もう離さない

 誰よりも早く教室を出た芽亜凛は、昨日作った千里と小坂とのグループトークを開いた。

『用があるから一緒に帰れない。ごめんね、二人で先に帰ってて』と打ち込み送信する。すぐに既読が付き、『りょ!』と敬礼しているスタンプを千里が。『もしかして男?』と、小坂が疑問符を浮かべるスタンプ付きで送ってくる。


 ――男の人ではあるけれど。言わないほうがいいわね。


 詮索されたくはないし、警察と会っているだなんて、知られるわけにはいかない。二人と合流せずに、急いで教室を出たのは、後をつけられないようにするためだ。

 芽亜凛は、『ただの知り合い。行ってきます』とメッセージを返してスマホをポケットに入れた。生徒玄関で靴を履き替えて、ネコメと約束した場所へ向かうとする。


    * * *


 ――あの先輩はいったい、僕のどこが気に入らないのだろう。


 バスケ部に属していた頃からそうだったと、朝霧はずっと前から気づいていた。

 朝霧に対する四月朔日は、ほかの後輩に接するよりも一歩距離を引いていた。片付けを手伝おうと手を伸ばせば、『いや、いい』と断られる。お疲れ様です、と朝霧が笑い掛けると、浅く眉をひそめて視線を逸らす――それでも先輩は、表に出さぬよう努めていたほうだった。

 この人は僕のことが嫌いなのかな? 小さな疑問が大きな確信へと転じたのは、バスケ部を辞めたときから。

 四月朔日は朝霧が退部してからというもの、今のように隠すことなく、露骨に嫌悪感を示すようになった。どの後輩よりも優秀で、人一倍働いて、気にかけてやったというのに。


 他人が何を思おうとも朝霧の知ったことではない。けれど、共感能力の低い朝霧しゅうにとって、他人から見た自分のデータは多いに越したことはなかった。

 重要なのは自分自身の振る舞いと評価だ。他人が抱いた、自分への評価。それを知ることは、今後のアップデートに繋がる。だから朝霧は、四月朔日から見た自分自身を、いつか知っておく必要があると思っていた。


「部活が終わるまで待っとけ」


 渉と朝霧を体育館の外に連れ出して、四月朔日は部活動に戻っていった。

 渉は朝霧の隣でスマホを触っている。グループトークで響弥たちに断りを入れているようだ。『ごめん、やっぱり行けないかも』と送信されたのを横目で見て、朝霧は表情を作り変えた。


「ごめんね、お騒がせしちゃったみたいだ」

「ああ、ううん、全然」渉はけろりと答えてスマホをしまう。「えっと、朝霧くんでいいんだよね……? 二年生?」

「うん。二年A組の朝霧修です。きみは?」

「E組の、望月渉です」


「望月くんかぁ、よろしくね」と、朝霧は相手をわかりきった上で挨拶を交わす。

 二年生全員のクラスと名前を知っているのは事実であるため別に明かしてもいいのだが、それじゃヌギ先輩をした意味がない。

 バスケ部の先輩でもあった四月朔日が、望月渉に入れ込んでいることは知っている。そうでもなければ、家もあるのにわざわざ非常事態を装って、あんな人に泊めてくれだなんて頼むものか。


 ――困ってる人を放っておけないのが望月渉だろう?


 どうしても朝霧を渉の家に泊めたくない。且つ、自分の家に泊めてやってもいいが一緒に過ごすのは嫌だと言う四月朔日は、最終的には半分承諾してくれた。

 その半分というのが、朝霧を四月朔日の家に泊めること。そして、渉も一緒に泊まることだった。しかし、果奈を一人にさせるわけにはいかないと言うので、四月朔日は望月家に泊まる。

 正直、どっちでもいい。渉と親しくなる前に弱みを晒してしまったことにはなるが、これで繋がりはできた。


『あなたは知らないと思いますが、望月さんはあなたのことを――っ』


 ――僕のことを、なんだろうね。

 転校生があんなことを言うから、昨夜は渉のことで頭がいっぱいだった。彼は僕をどうしたの? 救った? 救われた? 救おうとしていた? ――だから今度は僕が救う番? 馬鹿馬鹿しい。

 朝霧にとって大事なのは今の自分だ。過去へは執着も興味もない。

 だがしかし、渉と親しみがあったという情報と可能性は手に入れてしまった。彼との間にあった絆が深かったのか浅かったのか、歪んでいたのか壊れていたのか廃れていたのか。自分自身はどう築いていくのか。


