透き通った笑顔

 病院を出た刑事の綾瀬あやせ灰本はいもとは、本部で報告書を作り終えると取調室に足を向けた。

 女がいたほうがいいだろうと聴取班に配属されたが、被害者の女子高生――小坂めぐみはまだ話せる状態ではない。まるで魂を刈り取られてしまったかのように、彼女の意識はどこか遠い場所にある。心ここにあらずとはよく言ったものだ。


「明日はどうします、また学校に行きますか?」

「いや、生徒に怪しい奴はいねえよ」


 小坂が最後に連絡した男子二人の聴取も、綾瀬たちが担当している。

 恋人に助けを求めた彼女の悲鳴と自分らの思いを、二人は正直に話してくれた。同時刻に体調を崩していたのは言い訳がましく聞こえたが、いたずらだと思った気持ちは本物だろう。彼らは事件と無関係だ。


 もう一人の被害者、松葉まつば千里は首の怪我以外、健康状態は良好。むしろ誘拐事件の被害者のなかでは、精神面が安定していたと言ってもいい。

 肝心なのは、少女らが犯人を見たかどうかだが、残念ながら千里は見ていなかった。死角から襲われ、彼女の視界は瞬く間に暗転した。そして咄嗟に逃げ出した小坂は、恋人に助けを求めた……。


「めぐみさんに聞くのが一番早いが、あの様子じゃ無理だろうな」


 彼女は犯人の顔を見ている可能性が高い。敵を追い詰める最も有力な手がかりは、彼女が握っている。そのためにも、一刻も早く自分を取り戻してもらわなくては。


「そうですね……せめて話だけでも伝えられたらよかったのに」

「看護師のガードも固かったしな、また追い出されるのがオチだろう」


 綾瀬は捜査室の扉をノックした。室内には誰もおらず、目の前の透視鏡には長海ながみとネコメの姿がある。二人は今まさに、稗苗ひえなえ永遠とわの取り調べをしている最中だった。

