天秤にかけられたSOS

 ハンガーに掛かったパステルカラーのTシャツを渉の胸に重ねて、朝霧は笑う。


「うん、望月もちづきくんによく似合う」

「でかくない……?」

「青もあるよ」


 そう言って別の色を渉に見せる。朝霧の勧める涼し気なTシャツはどれもカラフルで、袖が肘にかかる大きめのサイズだ。


『友達でしょ?』の脅し付きで、休日一緒に遊ぼうよと誘ってきたのは当然朝霧のほうだった。凛はもちろん、響弥たちと遊ぶ約束もない渉は嫌々承諾して今に至る。

 どうせまた嘘なんじゃないかと思っていた渉は、自分より早く待ち合わせ場所に着いていた朝霧の姿を見てほっとした。無事に会えた。たったそれだけのことで嬉しくなる自分が憎い。


 アウトレットモールで転々と買い物をするのは、響弥たちとじゃ味わえない楽しさだった。凛や姉の買い物に付き合うことはあったが、男子二人とするのははじめてだ。

 普段から暗い色の服ばかり着ている渉は、朝霧の招くおしゃれ男子の世界に尻込みする。


「俺こういうのあまり着ないし、似合うかわかんねえし、かっこいいのとかよくわかんなくて」

「望月くんって肩幅あるし体格もいいから、こういうゆったりめのシルエットが似合うと思うけどな。僕もよく着てるよ」

「お前はなんでも似合うだろ」


 朝霧はくすりと笑って「まあね」と自信ありげに流す。無地の白Tシャツにネックレスを添えた彼の私服はよく似合っている。

 予想はしていたが、朝霧は渉の苦手な『イケてる男子』だ。ゲーセンやカラオケで遊んでばかりの渉やいつメンの遥か上を行く、大人びた男子高校生。憧れはあるが、渉は恥ずかしくて手を出しづらい。


「でも望月くんが見たのはこないだの部屋着くらいだろ。休日に会うのははじめてだし」

「そんなことねえよ。遊園地でジャケット着て……」


 言ってからおかしなことに気づく。遊園地……いたのは凛と千里と芽亜凛だ。

 あの日の少し背伸びした凛の服装は今でも鮮明に憶えている。黒のTシャツに青色のチュールサロペット、脱ぎづらそうなサンダル、真新しいミニバッグ。

 ジェットコースターではしゃぐ凛の笑顔も、観覧車で見たつらそうな表情も、二人を切り裂いたオレンジ色の夕日も全部……。


 でも、いもしない朝霧の服装も憶えている。白シャツに薄手のジャケット、黒の腕時計、虚ろな目、傷だらけの肌、切り落とされた左手――


「っ!」

「望月くん、大丈夫?」


 リノリウムの床をぼうっと見つめる渉の肩を朝霧が叩いた。腕時計がきらめく左手だった。

 渉は生唾を飲んで「あ……大丈夫」と掠れた声を出す。理解不能なフラッシュバック。だが不思議と心は落ち着いていた。頭痛もない。憶えているのが当たり前とでも言うように、身体が順応しつつあった。


「疲れちゃった?」

「いや、まだ全然……それ買うよ、いくら?」


 値札をめくって渉は喉を詰まらせる。


「たっ、高くね……?」


 店員に聞こえないよう小声で伺う。こういうものなのか、これが普通なのか。渉の普段着の三倍はする値段だった。


「僕が選んだんだし買ってあげようか?」

「い、いやぁ……でも……」

「僕に借りを作りたいならいいよ」

「嫌な言い方をするな」


 無条件に面倒くさい朝霧に、金銭の絡む借りを作るなどまっぴらである。渉は、Tシャツ一枚ならいいか、と認めて購入した。

 朝霧は別の服を何枚か買って、そのうちのワンセットを渉の紙袋に入れる。


「えっ」

「今日付き合ってくれたお礼」


 純粋な好意か、それとも何か企んでいるのか。にこりと笑む朝霧に心乱されつつ渉は「あ、ありがとう……」と素直に受け入れた。


(俺のこと嫌いなくせに、よくやるよなー……)


 朝霧がどんな気持ちで渉に構うのか、渉にはわからないことだ。だが彼が親切心を見せるたび渉の心はざわつき、妙な罪悪感に駆られる。嫌いなら嫌いで、もっと徹底してほしいとさえ思うほどに。

 店を出てしばらく歩いた先で、渉は両目を輝かせた。


「朝霧! 猫、猫!」


 慌てて朝霧の袖を掴み、あれあれと指をさす。ガラス扉の向こう側で何匹もの猫が優雅に昼寝をしている。

 猫カフェだ。実際に見るのははじめてである。

 朝霧は子供と視線を合わせるように首を傾けて、


「ん、行きたい?」

「えっ、行かねえの?」


 渉のなかでは行くの一択だった。朝霧も同じかと思っていたが、なぜか彼は謙遜している。


「望月くんが行きたいなら、いいよ」

「猫好きなんじゃねえの?」

「好きだよ。覚えててくれたんだ」

「ほら、行こうぜ。ジュース一杯奢るから」


 猫に遊ばれないようコインロッカーに荷物を預けて、渉は朝霧の腕を引っ張りカフェへと連れこんだ。すぐに店員がやってきて、利用時間と料金を問う。渉は三十分五百円のコースを選んで、テーブル席に着いた。

