生命の灯火

 大丈夫。きっと大丈夫だよ。何かあったらまた連絡するね。――そう入念に心配し合ったにも関わらず、予期せぬ事態となってしまった。

 千里と連絡がつかない。連絡をしても既読がつかない。電話が繋がらない。

『考えすぎかな……』と、スマホの向こう側で凛は不安そうに呟いた。誰よりも凛を優先する千里が、親友の連絡を無視するはずがない。これは異常事態である。

 そう頭では理解しても――私たちの勘違いで、早とちりで、何かの間違いであってほしいと、芽亜凛は切に願った。


 千里の過保護な両親は、夕方には帰るよう一人娘に言い聞かせている。遅くなるときは事前に連絡し、どこにいるか誰といるか千里はきちんと伝えていた。そんな千里が親にも、あまつさえお泊り中の凛にも、一言だって連絡がない。

 おかしい。何かあったに決まっている。

 芽亜凛は凛に地図アプリで場所を共有してもらい、再び合流することを約束した。場所は、学校近くの――以前、宮部みやべりくに頼まれて利用した、あのビジネスホテルだ。


 時刻は午後七時。ホテル前で数時間ぶりに会った凛は、「芽亜凛ちゃん!」と悲痛な声で駆け寄る。


「ちーちゃん、ここにいるみたい……」


 一人? それとも誰かと一緒にいる? 男の人? 不安定に揺れる瞳は、安心できる未来の材料を求めていた。

 芽亜凛は凛の思考を肯定するように、


「一人か、もしかしたら誰かといるかも」

「誰? 私、ちーちゃんに何も聞いてなくて……」

「凛、落ち着いて。深呼吸」


 安堵したい気持ちが先走り、冷静さを欠くのは危険である。凛はぎゅっと胸にスマホを握りしめ、言われたとおり深くゆっくりと呼吸した。

 山吹色の街灯が、二人の影をくっきりと照らし出す。縦に長く伸びて、行き交う自転車に轢かれていく。頼りない姿だった。


 落ち着きたいのは芽亜凛も同じだ。凛と電話を終えてすぐにネコメへと連絡を入れたが、事件の捜査中なのか繋がらない。事情と場所をメッセージに残したが、来てくれるかどうか……。

 ふうっと息を吐いた凛は、「もう大丈夫」と眉を吊り上げる。芽亜凛はうんと頷いた。


「もしかしたら、あの茉結華がいるかもしれない」

「芽亜凛ちゃんがはじめに話してくれた、拉致、監禁……?」

「うん。だからまだ生きてる。死んじゃいないわ」


 それと……、A組の小坂めぐみが一緒かもしれない。芽亜凛はそこまで予想を広げたが、不確定な情報は混乱を呼ぶため押し殺した。

 凛は、まだ私たちの勘違いの可能性もある、と思案顔で告げていた。そうであってほしい、考えることは一緒だ。


 二人でスマホを再確認するが、やはり千里の返事はなかった。彼女のはこのホテルを指している。なかにいるのは確実だ。

 GPS――スマホのではない。

 念には念を入れ二人は準備してきた。もう茉結華に悪足掻きさせない。先の先まで見越して、彼の暴走を止めてやる。繋いだ赤い糸を頼りに、このビジネスホテルまでやってきたのだから。


