宿泊交渉

 部活動に行く前に、萩野は隣の男子生徒に物言いたげな目を向けた。ホームルーム中でもスマホをいじっていた彼は話しかけるなというオーラを放ち、人を寄せ付けないよう踏ん反り返っている。立ち上がった萩野は、今日こそ――と意を固めて口を開いた。


「し――」

「行かねえ」


 まだ名前も言っていないのに。

 あっという間に機嫌を損ねたらしく、薄い鞄を乱暴に持った百八十三センチの長身は、スタスタと教室を出て行ってしまう。萩野は、また駄目かと肩を落とした。

 男子バスケ部の新堂しんどう明樹はるきは誰の指図も受けない、不動の幽霊部員だ。


    * * *


 ユニフォーム返してくるから先行ってて。あとで合流する。

 そうグループトークに送信して、渉は体育館に足を運んだ。昨日の放課後に借りたバスケ部のユニフォームを洗って返すために。

 この天気なら部員は外でランニング中。誰かに見つかる前にサッと返して戻ろう。そう思っていたのだが――


「ワタ公ぉー! なんじゃ来てくれたんか! 来てくれたんかぁ!」


 両手を広げて駆け寄ってきた金髪――ヌギ先輩こと四月朔日わたぬぎは、渉に飛びついてすりすりと頬擦りする。渉は「ぐぇ」と呻いた。


「昨日借りたユニフォーム、返しに来ただけです」


 声も苦しく説明して先輩を引き剥がす。


「はあ……なんでランニングしてねえんだよ」

「わしゃぁほかの部員が来る前に終わらせた。今は部長が引き連れとる」

「あーそうですか……」

「なんじゃあワタ公、わしに会いとぉなかったんか?」

「あ、はい」

「にゃあああああぁぁぁっ!」


 先輩の虚しい叫び声が演劇部だけの体育館に響き渡り、ステージ上の部員が冷たい目で睨んでくる。「先輩泣いちゃう」と泣き真似する四月朔日をよそに、渉は小さく頭を下げた。――うちの先輩がうるさくてすみません。


 四月朔日は中学からお世話になっているひとつ年上の先輩だった。姉の果奈かなと親しみがあり、知り合ったのもそちら経由。はじめて会ったときから人を『ワタ公』と呼び、渉を本物の弟のように慕ってくる。同じ藤ヶ咲ふじがさき北高校に行くと伝えたときも、喜んでいたっけ。

 別に先輩に会いたくなかったわけじゃない。ぬか喜びされても困るので、できることなら避けたかっただけだ。


 先輩やクラスメートの萩野は、幽霊部員の代わりにと渉を頼ってくれる。今は呼ばれることにも慣れてしまったが、正直、思いは複雑だ。

 二年生で空いた枠はあっても、全体の人数は足りているし、実力も揃っている。渉はただのピンチヒッターで、賑やかしに過ぎない。

 けれど、渉が顔を出すと、みんなが喜んでくれる。最初は、無愛想な渉を忌避する者もいたけれど、今では正式な部員のように、みな温かく迎えてくれる。『望月先輩』と呼び慕ってくれる後輩もいれば、四月朔日以外の三年生だって渉を必要としてくれるのだ。

 本当は、新堂明樹が部活に出るのが一番いいのだけれど、先輩や部員が手を焼いているのは知っている。『頼らないでくれ』『期待しないでくれ』だなんて強くは言えない。


「俺今日は用があるんで」

「買い物か。ならしょうがないのぉ……」

「いや、響弥たちとカラオケっす」

「なんじゃ、そっちか。帰宅部はええのぉ」


 眉を八の字にしてわかりやすくへこんだ四月朔日は、楽しんでこい、と片笑んだ。どんなに渉が態度を悪くしても、この人は怒らない。強要しない。

 渉は四月朔日のそういうところが一番好きだ。渉が唯一、手放しで甘えられる存在。それがヌギ先輩である。

 渉は「また今度来ますよ」と、綺麗に畳んだユニフォームを差し出した。背後から声がしたのはそのときだ。


「四月朔日先輩、今いいですか? 先輩に頼みたいことがありま――」

「はあああぁぁん? 頼みたいことぉぉ?」


 渉が振り返るよりも先に、四月朔日の表情が一変する。呆れたように顔を歪めた先輩は、言葉を遮って前に出た。

 振り向いた先にいたのは、渉や先輩よりも背が高く、眉目秀麗という言葉の似合う、端正な顔立ちの男子。腰に手を当てて威嚇する四月朔日を見て、困ったように微笑している。バスケ部員かと疑ったが、制服姿なので違うのだろう。


