第九話
灰色の世界
言い出したのは、
それすらも、彼は計算していたのだろう。
「きみが告白してきたのは何回目?」
小坂は目を泳がせて答える。
「……五回くらい」
「そう、今のでちょうど五回目だ」
初春の薄ら寒い風が、ベルトでたくし上げた短いスカートの間を抜けていく。下校する彼を昇降口で捕まえて、校舎裏に連れ出したのも五回。思いを伝えたのも、五回目だった。
「どうしても駄目? 好きな子いないならいいでしょ」
駄目なの? と、小坂めぐみは必死に食い下がる。
最初の告白は『付き合って!』だった。それに対する彼の回答は『どこに?』だ。
あなたのことが好きだから、付き合ってほしいの。まだプライドを捨てきれず、強気に言い放った、人生ではじめての告白。『ごめん』と言われたときは額まで熱くなり、悔しさと恥ずかしさで逃げ帰ってしまった。
勇気を出して伝えたのに、どうして? どうして彼はめぐと付き合ってくれないの?
見た目も評判も自信があった。断る男なんていないと思っていた。こんなにも可憐で可愛い完璧な彼女と付き合えるのだ、みんな光栄に思うだろう。むしろ感謝してほしいくらいだ。そんな高飛車な思いは、木っ端微塵に砕かれた。
――この私がフラれるなんてありえない。どうして? どうして私はフラれたの? 彼に好きな人がいるの?
二度目の告白は、好きな相手の有無を尋ねた延長線上だった。『いないなら私でもいいんじゃないの?』彼はただ、風のように笑うだけだった。
そうして諦めきれず、気づけば五回目の告白を迎えていた。
「そうまでして付き合う理由がわからないな」
「好きなの! あ、あなたのことが……どうしようもなく好きなの」
好きだから付き合いたい。どうしても、
「きみと付き合うことで僕に生じるメリットは? ないだろ」
「で、デートできるとか、楽しいとか?」
「それはきみの都合であって僕の気持ちじゃない」
朝霧はもっともなことを言って切り捨てる。さすがに五回目ともなると耐性がつくものだ。以前のように胸がズキズキと傷つくことはない。それよりも、
「あっ……朝霧、修くんは、私のこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
何度目かの確認にも、彼はいつもの笑みを浮かべて即答した。好きと言っているわけでもないのに、嫌いじゃない、の言葉だけできゅんと胸が跳ねる。
告白を繰り返すうちに、いつしか彼の顔色を窺うようになっていた。傷つけていないか、失礼じゃなかったか、嫌われていないか。
そうしてわかったことがある。きっと彼は、小坂が何を言っても怒らない。彼を蔑み、怒り、もういいと諦めることができても、彼には傷ひとつ付けられない。彼にとっては面倒事が減った、ただそれだけである。
「でも付き合えないの? どうして……好きじゃないから? メリットがないから?」
私と付き合ったら――学校一のカップルになれる。幸せになれる。話題性に困らず、誰もが羨む熱々でラブラブなカップルになれる。メリットだらけだ。でも、それはやはり小坂の都合であって、朝霧のメリットにはならない。
ならば、彼の求めるメリットとは何か。ない頭で考える。
「もしあなたが別の子と付き合ったら、私その子のこと学校に来れなくなるまでいじめちゃう」
「それは怖いな」
朝霧は肩をすくめて笑った。小坂も嬉しくなって笑った。
「でしょ? だったらめぐと付き合って。そうしたら怖いことなんてないのよ」
ほかの女子がいじめられるのが嫌なら、私と付き合うこと。我ながら賢い考えだと思った。
彼女の自信満々な提案を受けて、朝霧はくすりと笑うようにため息をつく。
「暴論だね。僕が誰かと付き合うこと前提で話されても。きみはうまく立ち回ってるつもりでいるけど、はっきり言って逆効果だよ」
小坂の提案は最初から破綻していて、脅しにもなっていない。きっと朝霧以外の男子が相手なら、最低な女として軽蔑されているだろう。けれど朝霧は怒らない。怒るにあたいしないのだ。
「き、嫌いになった?」
「嫌われたいのか?」
朝霧は端正な顔で、ニッといたずらな笑みを浮かべる。小坂はぶるぶると首を振った。
ずるい。嫌われたくない。でも、何の感情も向けられない虚しさを感じる。
好きでも嫌いでもない。感情を向ける価値すら、今の小坂にはないということだ。
いっそのこと嫌いになってほしい。迷惑だと言って突っぱねてほしい。そうすればきっと諦めもつくのに。
彼はゴールまでの道を妨げず、それどころかもっと踏みこんでおいでと甘い言葉で小坂を惑わす。彼女が諦めたらそれまでだ。その程度の女というレッテルが貼られる。
「じゃあ、じゃあ……お金払う!」
小坂はふと思い付いた手段を、声を張り上げて提示した。「それならあなたにもメリットになる。いいでしょ?」と。普通の男子ならば呆れて、引いて、彼女を軽蔑するだろう。
朝霧も当然のように右から左へと流した。
「お金を払ってまで付き合いたいってことでいいのかな」
「気持ちだけじゃない、ほんとに払うもん」
彼の足元にすっかりへりくだっていることにも気づかず、小坂はムキになる。お金で好きな人が手に入るのなら安いものだ。彼女の思考はまっすぐゆえ、一度思い付いた可能性を前面に出した。
朝霧は困った笑みを作り、彼女の頬に手のひらで触れる。小坂の小さな顔の半分を覆えるくらい大きな手だ。
「月いくら払える?」
「いくらでも……あなたが望むなら」
「生活費ときみに捧げる時間代、合わせて四十五万円。払える?」
心臓が歓声を上げている。ピリピリと脳が麻痺している。この一手で決まると、小坂は本能で悟った。
彼が一人暮らしなのは知っているし、そのためのお金が必要なのは当然だ。けれどそんな大金……自分に払えるだろうか。
親に持たされているのはカードである。貯金を下ろせば、ひと月分は払えるはずだ……。
「できる。払える」
キッと眉を吊り上げて朝霧を見つめ返した。彼はその目の奥をじっと覗きこんでくる。心の内側まで見透かされていそうだった。いざとなれば……親に頼んでお金を貰えばいい。
下校時間を過ぎた校舎裏。ひとけはなく、こちらを見る人は誰もいない。
でも今だけは見てほしかった。私を見つめる彼を見て。大好きな人と見つめ合っている私を見て。こんな素敵な人とこんな近距離で触れられてる。羨ましいって思うでしょ?
