嘘つきの呼び出し
「昼食一緒に食べようって言ったのに、売店も行かずにお喋りしてたの?」
朝霧はこちらを振り返りながら斜め前を行く。足の長さも相まって歩幅が随分と違うため、ただ歩いているだけでも渉にとっては足早だ。
――とても、深夜に嘘の呼び出しをしたようには見えない。
『たすけてもちづきくん』のメッセージで飛び起きた渉は、すぐさま折り返し電話をかけた。力のない声で、朝霧が出る。
『望月くん……』
「朝霧? どうした、大丈夫?」
『……駅近の噴水広場ってわかる? そこへ来てほしい』
「え?」
様々な困惑が頭を駆けた。どうしてそんな場所に、こんな時間に。自分が?
『来てくれればわかるから』
「えっと、どういう……あっ朝霧?」
通話は暗闇に取りこまれ切れていた。
時刻は深夜一時。朝霧の言う場所は自転車で飛ばしても三十分以上はかかる。でもほかに、朝霧に頼れる人がいないのなら、行くしかない。
自転車の鍵を取って外へ出ると、小雨が行く手を阻んでいた。普段着ないレインコートを探す暇もなく、渉は愛車に跨って広場を目指した。迫りくる雨を切ってぐんぐん進む。頭を渦巻くのは、とにかく行かねばならないという懸念だけだった。
噴水広場は青白い街灯に囲まれて、遠目でもわかるほど不気味な空気をまとっていた。渉は駐輪禁止の入り口に自転車を置き、電話を繋げながら広場に入る。
「朝霧? 着いたけど、どこ?」
こんな真夜中、喧嘩をしている不良もいなければ、リンチ現場に用いられそうな寂れた倉庫も見当たらない。あるのは雨に打たれて涙を流す中央の噴水と、街灯に集る羽虫の影だ。人の姿も気配ともにゼロである。
「朝霧――」
静寂だった電話越しの背景に、サアアァ……とノイズが走る。朝霧も外にいるのがわかる。でも姿は一向に見えない。
『ほんとに来てくれたんだ』
先ほどよりも明瞭な、弾んだ声だった。
『雨、降ってるね。傘持ってないの? あ、自転車で来たんだ』
朝霧は鼻につく含み笑いで、雨のなか全力疾走してきた渉の神経を逆撫でる。
「お前……」
渉は中央からぐるりと広場を見渡し、真後ろに構えるマンションに目を留めた。下の階から上へ上へと眺めていくと、ベランダの手すりに頬杖をついている朝霧が。
『やあ、望月くん。こんばんは』
目が合ったとわかって、朝霧はにこりと笑う。
冷たい雨水が渉の胸を突き破って、心臓にまで到達する。
「何やってんの、お前」
『前付き合ってた彼女がね、無意味に僕を呼び出すんだ。助けてー助けてーって、嘘で呼び出すんだよ。可愛いよね』
「…………で?」
『心配してほしかったんだよ。僕が心配することで、彼女は愛を感じてたんだ』
「ああ、そう。で、お前は俺の愛を感じたのか」
『全然? でも来てくれて驚いたよ――』
全然、のところで渉はスマホを耳から離し、通話を切った。
液晶画面についた雨粒をズボンに擦りつけて、ポケットにしまう。汗か雨かわからない水滴が輪郭をなぞり、渉は手の甲で顎下を拭った。
はあ……大きなため息が漏れる。キザキに殴られた頬がまた痛みを訴える。何やってんだ、こんなところで。
入り口で主人の帰りを待つ自転車は、サドルまでびしょ濡れだった。手のひらで拭っても、拭っても、雨はしとしとと降り続ける。