「可愛い……」思わず声を漏らして猫を見ていると、朝霧がじっとこちらを見つめていることに気がついた。


「ん?」

「ドリンク。何にする?」


 渉はメニュー表を覗きこみ、「イチジクジュースだって。珍しいな」と指をさす。「旬だからね。甘酸っぱくておいしいよ」と朝霧が言うので、二人で同じものを頼んだ。


「イチジクは恋の味。ザクロは人の味ってね」

「怖いこと言うな……」


 つんと唇を尖らせていると、渉の膝に長毛のマンチカンがぴょんと跳び乗った。

 渉ははっと息を呑み、両手を上げて固まる。猫はその場でくるくると旋回し、身体にフィットする角度を見つけて座った。


「く、か、可愛い……」

「寝心地がいいみたいだね」

「朝霧も触る?」

「僕はいいよ、起こしちゃ悪い」


 猫はもう二匹ほど二人の足元をうろついていた。おやつが欲しいのか、はじめて見る客に興味津々のようである。

 鮮やかな紅色のジュースが席に届いた際、店員は「その子あまり人に寄らないんですよ」と意外な様子で話した。朝霧は、「望月くんは猫だから」とわけのわからないこと言ってストローに口を付ける。

 渉は猫を起こさぬよう慎重に手を伸ばしてジュースを飲んだ。聞いたとおり、甘酸っぱくて濃厚な味が渇いた喉を潤す。


 猫が好きと言っていた割りに朝霧はいつもどおり穏やかで、渉のほうがテンションを上げていた。喜んでくれるかと期待して誘ったが、朝霧は渉の想定外に感情の起伏がない。渉が猫じゃらしで戯れている間も、朝霧は席を動かず、ジュースを飲んで微笑んでいた。


「なあ、朝霧もやってみろよ。猫、可愛いぞ」

「僕はいいよ」

「なんで?」


 疲れたように目を伏せて、けれども朝霧の口元は微笑を浮かべる。


「なんでって……」


 そのとき渉は、朝霧の首が赤くただれていることに気がついた。はあっ……と苦しげに細い息を吐く、その口に寄せた腕も同じように炎症を引き起こしていて、渉はようやく朝霧の異変を察する。


「朝霧、大丈夫か? なんか、その……」

「少し……無理したみたい」


 赤く充血した目を潤ませて、「時間だろ、行こう」と朝霧は腰を上げる。先にカフェを出るその姿は一刻も早くこの場から逃れたいように見えた。

 渉はドリンク代を支払って急いで朝霧の後を追う。胸を押さえてふらふらと進む彼を視界に捉えて、いよいよ不安は高まった。


「朝霧!」


 駆けつけて渉はびたりと足を止める。

 朝霧は苦しそうに息をして排水溝にうなだれていた。ケホケホと咳きこんだかと思えば、真っ赤な液体がボタボタと吐き出される。渉は、排水溝に落ちる赤い吐瀉物に釘付けになった。

 一瞬でもそれが血に見えて、頭のなかが明滅する。


「あ、朝霧……っ」


 背中に手を伸ばし、触れる直前で自分の服が猫の毛だらけだと知って引っこめる。


「ごめん、俺……あの、知らなくて……」

「あははっ……いいよ、猫アレルギーだって、言ってなかったね」


 朝霧ははあはあと肩で息をし、赤く潤んだ瞳で微笑む。


「い、言ってくれれば行かなかったのに、なんで……」

「きみが誘ってくれたから。断る理由ないよ」


 そう言って朝霧はまたゲホゲホと咳きこんだ。吐き出されるのは赤い血ではなく、先ほど飲んだイチジクのジュース。

 炎症、充血、呼吸困難……。まさか朝霧が重度の猫アレルギー持ちとは夢にも思わず、渉はおろおろとうろたえた。

 頼りがいがあって何にも動揺せず、ぐんぐん渉を引っ張っていくあの朝霧が弱っている。からいものを――朝霧と食べた覚えはないけれど、記憶はある――食べても汗ひとつかかなかった顔が、今じゃ別人のように苦しげだ。


 まずは着替えるべきか、それともそばを離れず症状が治まるのを待つべきか。病院に行くか、救急車を呼んだほうがいいか?

 考えている間に朝霧のスマホが着信音を奏でる。朝霧はポケットからスマホを出し、渉に託した。切れ、ではなく、代わりに出てくれと言いたげだった。画面をスライドし、渉はスマホに耳を当てる。


しゅう! 助けてぇ! たす――』


 聞こえてきたのは女の子の悲痛な叫び声。電話はそこで途絶え、渉は何がなんだかわからぬままスマホを差し出す。


「えっと……誰か、女の子が呼んでたけど……助けてって……」


 朝霧は片頬だけで笑って、唇を拭った。


「言っただろ、前に付き合ってた子が嘘の呼び出しばかりするって」

「でも、切羽詰まってたような……」

「望月くんは今目の前で倒れかけてる僕と、電話越しの助け。どっちが大事なの」

「そ、そりゃあ朝霧のほうが大事だけど……」


 電話は一瞬で切られてしまった。真偽不明で比べようがない。それに朝霧がアレルギーを起こしたのは渉の責任だ。倒れそうな彼を放っておくのは無理がある。


「行こう。少し休めば治まる。涼しい場所でひと休みしよう」


 朝霧はふらつく足取りで歩き出す。渉は服に付いた猫の毛を取りながら、少し距離を空けて隣を歩いた。

 天秤にかけられたSOS。電話の声が耳にこびりついて離れない。助けて、と叫んで途切れた彼女の声が、渉の胸を不安の渦で満たしていく。


 ――さっきのは、嘘じゃなかった気がする。でも、しょうがないだろう?


 渉は頭を振って邪念を払った。胸のざわつきは日が落ちるまで続いた。

 蘇ったあの声は、見捨てないでと叫んでいるかのようだった。

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