酒は飲んでも呑まれるな
ドアを開けて急かすようにモッズコートの背中を押すと、手のなかで家の鍵がチャリンと跳ねた。
ネコメは「ユキさーん」と長海の愛猫を呼び、部屋中をうろついた。餌場、ベッド、クッション、テーブルの下。洗面所まで覗きに向かうが、彼女の姿はない。
「長海さん、ユキさんは……」
長海は前髪を掻き上げて天井を見つめた。
「玄関横の窓が……開いていた」
「え……」
正しくは網戸だった。あの小さな白い身体がぴったり抜け出せる程度の隙間ができていた。
開けたのはユキ自身だ。いなくなったのは、今朝。
「もしかして俺が、っ……俺のせいですかね」
ネコメは珍しく動揺して声が上擦る。
「……お前のせいじゃない」
「探しましょう。探してきます」
「やめろ!」
慌てて出ていこうとする相棒を、長海は声で制す。
「無駄だ。探しても帰ってこない。こんな夜じゃ、無理だ」
井畑
あの夜。長海たちが現場に駆けつけたとき、すでに黄色いテープとブルーシートが辺りを封鎖して、井畑の縊死体は木から下ろされた状態で納体袋の上に横たわっていた。第一発見者は井畑の弁護士だった。
井畑は死ぬ前、弁護士に電話を入れていた。無言電話だった。心配に思った弁護士が発信元を辿って公園にやってくると、そこにはネクタイで首をくくった井畑の変わり果てた姿が……。
遺体からは睡眠薬が検出され、抵抗した痕跡もないことから自殺が確定した。そんな薬など、抵抗されないよう犯人が飲ませた可能性もあるだろうに。
井畑なら、子供の写真を撮りによく足を運んでいた
捜査上、一番重要である『誰が何のために殺したか』の武器が、長海たちには空っぽだ。見込み捜査とはそういうものを指す。証拠もないのに、いち学生が殺したんだ、などと言うわけにはいかないのだ。
二人が必死に追っている、茉結華という白髪の少年。彼の謎に手が届きそうになった瞬間、ぷつりとその糸が絶たれた。宣戦布告だと長海は感じた。探られる前に、情報源を遮断したのだ。でなければ……こんな偶然あってたまるか。
「付き合え」
長海はネコメに座るよう促し、コンビニで買ったビールの蓋を開けた。冷え切った銀色の缶がプシュッと音を鳴らす。普段は帰宅して眠るだけの長海だったが、半強制的な捜査終了と愛猫の失踪が重なって
「タバコでもあればな」
「吸わないでしょう」
互いに、非喫煙者だ。
ネコメはカーペットの上にあぐらをかき、同じビールを開けた。カツンと缶の縁を当てて乾杯し、夕食抜きの胃にアルコールを注ぐ。
憂いを帯びた視線が、テーブルに伸びている。どんなときも笑顔を保っていた相棒も、今回ばかりは気落ちしていた。井畑の捜査終了より、長海の猫がいなくなったことのほうがよっぽど効いている。
長海はつまみのパックをそれぞれ開けて、割り箸を取った。砂肝とハツの和え物。長海とネコメの好物だ。
「食うだろ?」
「……はい」
一拍置いた返事がすとんと落ちる。刑事ならではの目力は失っていないものの、しゅんと垂れ下がった両肩は叱られた子供のようだ。
「酒がまずくなる」
「笑ったほうがいいですか」
ネコメは片頬をシニカルに上げる。
「こんなときに笑えるか」
長海が吐き捨てると、ネコメは溢れんばかりの笑顔をこぼした。
「あははっ、ですね」
緩んだ頬につまみを運んでうまそうに味わう。その顔に幸せの文字が広がっていて、長海は首をひねった。こいつのツボはよくわからん。
まだ、井畑の逮捕前だったか。コンビを組んで一週間ほどで、ネコメは本部と学校と長海の家を行き来するようになった。会議室のテーブルを寝台に使う刑事もいるなか、相棒の家に寝泊まりするのは健全でもあり図々しくもある。
だが、別行動をする上で効率よく情報共有を行うには、これが一番だった。最初は嫌がっていた長海ももう慣れた。出勤する時間は異なり、大抵はネコメが先に出て、長海が起床する頃には家にいない。
飼い猫のユキは、ネコメに付いていったのだろう。ネコメが出ていったあと脱走して、迷い猫になってしまった。だからネコメは責任を感じているのだが、それは違う。
もとより賢いユキは、網戸を開ける可能性があった。それを考慮し、外から棒で固定するか窓を閉めておけばよかったのだ。すべては長海の不注意で、飼い主の責任。ユキもネコメも悪くない。
長海は缶ビールを飲み干し、冷蔵庫から取り出した二本目を開ける。ネコメはまだ一本目を飲んでいた。すでに顔は赤く、瞳はとろんと潤んでいる。
――付き合えとは言ったが……。
「無理するなよ」
長海はネコメの頭を小突いて、カーペットの上に尻を着いた。ネコメは酒に弱く、居酒屋で飲んでもすぐに潰れてしまう。無理して飲んで、しないだろうがアルハラで訴えられても困る。
酒は人の地を表す。ネコメの場合は普段のほうが騒がしく、飲むと急激に大人しくなった。
「止めるべきは鏡越しのレッドラムです」
いつもより低音がかった声が耳たぶを掠める。気づけばネコメは肩口まで顔を寄せていて、据わった目でじっと長海を見つめていた。色の透けた瞳に、長海のしかめっ面が反射している。
「なりふり構っていられませんね」
そう言って、長海の唇めがけて自然と瞳を閉じるので――むぎゅと手のひらで遮断した。
……こいつにはじめてキスされたのは
酔い潰れて眠ったネコメを抱えてタクシーに乗った、その席のことであった。ぼうっと目覚めたかと思えば、急にキスしてきたのだ。
こいつはそういう趣味なのか……と、後日悶々としながら出勤すると、『大丈夫だったか? ネコメの奴、キスしてこなかったか?』と
女性刑事の綾瀬は平手打ちで逃れたようだが、警戒心のない男性刑事はみな被害者だった。酔った彼の面倒を押しつけ合う真の意味がそれであり、ネコメは憶えていないらしく、余計にたちが悪い。何にせよタクシーの運転手を巻き込んだあの地獄の空気は二度とごめんである。
「おい、酔っぱらい。近い」
「……長海さんも酔っぱらいです」
長い睫毛がぱちぱちと上下する。
「強制わいせつ罪。逮捕するぞ」
「……はい」
んむーと唸りつつ、相棒は重い頭をふらふらと持ち上げて、飲みかけの缶を呷る。長海のビールだった。間違えている。
ネコメは、ぷはっと息をついて、銃口のように定まった視線を向けた。
「誘い出します。ヒエナエトワを」
酔っていても、犯人を追う刑事の意識は手放さない。
長海は黙ってネコメの言葉に耳を傾けた。罠をかけるのは、また別の女だった。
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