不毛な警戒

 放課後「一緒に帰ろうぜー」と誘う柿沼かきぬまに断りを入れて、机と机の間を通り抜けようとしたとき。


「つれねえなあ。響弥もいないんだぜ?」


 そう言った柿沼の、いらない用紙を溜めこんだ引き出しから、ばさりと一冊の本が落ちる。パステルカラーのプリントに紛れて足元に転がったそれを、渉は拾い上げた。

 薄い冊子のような本の表紙には『月に響きし恋模様』文芸部作と表記されている。渉はページをぱらぱらと進めて、


「なんっじゃこりゃ……」


 響弥、それから渉という字に目が留まる。恋愛小説のようだった。それも、望月渉と神永響弥の。

 プリントを拾い集める柿沼は「いてっ」と机に頭をぶつけ、ヒミツの恋愛小説を読む渉を見て声にならない悲鳴を上げる。


「っだ、なっ、何見てんだよぉ! うわあああぁ!」

「これ何?」


 渉は冷静に問いかける。柿沼は四方八方に目を泳がせ、引きつった笑みを浮かべた。


「……ひ、拾いもの?」

「は、嘘だろ。これ、なんで俺と響弥が出てんの。保健室で何……やってんの?」

「…………杉野は一緒に帰るよな?」

「誤魔化すな」


 呼ばれた杉野は後ろの席で、びくんと両肩を上げ、首を縦に振る。すっかりいつメン入りした杉野は昼休みも三人組と過ごし、順調に仲を深めているようだった。

 渉は適当なページを開いた。


「唇が離れた隙に待ったをかけると、渉は響弥の腕を掴んで自分の――」

「読むな読むな読むなぁ! あっぶねえ! しーっ!」

「このエロ本いつから出てんの? お前これ、読んでたのか……」


 今まで見てきた柿沼の、幾多にもおよぶ怪しげな言動が腑に落ちる。意味もなく響弥と二人きりにさせたり、邪魔しないよう先に帰ったり、デートだのイチャイチャだの何気ない言葉を用いては、彼はいちいちニヤついていた。

 百歩譲って、友達同士の恋愛を空想するのは構わないが、こんな本が校内に――本人の許可もなく――出回っているとは。怒るべきなのか、自分の感情が定まらない。


「その本……神永も読んでるよね」


 杉野は席を立ち、本の表紙を覗いて言う。


「何読んでるのって聞いたら、恋愛ものって言ってて。園元そのもとに聞いてみたら、望月と神永のエロ……恋愛小説だって。二人とも望月には内緒って言ってたけど……」

「あの野郎……」


 響弥は意外と読書家で、いつも小説を鞄に入れている。しかし図書室には通っておらず、買った本を読んでいるのかと思っていた。

 渉は、小説を持ったまま回れ右して教室を出る。「どこ行くんだよ!」と後ろから追ってきた柿沼と杉野に、「文芸部だ」と言い捨てて廊下を急いだ。


 文芸部の活動場所は施設棟三階、階段を上ってすぐの第一コンピュータ室だ。隣は美術室、奥は音楽室。反対側には図書室と書道室が続いている。

 扉の前で息を整え、様子を窺おうと顔だけなかに入れる。クーラーの行き届いた涼しい空気が、火照った身体をひやりと癒やした。勢い任せにやってきたが、どうしたものか。

 静寂を前にうろたえていると、窓際の席でキーボードを叩く園元ここあと目線が合う。教室の座席が渉の斜め前で、杉野の隣に当たる女子生徒である。


「帰ろうぜ……望月も予定あるんだろ?」


 放課後A組の教室に来るよう朝霧に呼ばれていたが、多少遅れてもいいだろう。渉は文芸部に踏みこんだ。今は真実が先だ。


「よっす」

「何?」


 表情筋の死んだ冷ややかな眼差しが渉を見つめる。油断したらディスプレイの陰に隠れてしまう低身長のツーサイドアップが、目下で揺れた。


「珍しいわね、杉野も一緒なんて。何の用?」

「用ってほどのものじゃないんだけどさ……」

「なあ望月、隣にいるのってエースか? 帰宅部だよな?」


 小声で柿沼が様子を求める。一部の男子にエースと呼ばれているのは、総合スポーツクラブのエースこと、同じクラスの高部たかべシン。頭にヘッドホンを付け、園元の横でカタカタと指を踊らせている。


