第二話

梅雨に駆ける

 六月四日、いつもこの日の体育は、男子はマットで、女子は跳び箱運動だった。


 七段の跳び箱には修復不可の細工がされており、誰か一人でも跳べばバラバラに崩れてしまう。巻き込まれた三城さんじょうかえでが意識不明になって以来、誰かが触れる前に芽亜凛めありが盾となって、その危険性を証明してきた。

 例外もある。体育の日程が丸ごとずれたことや、七段の跳び箱を別のものに置き換えたことがそれだ。

 そして、今回も。


 青く晴れ渡った空の下、乾ききったグラウンド上を駆けていく。

 芽亜凛は、マスクを着けたまま隣を走る和倉わくら柚弦ゆづるを一瞥した。不安定な息遣いに膨らんでは萎むマスク、汗でべったりと額に張り付いた前髪が、彼女の苦悶な表情を際立てている。

 グラウンドの反対側からは早くも「ゴール! ゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴール!」と、元気な声が聞こえてきた。待機中の生徒からも驚きの声が上がっている。


「はっや!」

「男子より速えって……」

「いや陸上部より速えよ」


 今日のE組とC組の合同体育は、男女共に長距離走だった。

 そう。雨の日が確定していた四日の天気が、がらりと変わったのだ。曇りのち雨だったものが晴天と化し、梅雨らしくない眩い日差しが降り注いでいる。こんな変化ははじめてのことだ。


 千里ちさと小坂こさかの家に避難させたことで、このルートに生じた影響。天候は大きく変わり、ネコメと連絡がつき、千里は家族共に無事でいる――

 そんな千里は今、芽亜凛の目の付く場所にはいない。この先に差し掛かる、校舎の裏を駆けているのだろう。


 持久走はクラス別の個人競技。背の順の隣同士でペアになり、校舎の外周二周分のタイムを計測する。そのため、現在走者である千里が、グラウンド上でペアを見守る凛と接触することは、まずないと言っていい。

 芽亜凛の相方は和倉柚弦だ。委員会も一緒である彼女は、出席番号順で並んだときも奇しくも芽亜凛とペアになる。


 走者が続々と一周目を過ぎるなか、和倉はようやく半周したところ。息も切れ切れな彼女を見て、芽亜凛は『頑張れ』と心のなかで呟いた。

 ちなみに先ほど二周分を終え、一番速くにゴールしたのはE組の高部たかべシンである。交代でタイムを計るため、高部のペアはもうスタートを切っているだろう。


 前方を歩く男子たちに追いつきそうになったとき、「速いな……」と、背後から来た萩野はぎのがすれ違いざまにぼやいた。楽々と和倉を追い越し、先のゴールへ向かっていく。


「萩野もう終わり?」

「おう」

「はえー!」


 抜かれゆく男子らが喚くなか颯爽と駆けていく萩野。真面目に走る者は先を行き、だらだらと歩くサボり者たちとの距離が縮まる。話し声も徐々に耳にできた。


「なあなあ、うちのクラスに安浦やすうらさんっているじゃん。あの子霊感あるんだってよ」

「見えちゃう系?」

「憑いてる奴がいるって聞いた」

「は? 誰?」

「それがさぁ――」


 横に並んで幅を取る彼らを、派手髪の生徒が「痛すぎんだろ」と笑って追い抜く。すれ違った陸上部の向葉むかいばは、萩野に負けじとラストスパートをかけていった。「だよなー!」と笑い飛ばす徒歩軍団を、和倉は外側から、芽亜凛は内側から横切る。


「男の陰口ほど……嫌なものはない……」


 合流した和倉の独り言に、芽亜凛は「同意」と呟いた。その反応が意外だったのか、和倉の視線が芽亜凛に向く。


「さっきから……気になってたんだけど……あんたはなんで、一緒に走ってるんだ? 別に、待っていればいいのに」


 呼吸も困難気味に話す和倉は、男子から離れたがっているみたいに少しだけペースを上げた。タイムを計る人はゴール前にいればいい。なのに芽亜凛は、内側とは言え一緒に走っている。ペアに付き添っているのは芽亜凛だけだった。


「身体動かしたくて」

「このあとも走るのに?」

「うん」と芽亜凛は瞬きで頷く。「梅雨に持久走なんて、なかなかできないもの」


「はあ……体力、あるんだね」

「和倉さんは壊滅的ね」


 軽くからかったつもりで言うと、和倉はムッと目を吊り上げて緩やかに歩行した。


「あんた……意外と喋るんだね。昨日あんな無愛想な挨拶をしたくせに……」

「どうかな、ただ機嫌がいいだけかも」


 芽亜凛は正直に答えた。ネコメと約束した放課後に向けて高ぶる気持ちを抑えられずにいるのは本当だ。つい昨日までの投げやりな気持ちが、嘘みたいに軽い。調子に乗っては痛い目を見る、と学んできたはずなのに、期待せずにはいられない。