 稗苗永遠。二十二歳の大学生。叔父の殺人容疑で逮捕された彼女は、


「あなたの部屋のフローリングから、叔父の稗苗敏雄としおの血液が検出されました。殺したのはあなたですね?」

「……知りません」

「なるほど、殺人は否定すると。しかしカーペットを購入し、血痕を隠したのはあなたでしょう?」

「だから知りませんって」

「遺体のありかを知るのは犯人のみです。殺しと隠蔽、どちらも否定するあなたは犯人ではないと? ならば叔父を殺したのは、彼ですか?」


 ネコメはそう言って、ノートパソコンを彼女に見せた。永遠は血の気の引いた顔で唇をつぐみ、以来黙秘を続けている。


「本当にあの少年が犯人なんでしょうか」


 隣で灰本が、長海とネコメを疑う。


「二人はそう思ってるみたいだな。ガキが犯人なんて」


 ありえない、とは言わない。現に永遠は、ノートパソコンに映した白髪の少年を見て態度を変えた。

 透視鏡の向こう側で、長海が再びパソコンを見せる。


「ここに映っているのは、一昨日発生した事件の被疑者と見られる人物だ。先日見せた少年とよく似ていると思わないか」


 永遠は眉間にしわを寄せ、画面をじっくりと見つめる。


「あなたは彼が助けてくれると思いたいんだろう。しかし彼は何食わぬ顔で、今日も学校に来ていたよ」


 二人はあくまで『白髪の少年』を追っている。その正体は報告されていない。証拠が掴めていないのだ。

 だが永遠を揺さぶるには十分だった。彼女は何か言いたそうに唇を震わす。


「あなたは彼の叔母をかたっていた。独断であれば詐欺に問われる。しかし彼の指示なら、あなたたちは何か大きな目的を持っていたはずだ。叔父の死とはまた別の目的をね」

「我々は彼、茉結華まゆかを追っています。あなたが黙秘を続けていても彼は捕まりますよ」

「……っ」


 永遠は唇の端を引きつらせ、「知らないって言ってるでしょう……」と血走った目で答えた。


「マユカ……聞かない名ですね。――綾瀬さん?」


 少年の名をはじめて知った灰本は、曇った顔つきの綾瀬刑事を問う。綾瀬は珍しくしどろもどろに頷いた。


「男でマユカは初耳だな」


    * * *


 人前では、いい叔父さんだった。並んで歩けば、それはそれは仲睦まじい親子のように見えただろう。

 だがその裏で、永遠は深い傷を負っていた。どんなに忘れようと努力しても消えない傷跡を、心に身体に、刻みこまれた。


「ともに神に祈ろう。祈る者は救われる。そうだろう永遠」


 記憶のなかで、彼は手を合わせて微笑む。

 両親は、永遠が小学生のときに離婚した。父は病死、母は別の男と再婚し、なくなった彼女の居場所を叔父が与えてくれた。


 叔父は優しい人だった。裕福ではなかったが、父の保険金の受取人が彼になっていたため、生活に困ることはなかった。中学に上がる頃には、叔父は高校にも行きたいなら援助すると言ってくれて、将来の心配をする必要がなくなった。

 同時期に、儀式がはじまった。指と指を交差し、両手を合わせる。叔父の左手と、永遠の右手。

 永遠とずっと仲良くいるための儀式。ありとあらゆる穢れから彼女を守るためだと、叔父は言った。


 丸く膨らんだ永遠の胸に右手を乗せる。発育途中の彼女の身体を、叔父は興奮しきった赤ら顔で貪った。

 最初は無抵抗だった永遠は保健の授業でそれを習うと、途端にその異様さに気づいた。叔父はおかしい。家族でこんなことをするのは狂ってる。


 儀式を拒んだ永遠の頬を、叔父は手のひらが赤くなるまで平手打ちした。悪い子だ。悪魔が取り憑いている。叔父さんが祓ってあげよう。永遠には私しかいないのだから、と。


 叔父は永遠をうつ伏せにすると、長い髪を掴んであらわになった細い首にタバコの火を押しつけた。音もなく、逃れようのない熱が痛みとなってちりちりと広がる。悪魔はこのにおいが嫌いなんだ。叔父はそう言ってよくタバコを吸っていた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 永遠は絶叫し、懇願し、涙を流し、叔父の手によって開かれた身体を差し出した。


 私はこの先、死ぬまでずっと、叔父の言いなりなんだ。

 家庭の苦しみから本当の自分を解放するかのように、永遠は高校から続けていた演劇に、大学に入っても打ちこんだ。空き時間はカフェでバイトをし、独り立ちするための準備を着々と続けた。

 年が明けて、彼は、お客さんとして店に現れた。


「お姉さん」


 呼び止めたのは、くりくりの両目でにこやかに笑う黒髪の少年。


「お姉さん、この近くの大学で演劇してたでしょ。すっげえかっこよかった! また見に行ってもいい?」


 無邪気に告げる少年に、永遠は警戒色を示した。私の演劇のファン? バイト先まで突き止めて声をかけてくるなんて。

 ナンパはお断りだ。男なんて誰も信じられない。たとえそれが年下であっても、あのスラックスの下に渦巻くのはどす黒い欲望だ。


「どうぞ」


 営業スマイルで軽くあしらったものの、その後も彼は定期的に店を訪れた。彼が来るのは決まって演劇の公演をした週。

 名前を問えば、彼は「響弥きょうやだよ。今はね」と含みのある自己紹介をした。地元の高校に通う一年生で、演劇部には入っていないらしい。

 他愛もない会話を重ねるうちに、永遠は会場で彼の姿を探すようになったが、会えたためしは一度もない。本当に見ているのか疑念を抱いたが、演劇の話は深くまで通用するし、心から永遠の演技を楽しんでいるようだった。


