恐怖も一緒に
レースのハンカチを目元に当てて、
空のジュースとポップコーンの容器をゴミ箱に捨てて、円形のソファーに腰を下ろし、
「恋愛映画でここまで泣く人はじめて見たよぉ」
「だってぇぇぇ……」
ハンカチの隙間から小坂の泣き腫らした目が覗く。
「あの子、頑張ったのにぃ……好きなっ、人のっために、がんば、ったのにぃ……」
「う、うん。そうだね、悲しかったね」
「悲しかっ、たぁぁぁ!」
映画館の外でびいびい泣くピンク髪の少女を、通行人は奇異の目で一瞥していく。小坂は人目も憚らず、千里の差し出したポケットティッシュで盛大に鼻をかんだ。
わがままで高飛車なお嬢様の彼女が、子供のように泣いている。学校ではとても見られない、これが本当の彼女の姿だと千里は思った。
小坂に誘われて見た映画は、高校生の報われない恋を描いた純愛ストーリー。
主人公は地味な女の子だが、クラスで人気者の男の子に恋してしまう。彼に相応しくなるため自分磨きに精を出す一方、今まで応援してくれた親友の裏切りが発覚する。また男の子の親友は主人公のことが好きで、すべてが片思いの四角関係が成立してしまうのだった。
結局男の子と結ばれたのは、まったく関係ないクラスの優等生。残り三人の恋は報われず、新しい春を迎えて映画は終了する。
それまでの葛藤や人間模様が涙を誘うのだけれど、千里はちっとも泣けなかった。これならホラー映画のほうが楽しめただろう。小坂が「絶対に嫌」と言うので妥協したが、隣で鼻をすする彼女の感情移入っぷりには驚かされた。まるで自分の心が干上がっているみたいである。
「めぐっち目赤いよ?」
「うう……最悪」
小坂は手鏡を見て悪態をつく。化粧直しに行く雰囲気を察して席を立ち、千里は身体を貫くような鋭い視線を感じた。
ゾッとして背後を振り返る。通行人がまばらに行き来しているだけだった。……誰もいない。
「千里? どうかした?」
「……ん、いや」
「早く行きましょ」
そうだね、と苦笑いを浮かべて化粧直しに向かう。……今の気配は何だったのだろう。
上映時間の都合か、手洗い場は空いていた。小坂は腫れた目を水で冷やし、滲んだメイクを綿棒で拭う。千里はいつもどおりのノーメイクなため、リップクリームと髪留めを整えるだけである。
「それいつもしてるわよね。親友とお揃い?」
千里の赤い髪留めを見て小坂が言う。
「なーんかボロボロじゃない? 新しいの買ったげよっか」
「えー、いいよぉ。めぐっちは奢りすぎ。わたしはこれがいいの」
小坂は「ふぅん」と鼻を鳴らす。今日の映画も食事も、すべて彼女の奢りである。
出会った日からそうだったが、彼女には奢り癖があるようで。千里が財布を出すと、私が払うからいいよと遮られてしまう。
これには他人に奢られるのが好きな千里もさすがに戸惑った。人の金で焼肉が食べたい! などと冗談で口にするが、小坂の前で言えば本気で叶うだろう。
それはお嬢様の気前のよさというより、自分が出さなきゃという強迫観念に近い。ほかの友達にもそうしているのだろうか。利用されるだけじゃないかと、千里は人知れず危惧した。
小坂にいくら奢り癖があったとしても、この髪留めだけは外せない。これは凛と千里を繋ぐ鎖だ。平日休日問わず、いつも着けている。凛が外さぬ限り、千里も外すことはないだろう。
「それにこないだ直してもらったんだぁ。いいでしょ」
「壊れたの?」
「うん。気づかなかったけど、ほつれてたみたい」
「買い直せばいいのに」
庶民の感覚はわからないわ、と言いたげに小坂は首をひねる。
「めぐっちだってそのチョーカー壊れたら直すでしょ? 同じだよぉ」
小坂が肌身離さず着けているハート型のチョーカーが、朝霧のくれたはじめてのプレゼントだというのは前に聞いた話だ。彼女は千里が尋ねなくとも、朝霧の話を次から次へと聞かせてくれる。小坂は「まあね……」と照れくさそうにチョーカーに触れた。
どんなに古くなっても、大切な人からの贈り物は捨てられない。壊れても使いたくなるものである。
手洗い場をあとにして外に出ると、時刻はちょうどお昼時。映画館でチュロスやポップコーンを平らげても、食欲はまだまだ健在だ。どこかでひと休みするとしよう。
今度こそ奢らせないようにしなきゃ、と思った矢先、再びあの鋭い視線が身体を射抜く。千里は身を強張らせて後ろを振り向いた。