「シンはいつもここにいるわ」

「文字打ってるのか」

「ゲームよ」

「怒られるだろ!」

「平気よ。いつものことだもの」


 で、用件は? と冷淡に急かす園元の横で途端、高部がガッツポーズする。


「ノーミスで突破したぞここあ! 最高難易度の譜面だ! 毎日挑戦した甲斐があったな!」

「よかったわね、おめでとう」

「声でけえよ……!」


 高部はようやく渉たちに気づいてヘッドホンを外す。ゲームセンターで聴くような賑やかな曲がわずかに漏れていた。


「どうした、ここあのファンか?」

「それはお前だろ。てか声でけえって」

「心配はいらない。みんな耳栓している」


 見ろ、とばかりに高部は文芸部員を指さした。園元のほかに十人ほどパソコンに向かって活動中。その全員がヘッドホンやイヤホンを付けていた。いったい誰のせいでついた習慣だか……。


「なんだ、杉野も一緒じゃないか、意外だな」

「昨日の杉野、女子にモテまくりだったわよ」

「あの髪型はもうやめたのか? なかなか似合ってたぞ」

「えっと、いろんな人に声かけられるから……」


 杉野は長い前髪の下で鼻をこすって、恥ずかしそうに身をすくめる。

 大々的な杉野の変身は、いつメンが手を施した昨日限り。だがたまに片目が覗き見えるようになり、中身の自信もついたようだった。


「いいんじゃない。私はいつもの杉野のほうがいい」

「そうだ。ギャップ萌えはたまにやるから萌えるんだ」

「望月だっていつもぼさぼさだしね」

「望月の寝癖はすごいな、いつも天真爛漫だ」


 からかいを含め、二人は本心で言っているようだった。「で、何しに来たんだ?」と高部が続ける。

 渉は例の本をスッと持ち上げた。


「これ、文芸部が出してるって聞いたんだけど」

「望月と神永のBL本だな」

「びーえる?」

「ボーイズラブの略よ」

「文芸部じゃ有名な話だ」

「……誰が書いてるか知ってる?」

「知らない」


 でも、と言って園元は視線をずらした。


「広めたのはそこの天然パーマよ。書かせたのも柿沼でしょ?」


 渉が隣を睨むと、柿沼は冷や汗をいっぱい垂らしながら首を傾けてとぼける。


「結局お前が元凶か」

「わ、ワタキョウは俺でもキョウワタはちげえもん」

「は?」

「俺が広めたのは響弥受けで、美術部の望月受けは美術部の連中の仕業。俺は逆カプNGだし、わかる?」


 柿沼の宇宙語はほとんどわからなかったが、


「つまり小説以外にもあるのか?」

「うん、美術部が漫画描いてた」

「……俺と、響弥の、エロ漫画?」

「たぶん」

「なんでだよ、なんで許してんだよ」

「おおぉ俺に言うなよ!」

「お前が広めたせいだろうがぁ!」

「美術部の対抗は俺じゃねえって! 俺はッ響弥受けッ望月攻めが好きなんだ!」

「何言ってんのかわかんねえよ!」


 ううう、と唸り声を上げて渉はうなだれた。ホモだのデキてるだの、響弥との仲をやけに疑われるのはこれが原因だったのか。『望月は裏モテしてる』『一部の女子に人気』と、噂でぼんやり聞いたことはあったが、それも文芸部と美術部の間で有名という意味。