「今度永遠ちゃんの家に行ってもいい?」

「駄目!」


 怒りと気恥ずかしさで永遠は激しく否定する。響弥は思春期特有の異性に対する興味と好奇心から永遠を気に入っているようだったが、彼女は頑なに拒み続けた。

 だって、家には叔父がいるから。

 儀式は今でも続いている。夜になると、叔父は度々永遠の身体をまさぐった。眠ったふりをしていても、強引に服を脱がして下着のなかに腕を入れる。荒い鼻息が頬にかかった。


 そんな叔父に、男の子といるところを見られたら、何をされるか知れたものじゃない。拒み続ける永遠の気持ちをよそに、しかし響弥は現れた。

 バイト帰り。白い吐息が夜空に消える。


「響弥くん……!」

「へへ、来ちゃった」


 どれだけの間、永遠の帰りを待っていたのだろう。冬の冷気で赤くなった鼻をこすって、「おかえり」と響弥は照れくさそうに笑った。

 家に上げてほしそうな彼を、永遠は首を振って断る。


「駄目。帰って」

「さっき永遠ちゃんのお父さんに会ったよ」


 喉を氷柱で刺されたかのような衝撃が永遠を貫いた。目を見開いて響弥を凝視する、その視界が急速に狭まる。

 そのあとは、どうやって彼を追い払ったのか憶えていない。喚いて、叫んで、怒りに身を任せて。気づいたときには叔父に髪を掴まれ、永遠は床に這いつくばっていた。


「違うの、叔父さん、許して! ごめんなさい、ごめんなさい!」


 タバコの火で、ジュッと首の後ろを焼かれる。何度も、何本も。火が消えては新しく灯ったタバコの先を押しつけ、永遠に消えない痛みを刻みつける。

 焼かれ、叩かれ、犯されて。数週間バイトと演劇を休んだ彼女のもとに、それでも彼は訪れた。

 真っ白な、髪の姿で。


 ――どうして永遠ちゃんは現実から目を逸らすの? 今やるべきことは舞台の上じゃない、現実そのものだよ。

 ――目を瞑ったまま進んだ先に何があるって言うの? 暗闇は自分で照らさなきゃ、駄目だよ永遠ちゃん。

 ――大丈夫。私がついてる。私が永遠ちゃんの光になってあげる。

 ――演じるのは得意でしょ?

 ――地獄を突き破る永遠ちゃんの舞台を、私に見せて。


 透き通った灰皿に、赤黒い血が滲む。ガラスで抉れた皮膚片が、フローリングに飛び散る。

 さらにもう一撃。永遠は正面から叔父を殴りつけた。叔父は床に倒れ、泡を吹いて動かなくなった。

 人殺しは言うまでもなく残酷で、自分とは無縁で、もっと恐ろしいものだと思っていた。だが永遠を包みこんだのは、言葉にならない高揚感。鳥かごから抜け出せた解放感と、鎖を解かれた囚人の喜び。

 脳内麻薬は部屋のインターホンが鳴るまで続いた。訪ねてきたのは、白い髪の響弥だった。


「響弥くん……私……」

「茉結華だよ。茉結華って呼んで」

「茉結華くん」


 茉結華は大きなスーツケースを引いて真っ赤な惨状を目にする。そして両手を広げて、「おいで」と、透き通った笑みを向けた。

 彼の腕のなかで、永遠は箍が外れたように声を上げて泣いた。


「よくできました。偉い、偉い」


 幼い子供をあやすように、永遠の頭を優しく撫でる茉結華の手。よくやったね、頑張ったね。歌うように褒める茉結華の声が、永遠の脳にじんわりと染みこんでいく。

 真綿で締めつけるような残酷な包容力に、永遠はどこまでも身を委ねた。この人と一緒なら、地獄の底まで落ちてもいい。

 目を閉じても、瞼の裏側には光が見えた。


 茉結華くんは、私の神様だ。

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