夢を見ている心地だった。深夜に家を飛び出して、自転車で街を滑走して。辿り着いた広場で、可愛さの欠片もない嘘が発覚する。夢なら今すぐ覚めてベッドに戻りたい。疲労がずっしりと、瞼にのしかかった。
「望月くん……!」
傘をさした朝霧が歩道を駆けてくる。渉に傘を傾けて、差し出したタオルでふわりと頬を包んだ。
「使って。レインコートもあげる」
「……朝霧……」
押しつけられる形で受け取って、渉は眉をひそめる。
「お前……俺に言うことあるだろ」
「泊まってく?」
「ごめんなさいだろ。嘘ついて、騙して、もう二度とやるなよ」
「どうして?」
……へ? と、唇だけ動いた。
「きみは僕の友達だろ。友達なら、なんでも言うことを利く。そうだろ?」
さも常識かのように淡々と横暴を口にする朝霧は、至って穏やかだった。何も映さない真っ黒な瞳が、静かに渉を射抜く。
「だったら……っ、だったらお前も言うこと利けよ。それが友達なら、そうだろ」
「僕は望月くんの友達じゃないよ」
渉は、顔をしかめることで疑問符を提示した。
「言ったじゃないか、望月くんは僕の友達だって。でも僕は、望月くんの友達じゃない。なった覚えもないよ」
「なに、いって……」
「僕が来てと言えば来て。僕がやれと言えばやって。返事ははいかうんで答えて」
ガシャン、と後ずさった足が自転車に当たってバランスを崩す。朝霧は、自転車とともに倒れかける渉をぐっと引き寄せて囁いた。
「嫌ならやめてもいいんだよ。望月くんの言う友達がその程度のものなら」
背後で愛車が倒れる。身体が半分だけぶるぶると不自然に震えていた。朝霧に掴まれた二の腕だった。手のひらから伝わる熱で、自分の身体が冷え切っていることに気づく。
『俺が好きなのは、友達』と、頬を染めて言っていた
――そうだ。助け合い、喜び合い、同じ時間を共有するのが友達だ。朝霧も同じ気持ちだと思っていた……でも違っていた。
朝霧は、友達という言葉を都合よく使っているだけだ。そしてここで渉が否定すれば、渉もまた、自己都合で用いていたことになる。……負けたくない。
「お前が好きなのは嫌がらせか」
「嫌がらせ? 僕が好きなのは、強いて言えば猫だけど」
渉の皮肉をものともしないで朝霧は傘を渡し、倒れた自転車を立て直す。自分が濡れるのを厭わずにタオルでサドルを拭く姿は、本当に友達のために尽くすいい奴に見えた。すべての元凶は呼び出したこいつだけれども。
「お前、友達いないだろ」
苛立ちからか、渉は思ったままを口にする。一度吐いたら取り返しの付かない、言葉の雪崩だった。
「誰にも心開いてないもんな。お前を友達と思ってる奴はたくさんいても、お前が友達だと思ってる奴はいないんだから。……人の気持ち考えたことないだろ。自分の言うことを利くのが友達だなんて、そんなこと言う奴と親しくなんかなりたくねえよ。お前、寂しい奴だな」
渉が放ったのは人を傷つけるためのナイフだった。
さすがの朝霧も言い返すだろうと思いきや、しかし彼はなんてことのないように笑う。
「でも望月くんは来てくれた。嬉しかったよ」
「それは……っ、知らなかったから」
「知ってたら来なかった?」
朝霧が他人を振り回す大嘘つきだと知っていたら――?