 ――これからゆっくりと攻略させてもらうよ。ね、橘さん。


「ここにいるのも何だし、とりあえず昇降口まで行こうか」


 体育館を出入りする部員が気まずそうに見てくるのも癪に障る。四月朔日とは部活が終わってから合流すればいいので、その間どこにいたって構わないだろう。


「なあ、朝霧って元バスケ部なんだよな? 今は帰宅部ってこと?」


 渉は開放廊下を朝霧と並んで歩きながら尋ねた。


「うん、そうだよ」きみと同じでね。

「ふぅん、俺と同じだ」


 バスケ部似合いそうだな、と渉は無邪気に続ける。さすがに辞めた理由を無神経に訊いてくることはないか。朝霧はどこか遠くを眺めながら、「去年の夏明けに辞めたんだ」と自ら語った。

 渉は「へぇー……」と静かに相槌を打つ。ヒントを与えてやったのに、気づいた様子もない。ただこれ以上は踏み込まないようにしているみたいだった。部活を辞めた理由が、旧生徒会室で渉と出会ったからだなんて、夢にも思ってないだろう。


「なあ、なんか……いい匂いしねえ?」


 開放廊下の中間で足を止めて、渉はスンスンと鼻で息を吸う。朝霧は「そう?」と振り返り、「お腹空いてるの?」


「そうじゃなくて……。ちょっとごめん――」


 渉は朝霧の肩を掴み、背伸びした。首元に顔を近づけて、先ほどと同じように匂いを嗅ぐ。渉の髪が、気配が、朝霧の皮膚をぞわりと這う。


「これ……お前の匂いか。すげえいい匂いする……」


 寝起きのような気の抜けた声で囁き、渉は夢中になってしがみついている。不躾な犬みたいだと朝霧は思った。そんなにうっとりされてもなぁ。


「そう? ありがとう。食べる?」

「食べねえよ」


 冗談を言ってやれば、渉は慌てて首元から離れた。本気で食べられそうな雰囲気は感じたけれど、殺気はまるでなかった。

 朝霧くんってすっごくいい匂いするよね、と女子が話していたのは何度か耳にしている。が、こんなに堂々と言われたことはなかった。しかも男子からだ。


「気に入ったのなら教えるよ。今度一緒に見に行こうか」

「香水だろ? 高くない……?」

「上げようか?」

「い、いいよそんな! 自分で付けるのは、なんか違う気がする……」


 その顔には迷いが滲んでいる。興味はあるんだなと朝霧は思った。


「望月くんだっていい匂いするよ」

「そ、そう?」

「うん」


 頷くが早いか、朝霧は渉の腕を掴んで引き寄せた。先ほどの仕返しとばかりに顔を寄せてやると、渉はくすぐったそうに身じろぎする。

 照れ隠しか、そのまま歩き出そうとするので、首筋に手を添えて固定してやった。朝霧の指が頬や耳に触れた途端、渉は硬直したように動かなくなり――

 その瞬間、朝霧は何かの気配を感じてすぐに身体を離した。見下ろした先には、渉の固められた左の拳が。ちょうど、朝霧の腹部があった場所の手前で止まっていた。


「殴ろうとした?」

「いいや? すんでで止めた」

「殴ろうとしたんだね」

「すんでで止めた」


 朝霧はくつくつと笑う。――望月くんは面白いなあ。

 渉は本当に冗談で構えていただけで、殴る気は毛頭なかったのだろう。朝霧のからかいがエスカレートしていたら、みぞおちパンチを食らっていた可能性もなくはないが。

 二人は昇降口まで辿り着いた。中庭で駄弁っている生徒がここからでも見える。待つなら昇降口か中庭に置かれたベンチに座って、と考えていたがあちらは先客がいるようだ。


「望月くん、先に買い物済ませない? 天気もいいし、最寄りのショッピングモールで時間を潰そうよ。部活が終わる前に切り上げて戻ってくれば平気だろ?」

「……それもそうだな。オッケー」


 軽々とした了承の後、二人は靴を履き替える。今日食べる夕飯のほかに、タオルや歯ブラシ、着替えなども必要だ。四月朔日は渉の日用品を借りるだろうが、こちらはそうはいかない。


 生徒玄関を抜けて、朝霧は極自然に渉の手を取った。ぎょっとする渉はされるがまま。朝霧はその手を強く握って、「行こう」と微笑んだ。

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