 でもどうする。部屋まではわからない、尋ねるしかない。どうやって? 未成年の少女二人に、いったい何ができると言うのか。


「行こう」


 行くしかないよと、凛は意を決した。二人とも昼間履いていたサンダルではなく、スニーカーの足音を鳴らして階段を上っていく。

 ホテルの自動ドアを抜けた途端、芽亜凛はぎくりとして警戒心を強めた。

 ロビーに茉結華が潜んでいる――その可能性を考えていなかった。二人の姿を見ればきっと彼は部屋に戻り、千里を殺すだろう。

 芽亜凛は睨むように視線を走らせ、周囲の客を警戒する。自然と、凛の手を握っていた。凛も隣で息を止める。


「……大丈夫。ここにはいないわ」


 茉結華の外での容姿は把握済みだ、白い髪に黒のキャップ帽を被っている。芽亜凛ならひと目で特定可能である。

 ひとまず安心するとして、フロントに着いた凛が口を開いた。


「あ、あの……」

「こんばんは。ご予約のお客様でしょうか」

「っ、えっと……」


 どうしよう、と視線で訴えかける。予想どおりの展開に気持ちが萎縮するも、負けじと芽亜凛が続けた。


「ここに泊まっているお客さんについて聞きたいんです。白い髪の男が、今日来ませんでしたか」


 男? と凛が横目で芽亜凛を見たが、問わなかった。


「申し訳ございません。お客様の情報はお教えできません」

「焦げ茶色のサイドテール」


 自分の髪留めを指さし、今度は凛が食い下がる。


「これと同じ赤い髪留めをしてて、背はこれくらいの女の子。来ませんでしたか?」

「申し訳ございませんが……」

「泊まってなくてもいいんです、来てませんか? 見かけただけでもいいんです、何か情報は……」


 受付員は困った笑みを浮かべて「申し訳ございません」と頭を下げた。「お願いします!」と二人は深く腰を折る。受付員は「申し訳ございませんが……」と丁重に繰り返した。

 ――やっぱり駄目。

 所詮は子供、女子高生。未成年で力もない。誰かを守るよりも守られる側の子供たち。でも、それなら――大人が守ってくれない子供を、誰が救えると言うのだろう。


 諦めかけたそのとき。受付員の視線が二人の後ろを見ると同時に、すうっと顔色が蒼くなって、芽亜凛たちは振り向いた。


「国家権力でーす」


 きらり輝く警察手帳をかざしたモッズコート姿のネコメが、にこやかに微笑んだ。




「防犯カメラの映像を見せてもらっていいですか? そちらの管理業者にはもう連絡が行っているんですが」

「しょ、少々お待ちください!」


 仮面のような笑みで頑なに拒み続けていた受付員は、別の従業員にフロントを任せて、三人を奥の管理室に案内した。手際よく交渉を進めるネコメの後ろで、芽亜凛と凛は繋いだ手をぎゅっと強く握る。


「大丈夫」

「うん……」


 きっと大丈夫だから、互いの胸に言い聞かせる。

 映像の準備が完了して、二人はネコメの一歩前でしゃがんだ。薄い液晶ディスプレイに複数の防犯カメラ映像が記録されている。ネコメは朝、昼、夕方に時間を分けて、倍速で再生するよう求めた。

 そして、『それ』を目にしたとき、芽亜凛は声が出せなかった。


「止めてください。少し巻き戻して」


 芽亜凛が画面を指さすのと同時にネコメの鋭い声が響き渡る。それは昼過ぎのフロントでの映像だった。

 ふたつの大きなスーツケースを引く白い髪の男が、はっきりと映し出されている。黒いキャップ帽を目深に被っている、後ろ姿だった。


「この客が泊まった部屋は?」


 管理員はタブレットを指で弾き、客のチェックイン記録を確認する。


「よ、四〇四号室です」

「鍵を」

「は、はい!」


 どくんどくんと、心臓の鼓動が痛いくらいに大きく唸る。予感は嫌なほうを引いてしまったようだ。

 ……茉結華だ。茉結華がいる。前と同じ……芽亜凛の知らぬ場所で、千里はこんなふうに連れ去られていたのだろう。でもこんな、ホテルでのパターンははじめてだ。

 三人は管理員とともに四〇四号室へと急いだ。ネコメが前に出てカードキーで解錠する。音を立てずにドアを開き、暗闇と対峙するまもなく壁のスイッチを押して電気をつける。


 手狭なシングルルーム。ベッドの横にはスーツケースがふたつ、横倒しに置かれていた。ネコメは部屋に入る前に、手前のシャワー室とクローゼットも確認する。なかに人はいないみたいだった。でもここが茉結華の借りた部屋だというのは間違いない。

 ネコメは手袋をはめて、慎重にスーツケースを開いた。体育座りのようにきつく折り畳まれた足が見え、芽亜凛は思わず口を手で覆う。


「う、うっ、う……」


 恐怖で見開かれた両目は血走って震えていた。「警察です」とネコメが低く言うと、溢れんばかりの涙がこぼれ落ちる。ネコメの作る影の下で、赤い髪留めが点灯していた。


 都内のビジネスホテルの一室、ふたつのスーツケースのなかから二人の少女が見つかった。二人とも両手両足を拘束され、口にはタオルが詰めこまれていた。

 一人は首に軽傷を負い、もう一人は心神喪失状態と見られる。犯人がホテルに残した名前は山田太郎。おそらく偽名と思われる――

 ネコメの報告により、警察は誘拐事件として捜査を進めるようだった。


 見つかってよかった、生きていてくれてよかった……。

 担架で救急車に乗る千里を見て、芽亜凛と凛は互いに寄り添い涙した。サイレンが遠ざかり、聞こえなくなるまでずっと、ずっと。

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