「ふーん……彼氏ができたとか?」

「ううん、残念ながら」

「あっそ、ならいいよ」


 和倉はマスクを引っ張って息を整える。不純異性交遊を取り締まる風紀委員としての自覚は常にあるらしい、真面目な子だ。今回は彼女に怒られることはないだろう。


「和倉さんはそのマスク外さないの?」

「はあ? なんで……」

「えっと、してるほうが謎なんだけれど」


 聞いちゃまずいことだったのだろうか。和倉は拗ねたように目を細めた。


「僕が持久走でもマスクを外していない点で察してほしいな」

「ごめんなさい。何かコンプレックス……?」

「いや、落ち着くだけ」

「あ、そう……」

「今しょうもないって思っただろ」


 フッと吐く息はマスクのなかで笑ったように思わせる。芽亜凛は肩の力を抜いて微笑んだ。


「和倉さんも、意外とよく喋るのね。ちょっと嬉しい」


 一瞬目を見開いた和倉は、ぷいっとそっぽを向いて歩みを止める。「……そんなことない」と低く喉を鳴らしてその場で中腰になってしまった彼女の顔を、芽亜凛は覗き込むように見た。


「あと一周半、頑張ろう?」

「……ああ」


 顔を上げた和倉柚弦はマスクを外していた。――どうやらここからが本気のようらしい。


    * * *


望月もちづきー! やっと追いついたぜいっと」


 わたるは、後ろからやって来た柿沼かきぬま慎二しんじを振り返った。


「ペアの計測終わったのか」

「そう、ポッター関田せきたのな。ガリ勉は体力がなくて困っちゃうぜ」


 渉のほうが先にスタートしていたのにもう追いついてきた柿沼は、隣に並んで余裕そうに走る。渉と背の順でペアの渡邉わたなべ駿一しゅんいちは名前に劣らずの速さで計測を終えた。友達と一緒にスタートして一緒にゴールしようね、という気持ちは毛頭ないので、早々にスタートを切ってきたところだ。


「先行ってもいいぞ」


 体力は渉のほうがあるが、足は柿沼のほうが速い。合わせる必要はないという旨を伝えると、柿沼は「いや俺タイムに興味ねえからいいよ」と笑って返した。

 響弥きょうやたちは後方をへろへろと走っている。いつメンのなかでも、運動神経のいいツートップが渉と柿沼慎二。これで帰宅部なのだから宝の持ち腐れ。ぜひ運動部に入って貢献してほしいくらいだ。


「今日の放課後ってカラオケじゃんな? 望月も遊べる日だろ?」

「あぁ、まあ……ほかに用事もないし」

「今日はバスケ部行くなよ? 絶対、絶対カラオケだかんな!」

「わかってるって」


 お前それを伝えに来ただけだろと思いつつ、渉はやれやれと嘆息しながらサボタージュの男子たちを通り過ぎた。前方には並んで走る女子二人の背がある。いや、こちらのペースもほとんど歩きと変わらない。一人はクラス内体力測定でワースト一位の和倉柚弦。もう一人は――


「お。あれ転校生の子だ」


 トラックの内側を走る彼女は和倉のペアなのだろう。わざわざ一緒に走ってやっているのか。普通はできない、優しい子だなと渉は思った。

 すぐに追いついてしまうというところで柿沼は渉の袖を引っ張り、「なあなあ、彼女、カラオケに誘おうぜ」


「はあ?」と聞き返す渉に柿沼は任せとけ、とサムズアップする。いやいや、「響弥フラれたって言ってたけど」気まずくないか?


「励ましになるかもしんねーじゃん」


 ――どこから湧くんだそのポジティブシンキング。

 ちょっと行ってくらぁ! と彼女らの前に突っ走っていく柿沼を追って、渉もぐるりと回り込んだ。突如現れた男子二人を前に、芽亜凛と和倉は走る素振りを崩した。特に和倉の表情はとてつもなく迷惑そうである。


「なあたちばなさん、今日の放課後俺らとカラオケ行かない?」


 柿沼は慣れた調子で誘うが、


「ごめんなさい、用事があるので」

「おっ……おぉぅ」


 秒で断られ、関係ない渉までフラれた気分になった。面食らう柿沼を肘で突き、早く行くぞと促す。


「おい望月」

「へ?」


 和倉に名指しされ、渉は『俺?』と眉を上げた。


「お前風紀委員のくせにナンパしてるのか。舐めてるのか。あ?」

「え……、な、舐めてないです」

「二度と誘うな」

「俺じゃな――」

「あ?」

「……ウィッス」


 和倉はふんっと鼻を鳴らし、額に血管を浮き出させる。なんで俺が怒られてるんだ、と隣を見ると、柿沼が片頬だけでニヤついていた。二の腕を掴んで前を向かせると、さらにニヒョニヒョと笑みを浮かべる。あとで覚えとけよ。


「あ、そうだ」と渉は振り返り、「お前、マスク取ったほうが綺麗だよ」と和倉に告げた。「あ、それな」と柿沼も同意する。長距離走だから当然だろうけれど、珍しくマスクを外している和倉の素顔は大和撫子のようだ。いつもそのままでいればいいのに、と渉は率直な感想を抱いた。


「………………は、アぁ!?」


 ボッと火がついたみたいに赤くなった和倉の顔に驚き、男子二人はスタコラサッサと逃げ去った。また怒らせたな、と頬を掻く渉の横で、「望月……お前実はモテるだろ」と柿沼が訝しむ。


「え? 別に?」

「おーおー。無自覚ってこえーなー」


 一人うんうんと頷き、柿沼は走るペースを底上げする。どういう意味? と首を傾げる渉の質問には答えてくれなかった。

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