、蕾が花咲くみたいに髪の色が変化する。
芽亜凛ちゃん。芽亜凛ちゃん。芽亜凛ちゃん。芽亜凛ちゃん。
やなやつぜんぶ、わたしがころしてあげようか。
「……う、うぅぅっ……」
気づけば痛みによるものではない、心の涙が溢れていた。ああ、私を助けてくれる人はいないのだと、助けを求めることはできないのだと思った。
私が呼んだら、その人は傷付く――傷付いてしまう。血で、泥で、穢してしまう。せっかく取り戻した日常をいとも容易く壊してしまう。敵も味方も、誰一人として頼ることはできない。そうしていつまでも、暗い暗い湖を――私はずっと泳ぎ続ける。ずっと、ずっと、独りぼっちで、どこまでも――孤独に――ゴールのない水のなかを――
そのとき、ジャラ……と鎖の揺れる音がした。
淡々と階段を上る規則正しい足音が。上り切って一度止まり、再び歩き出す足音が、こちらへまっすぐ近づいてくる。
芽亜凛は肩を強張らせ、恐る恐る振り向いた。足音は手前でぴたりと止まり、代わりに、
「やあ」と、朝の澄んだ空気を思わせる爽やかな声が降ってきた。
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