不安と庇護欲を駆り立てるひらがなのメッセージは、すべて計算されたもの。彼は最初から渉を試す気でいて、今もこうして面白がっている。それを知っていたら、渉は行かなかっただろうか……。
「たぶん、来てない」
「来るよ」
朝霧
「望月くんは来てくれる。そうじゃなかったら呼んでないよ。来てくれるって思ったから呼んだんだ。僕が呼ぶのは……望月くんだけだよ」
深夜のそんな告白は、無条件に渉を信じている、と暗に言っていた。朝霧は、「また遊ぼうね」と言って渉を送り出す。渉はそれ以上突き放せず、彼がくれたレインコートを羽織って家へと帰った。
売店は案の定、客なしだった。渉は、朝霧の優等生スマイルによって割り引かれた売れ残りのパンを買って、空き教室に踏みこむ。いつメンと杉野をプロデュースした教室だった。
「今日は雨降ってないね」
朝霧は教卓に肘をつき、缶コーヒーを嗜む。渉は適当な椅子を引っ張り出して腰を下ろした。
スマホのトークには『昼休み教室に来て。一緒に過ごそう』と、またしても一方的な誘いが来ていた。渉は声をかけてきたクラスメートの女子を優先することで、朝霧の言うことは利かないぞと牽制した気であったが、結局二人で過ごしている。
あんな嘘をつきながらも平然と接してくる朝霧は、一応昨夜のことは憶えているらしく、
「風邪引いてなくてよかった」
と、笑顔で渉の調子を気にした。
「お陰様で。泥のように眠れたよ」
「へえ、寝不足も解消できたんだ。隈も消えてるし、元気そうで何より」
渉の嫌味は華麗にかわされる。呼び出した朝霧も深夜まで起きていたことになるが、彼の顔色は相変わらずの絶好調。隈もニキビも汚れも、痣だってない。
「気にする暇もないだろう?」
また突拍子もなく言って、朝霧は不敵に目を細めた。渉は濃厚なクリームパンを貪り、何が? と小首を傾げる。
「おかしな優等生に目をつけられて、深夜に面倒な呼び出しをされて。恋にうつつを抜かしている暇はないだろう。心の傷も、薄れたんじゃないかな」
傷口にはさらなる傷で上書きを。まるで、きみのためにやったんだと謳うように、朝霧は偽りの善意で渉の思考を麻痺させる。
望んでいない。けれど、遊園地で地に落ちた負の感情は、朝霧という面倒な存在によって掻き消された。一時的な麻薬だとしても、渉は確かに忘れ去っていた。
「あ、あの、朝霧……」
「悪者がいるって楽だよね。ぜーんぶそいつに、押しつけちゃえばいいんだから」
不幸も薬だよ、と。彼の言葉は常軌を逸した、受け入れがたい哲学だ。
渉は、寂しい奴だなと言ったことを後悔している。撤回しようとして、謝ろうとして、朝霧に遮られた。もし彼の言葉が本当なら、渉のために悪ぶるのはやめてほしい。
「朝霧ってさ、俺のこと……嫌いなの?」
「うん」
「えっ?」
朝霧の行いが、歪んだ好きゆえの裏返しならば、そこは素直に好きと認めるところだろう。好きなくせに悪に回る、朝霧の――究極の天邪鬼にも頷ける。
だが、うん?
「嫌いだよ。望月くんは?」
朝霧はババ抜きでスパスパとカードを減らしていくような焦りを渉に与える。次はきみの番だよとターンを譲って。ジョーカーは、渉の手の内にある。
「……俺は……。俺も……嫌いだ」
考え考え便乗し、半ば意地を張って攻撃に出た。朝霧が嫌いなら渉も嫌いだ。朝霧が好きなら、渉もそう返した。
……こいつが、こいつが人を傷つけるなら、だったらこっちも傷つける。全然通用しなくても、同じように返してやる。
「両思いだね」
朝霧は微笑みを浮かべてゲームを終わらせる。まるで未知の生物と話している気分だ。
変な奴……。渉は口のなかで呟いた。ぽっかりと空いた小さな器に、敗北のカードが残った。
* * *
じっとりと肌にまとわりつく梅雨の空気が、ひゅうひゅうと屋上に息を吹く。ぬめりを含んだ水たまりに上履きを滑らせながらも、響弥ははじめて入った屋上という空間に羽を伸ばした。