 知らぬ間に自分が主役の作品が世に放たれていたなんて、恥ずかしくて生きていけない。身近な存在の企みによって築かれた風評被害である。


(凛に知られたら……)


 と、そこまで考えて自虐に陥る。

 凛に知られたら、なんだ? もうフラれたじゃないか。今さら知られたって、凛は何も思わない――

 いや、違うな。そもそも凛は知ってて、本当に渉と響弥がデキていると思いこんでいて、だから断ったのではないか? とっくの昔に勘違いされていたんじゃないか? 不毛な考えがぐるぐると渦を巻く。


「ふむ、私も頼みたいな。文芸部か、美術部でもいいな」

「何を頼むの?」

「私とここあの同人誌だ」

「ふぅん。いいんじゃない。シンここ……ここシン?」

「どっちも可愛いな!」


 終始地に足が付かない浮かれた会話を繰り広げた後、園元は窓の外に目を向けて「あ」と身を乗り出した。


「噂の恋人。望月の相手が外にいるわよ、校門前」


 渉は、瞼の裏側に焼きついた観覧車に差す燃えるような夕日を払い除け、園元のいる窓際に回りこんだ。噂の恋人とは、もちろん凛ではない。響弥だ。

「女と一緒だな」と高部が後ろで茶化す。「母親じゃないの」と園元は言うが、それはありえない。響弥には母親がいないのだ。

 女は眼鏡を掛けていた。響弥も視力が悪く、休日や家ではあんなふうに眼鏡を掛けている。どことなく、響弥に似ていると思った。


    * * *


「お迎えなんてええのに」


 校門前で響弥と合流した神永詩子ともこは、甥に向かって関西弁で遠慮する。響弥が昼休みに連絡を入れると、詩子はふたつ返事でオーケーし、藤北に行く準備を進めた。


「急に来てもらってごめん!」

「何言うとんの、可愛い甥っ子のためなら、なんでもする言うたやろ」


 言葉どおりの姿勢を示す詩子は、外見だけなら強気な女性だ。長い髪を鬱陶しげにひとつに結い、子供を甘やかすことを知らずきつく躾けていそうな両目が、眼鏡の奥に揃っている。

 厳しい関西弁口調も相まって、教師がへりくだってくれればいいが。


「行こっか、詩子さん」


 詩子は来客用玄関、響弥は生徒玄関から校舎に入り、職員室に向かった。教生の言ったとおり、教頭先生はへこへこと頭を下げて応接室に詩子を招く。


「きみはここで」


 教頭先生は、詩子の後ろを続く響弥を手で制した。思わずムッと顔を歪め、詩子に助けを求めるふりをして応接室を覗き見る。

 教育実習生は、いなかった。職員室にもいなかった。彼が関与しないのなら、一緒に話を聞く必要もないのか。

 響弥は、こんな大人の話に介入するのも『らしくない』と思い直し、一瞬のうちに顔色を変えた。「じゃあ、廊下で待ってます」と目礼し、応接室の扉が閉められる。響弥は真っ赤な瞳を持ち上げた。


 白金のエセ教育実習生。奴のついた嘘はどこだ?

 何のために叔母を呼び出した。追い詰めるためではないのか。本当に祓の依頼が提案されたのか。話も聞かず、これで終わりか?

 巧みな嘘は真実に一滴垂らしたものだ。においは嗅ぎ取れるのに、どこが嘘かわからない。

 だが、奴が警察官なのは疑いようもない事実だ。詩子の姿を一目見ようと、息を潜めているに違いない。


 響弥は付かず離れず、応接室の前で待機した。数分ごとに隣の職員室を覗いて、姿の有無を確認する。

 けれども、あのよく目立つ白金色の髪は一切見当たらなかった。大人たちの話が終わるまで、さらには終わったあとも。


 教育実習生は現れない。煙のように消えてしまった。

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