見知らぬ男子が二人。片方はニヤニヤと顔を歪めて、もう片方は真顔で千里たちを見ている。二人とも日焼けしていて屈強そうな体格だった。
「めぐっち……」千里は小声で言って、小坂の肩をつつく。
「あ、やっぱり。お前小坂めぐみだろ」
「は?」
小坂は、出入り口から歩いてくる男の顔を見て眉をひそめる。
「何? 誰よあんた。ナンパはお断りだけど?」
「はあ? 誰がお前みたいなクソ女に……」
「縋ってきたくせに気持ち悪」
「はあ?」
千里は喧嘩腰の双方に怯えながら「誰?」と小坂に問う。
「知らない。くさい童貞じゃない? わざわざ声かけてきてマジキモい」
「絶対知り合いだよね……」
「元彼だよ、元彼。忘れてんじゃねえぞタコ」
と、小坂の元彼だと言う男は口調を荒げる。
「うるさいわねぇ、人前で騒がないでよ」
「喧嘩売ってきたのはお前だろ。ていうか童貞じゃねえし。お前より可愛い子と付き合ってるし」
「あっそ。私もあんたとしなくてよかったわ。身体汚れるし。どうせ下手くそでしょ? 顔見りゃわかるのよ」
男は怒りで顔半分を痙攣させる。先ほどの視線は彼らのものだったのか、それにしては悪寒が走るような鋭利な気配だったが。
「お前さぁ、藤北で偉ぶってるみたいだけど、それ勘違いだからな。みんなお前のコレ目当てで付き合ってんだよ、わかる? お前のクソみたいな性格にはうんざりなんだよ」
コレ、のところで親指と人差し指で輪っかを作り、元彼は嘲笑する。千里はムッと眉を吊り上げた。自分まで馬鹿にされたみたいで気分が悪い。だが反論する前に、小坂めぐみは一蹴する。
「だったら何? あんたは尻に敷かれてただけじゃない。あんたに何かした覚えは一度もないし、そんな価値もない。今さら妬んできて超キモいんだけど」
「ほらな、こういう奴なんだよ。自分は金しか持ってねえくせに、他人を見下して奴隷にするんだ。あんたも気をつけな」
元彼は細い両目で、千里を舐めるように見た。上から下へ、品定めするかのように。そうしてまた不敵な笑みを浮かべる。
「お前もレベル下がったな。捨てられたか?」
千里には意味がわからなかったが、小坂は瞬時に踏みこんで元彼の股間をヒールで蹴り上げた。
「ぐっ!?」
「私のことは馬鹿にしていいけど、千里は関係ないでしょ!」
行こ! と千里の手を取って、二人は逃げるように歩道を駆けていく。男の怒号が飛んできたが振り返ることなく、千里は呆気にとられながらも手を引かれるがまま走った。殺されそうな雰囲気に後ろ髪がビリビリと痺れる。
二人はファーストフード店の陰に隠れて息を潜めた。男は追ってこなかった。振り切ったのか、追う気はないみたいだった。
「っと……最悪……あのクソ男」
大きく息を吐いて、なんとか呼吸を整える。短距離走でもしたような気分だったが、ドクドクと忙しく鳴る鼓動は疲労よりも恐怖によるものだった。本当に殺されるかと思う気迫だった。
「怖い人だったね……」
「うん……」
小坂は力なく素直に頷いて、「ごめんね」と言った。
「せっかくの休日が、あいつのせいで台なし」
「いいよ。わたしもムカッと来てたし、めぐっちが怒ってくれてスッキリした。……ありがとう」
レベルがどうのと言っていた意味はわからずじまいだったが、友達を貶されてこんなにも怒ってくれたことが嬉しかった。
小坂は「当たり前でしょ」と言って、「もう一発蹴りこんでやりたかったわよ」とヒールをコッコッと鳴らす。千里は「わたしもだよ」と快活に笑った。あんな怖い人と対峙するのは二度とごめんだが、たまにはこんなスリルを味わうのも悪くない。
「お昼、どうする? 買って帰る?」
「えぇっ、もう帰るの?」
「馬鹿ね、私の家よ。ドラマも映画も見放題だけど、どう?」
「行く!」
家で見る映画が好きな千里はきゃっきゃと飛び跳ねた。小坂の家はきっと豪邸で楽しいだろう。ハンバーガーとポテトを山盛り買って、二人で食べよう。バスに乗って帰ればあっという間である。
気持ちに羽が生えて、今ならどこへでも行けそうだ。自由気ままなお嬢様とどこまでも。
その願いを叶えるかのように。家に帰った二人は、暗く狭いスーツケースに詰めこまれた。
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