「なら、いいよ」
「え……?」
「付き合おう」
灰色だった世界が、鮮やかに色づいた。
* * *
「何しに来たの」
ノックをして訪ねた
「昨日は行けなくて……、誕生日おめでとう」
千里と小坂めぐみの拉致監禁事件から二日が経った。
昨日は千里の誕生日。帰り際、警察に事情聴取を受けた渉と朝霧は、見舞いに行く日をずらして訪れた。聴取の理由は、小坂が最後にかけた電話先が朝霧だったためである。
「元気そうでよかった」
朝霧は柔和な笑みを浮かべて、C組の授業のコピーをテーブルに置く。渉も続いてドーナツの箱を隣に置いた。
千里は目を据えて彼らの一挙一動を見つめる。いつもと違う仄暗い雰囲気を肌で感じ、渉はガーゼで覆われた千里の首元に視線を送った。
「あっ、怪我の調子は大丈夫? 無理して動かなくてもいいよ、ベッドにいてくれれば……」
「めぐっちに会ってあげて」
渉の意見など聞いていない様子で、千里は朝霧を正面から捉える。鋭い瞳、硬い表情だった。
「か、彼女とは面会できないって……扉に張り紙もあったし」
「あの日、朝霧くんは何してたの」
千里は続けて渉を無視し、記憶を辿るように目線を下げた。
「めぐっち言ってたよ、助けてって、叫んでたよ。暗闇のなか……めぐっちの悲鳴だけが聞こえてた。朝霧くんは何してたの。助けに来てくれたの?」
そう言って千里は、ガーゼの上から首筋を撫でる。警察からは、犯人にスタンガンで気絶させられたと聞いていた。
首筋に電流を当てるのは危険な行為だ。舌を通って全身に電気が回り、無数の蜂に刺されたような激痛が襲う。千里は動くことも話すこともできず、その場に倒れこんで徐々に意識を失ったそうだ。
朝霧は淡々と事実を口にする。
「
「電話に出たんでしょ? めぐっちの声を聞いて何も思わなかったの?」
「ち、ちーちゃんそれは……」
電話に出たのは朝霧ではなく渉だ。彼女の悲鳴を、確かにこの耳で聞いた。それに朝霧はあのとき――
「何も思わなかったよ」
抑揚なく、朝霧は薄い笑みを浮かべたまま。
「またいつもの嘘だろう。別れた後も面倒をかけてきて、迷惑だなって思ったよ」
まるで電話に出たのが自分であるかのように朝霧は続ける。渉を庇っているわけではない。これは嘘偽りを除いた、彼の本音だ。
千里は見開かれた目で朝霧を見つめ、きゅっと唇を食いしばる。パジャマの横で固めた拳が微震していた。
「……助けたいとは思わなかったの?」
「僕にできたことは何もないよ」
「そうじゃない、気持ちの問題なの。めぐっちを助けたい意思があったのかってことなの」
「もちろんあったよ。でも不可能だったんだ」
「どうして……っ!」
切りつけるような声が狭い個室に響き渡る。扉の隙間から警備員が顔を出し、三人を順に見て首を引っこめた。
「嘘だよそんなの。どうでもいいって思ってたんでしょ? めぐっちは……めぐっちはあなたのことを思っていたのに!」
面会謝絶中で、今もベッドに寝たきりの彼女に代わって怒っているようだった。怒りながら、千里は見えない涙を流していた。
朝霧は何も言わずに千里の顔を眺めている。渉は息を呑み、口を挟めずにいた。千里の勢いに圧倒されているのではない、今は何を言っても許されない気がしたのだ。
「帰って」
千里は言った、もう一度。帰って、と。
渉と朝霧は黙って病室を後にした。誰かのためにこんなにも怒る千里を見たのははじめてだった。いつも陽気に空気を読んで生きているあの千里が、震えるほど怒っていた。
彼女らが襲われた時間、朝霧は重度のアレルギー症状を引き起こして動けなかった。その責任は渉にある。
渉は、確かに送られたSOSを無視した、その罪悪感はいつまで経っても消えない。必要のない罪を、責任を、渉一人だけが背負っている。背負わされている。
視界が端から、ほろほろと色褪せていく。
朝霧は、隣で力なく歩く渉を一瞥し、にこりと満足気に笑った。
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