「わあ! すっげえ……いいんすか、俺だけ?」
開け放たれた境界を跨いだ教育実習生は、子供を見守る保護者の笑みを浮かべて後ろ手に扉を閉める。昼休みに入ってすぐ、ヒミツのお話があります、と呼び止められたはいいものの、まさか屋上に連れ出されるとは思わなかった。
本来屋上は施錠されていて、生徒だけでは立ち入れない場所だ。ここで告白したりされたり、休み時間はドラマのごとく過ごせると思っていた響弥は、一年の頃に立入禁止と知ってがっかりした。
教生は、「ここなら誰も来ませんから」と言って屋上から見える景色を眺める。分厚い灰色の雲の隙間から、白い光が帯状になって街へと降り注ぐ。
雨天であれば出られなかっただろう。今日だけはこの曇り空と、憎き教育実習生に感謝だ。
「私も屋上が好きだったんですよ。ここから見える夕日が、街全体を呑みこんで」
「昔は来れたんすね」
「ええ、人気の告白スポットでした。けど、フラれる人続出で、そのうち閉鎖されちゃったんですよ」
「なんすかそれぇ」
響弥はけらけらと笑いつつ、嘘だろ、と心のなかで毒づく。冗談めいた気配を秘めているが、馬鹿な高校生なら簡単に騙されるだろう。まあ、そこまで真実に興味もない。誰かが苦しみ、飛び降り、死んでいようとも。
柵のない外壁に近づき、地面を見下ろそうと首を伸ばす。が、段差に足を乗せないと見えないらしい。
「響弥くん、危ないですよ」
うるせえなぁ。反抗的に、バシャンと水たまりを蹴り上げて、響弥は「でー?」と、話を早める。こちらから振らなければ言い出さない雰囲気を感じたからだ。
「話ってぇ、なんすか?」
「……響弥くんのお家のことですよ」
またそれかよ。しつこいな。
白金の実習生は、今までも何度か家について尋ねている。昔父親の世話になっていて、久しぶりに会いたい。元気か、食事はどうか、休日一緒に過ごさないか、と。担任の
「前にも言ったっすけど、親父は留守で……」
「呪い人の件なんです」
教生はそばまで歩み寄り、誰もいないのに声をひそめて囁くように続けた。
「近場で起きた事件について、教頭先生が疑ってましてね。うちの学校と無関係ならいいですが、一応早めに対策しようと。今日の放課後、響弥くんのお家に連絡が行くそうです」
「え……あはは、いきなりっすね」
死んだ雑誌記者のことかと悟る。藪から棒な話だ。
「響弥くん本人に内緒で呼び出すのはどうかと思い、勝手ながら事前調査に来ました」
屋上なら生徒はまず来ないし、誰かが向かう発想ももはや廃れているため、教師も危ぶまない。
教生の話は、百パーセントの嘘のにおいはしなかった。どちらかと言えば真実味がある。本気で、親を呼び出す気だ。
「今は叔母さんが家の手伝いをしてくれるんでしたよね。ご都合はどうですか?」
「あー、今はたぶん留守だと思いますけど……どうしても呼ぶなら俺から言っておきます」
「本当ですか?」
「ああ、はい。言っておきますよ、たぶん大丈夫っす」
この先呪い人を実現させて、神永家の名を再び世間に轟かせるために、断るわけにはいかない。たとえこれが刑事による罠でも、やるしかないんだ。そうすれば……。
もしかすると……、誰も殺さずに済むのかな。
「わかりました。教頭先生には、叔母さんがいらっしゃると伝えておきます」
「……はい」
響弥は、教育実習生の背後に寄せた手を素早く引っこめた。響弥ではなく、殺したい衝動に駆られる茉結華の意思だった。
ここで彼を殺せば、警察の手は緩むどころか過激に捜査へ移る。消してやりたい気持ちは山々だが、今は我慢だ。そうだろう、茉結華――?
笑顔の仮面を張り直し、響弥はネコメに連れられて屋上を後にする。とにかく、叔母さんに連絡しなくては。
金髪の男に気をつけろ、と。
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