「実は少しの間だけ、泊めてほしいんです」

「喧嘩の仲裁か?」

「もう、真面目に話してるのに……」


 男子は悲しげに苦笑した。渉は二人に一礼し、ユニフォームを置きに更衣室へと向かう。その間も、二人の話し声は耳にできた。


「なんじゃ、家に泊めてくれ言うとるんか」

「はい」

「無理じゃ。ほか当たれ」

「先輩しか頼れる人がいないんです」

「嘘をつくなぁ止せ。わしより人脈広かろ」

「……本当に困ってるんですよ。先輩を頼るくらい困ってるんです」

「ははは。ああ、わしなんかをなぁ。本当は頼りとぉないくせになぁ」

「駄目ですか?」

「しつこい」

「一晩だけでいいんです」

「われたいぎい奴じゃのぉ。つまらん言うとるじゃろ。迷惑なのがわからんのか?」

「――なら俺んち来る?」


 と、渉は何やら揉めているらしい二人の間に割り込んだ。男子は大きな目を丸め、先輩は「ワタ公!?」と驚愕する。「何を言うとるんじゃ! 駄目に決まっとるじゃろう」


「そっちが大丈夫なら俺はいいよ」


 喚く四月朔日を無視して、渉は上目遣いで彼を見る。先輩と呼んでいるのだからおそらく同じ二年生か。泊まる場所がないだなんて非常事態だろうに。


「い、いいの?」

「うん。姉貴が一人いるけど、気にならないなら別にいいよ」

「ご両親は?」

「夜には仕事行くし、迷惑はかからないかな」

「それじゃあ……」


「待て、待て待て待て!」納得しかけた後輩を止めて、先輩は食ってかかる。「ワタ公一人で決めてええ話じゃない! っちゅうか、わしが許さん!」


 ギリリ……と歯噛みして、四月朔日は男子生徒を睨みつけた。渉は呆れて首を振る。


「なら泊めてやれよ……」

「えーっ、嫌じゃぁ……」

「じゃあ文句言うなよ」

「嫌じゃ嫌じゃぁ! なんでわしんちに泊めんにゃならん!」

「だから俺んちに――」

「なんでワタ公んちに行くんじゃぁ!」


 葛藤が限界を超えたようで、四月朔日は、うがーっと天を仰ぐ。男子生徒は萎縮したように瞼をぱちぱちと開閉させていた。

 そんなに彼のことが嫌いなのかと渉が首を傾げたとき、体育館の入り口から、女バスの部員がぞろぞろと戻ってくる。先頭を歩いていた三年生は彼を一目見て、「朝霧あさぎりくぅん!」と甘えた声を湧かせた。


「朝霧くんだー」

「どうしたのー?」

「久しぶりー」


 知り合いなのか有名なのか。通り過ぎゆく女子たちはきゃらきゃらと甲高い声を上げて、彼――朝霧を構おうとする。朝霧はにこりと笑って会釈した。女子たちは彼に手を振りながらコートへ入っていく。渉と四月朔日には見向きもしない。


(モテるんだなぁこいつ……)


 感心する渉に反し、ヒクヒクと顔を引きつらせている四月朔日は、朝霧の腕をぐいと引っ張った。


「退部した奴は早う帰れ。もうすぐ男子も戻ってくる。がっかりさせりんさんな」

「……」


 朝霧は瞳を泳がせて、渉を見た。捨てられて震える子犬のような目にドキリとする。助けを全身で求めているように感じて、渉は四月朔日の手を払った。


「あんた、困ってる後輩見捨てるんすか。……失望しましたよ」

「……なっ……あ、」

「そんなに冷たい先輩とは思わなかったっす」


 自分に向けられた台詞とは思わなかったのか、四月朔日は一瞬何を言われたのかわからないような顔をした。そうして朝霧に視線を送ると、苛立ったみたいにワシャワシャと頭を掻きむしる。らしくないな、と渉は思った。

 よほどのことがない限り寛容なヌギ先輩が、一から十まで否定的に振る舞っている。私情が絡んでいるからか、いつも後輩に接するような先輩らしい余裕がない。

 四月朔日は眉間を指で押さえ、荒れた呼吸を整えた。


「……わ、わかった。わかったわかった、泊めちゃる。ただし、わしはワタ公の家に行く」

「はあ? 嫌ですよ、意味わかんねえし」

「なんで朝霧はいいのにわしは駄目なんじゃ!」

「先輩には自分んちがあるだろ!」しかも一人暮らしの。「後輩泊めておいて自分は遊びに行くってありえないんですが」


 先輩がどれだけ朝霧を嫌っているのか知らないが、こんなくだらない内容で説教させないでほしい。

 四月朔日は酸素不足の金魚みたいに口をパクパクさせた。


「……ぐうの音も出ん」


 それでも睨み合う渉と四月朔日を、朝霧は交互に見る。


「それで――僕はどっちに行けばいいのかな?」

「俺んち」

「わしんち!」


 放課後の体育館に二人の声が重なった。

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