フェイクフラワー

 鳥の羽音のようにバサバサと水滴を飛ばして、玄関にふたつの傘を立てかける。りん芽亜凛めありの脱いだローファーの隣に傷だらけのスニーカーを丁寧に並べて、「お邪魔しまーす……!」と緊張気味に上がった。


「わあ、芽亜凛ちゃんの匂いがする。いい匂い……」


 照れくさいことを言ってくんくんと深呼吸する凛を座椅子に案内し、芽亜凛は飲み物を用意する。凛の好きなレモンティーだ。グラスに注いでテーブルに持っていく。


「芽亜凛ちゃんの家、テレビないんだね」

「よく言われるわ」

「一人暮らしだもんねぇ。今はスマホやタブレットがあるし」


 テレビがなくても不便なく生活しているが、こうやって友達と寛ぐときは欲しいと思うことがある。特に、ニュースをいち早く見たいときは。タブレットよりテレビ映像で確認したかったと、芽亜凛は誘拐事件に思いを馳せた。

 凛は落ち着かない様子できょろきょろと部屋を見渡し、窓際にぶら下がっているてるてる坊主を指さす。


「可愛い! てるてる坊主、芽亜凛ちゃんが作ったの?」

「デパートに行ったとき、ほかの色も買ったでしょ。その布で作ったの」

「器用だねぇ……見てもいい?」


 芽亜凛は頷き、てるてる坊主を窓から外して凛に見せる。

 黒いボタンで両目を、V字のワッペンで口を作った笑顔のてるてる坊主。この長い長い梅雨が明けますようにと、願いをこめて作ったものだ。首には真夏の象徴であるヒマワリの造花を、空色のリボンで留めてある。


「私、造花好きだなぁ」

「……偽物でも?」

「うん。造花は枯れないもん」


 凛は蜜蜂のように鼻を近づけ、「わあ、いい香り。芽亜凛ちゃんみたいだね」と屈託なく笑った。時間を切り取ったように咲き続ける花を指先で撫でて、「明日、天気にしておくれー」と口ずさむ。

 その笑顔にどれほど芽亜凛が救われてきたか。どれほど芽亜凛の情緒を掻き乱すのか。凛は知らない。


 芽亜凛は真っ白なてるてる坊主を窓際に戻し、帰路で買ったケーキの箱を開けた。おすすめのスイーツ店で買ったレアチーズケーキ。ルビーのように艷やかな苺ジャムが眩しい。

 夏の期末テストに向けて部活動が停止した週の半ば。先日の誘拐事件を経て、学校は集団登下校を推奨している。運よくテスト期間に入り対策しやすいとはいえ、誘拐犯はまだ捕まっていない。事件はネットニュースにもなり、テレビでも報じられたようだ。

 ネコメも忙しいのだろう。学校に来ておらず、挨拶もなく帰ってしまったのかと一部のクラスメートは残念がっている。


(潮時かな……)


 ケーキを凛に配りながら、芽亜凛は次の対策を考える。遅かれ早かれ、千里は連れ去られていた。そのための発信機はパズルのピースのようにうまく嵌って作用し、彼女の命運をねじ曲げてくれた。


「はあ、おいしそう! いただきまーす!」


 芽亜凛が勧めてからというもの、凛はすっかりスイーツ巡りに嵌っている。プラスチックのスプーンで一口サイズに切り取り、苺とチーズの酸味が絶妙に混じり合った甘酸っぱい生地を口に運んだ。幸せそうに目を閉じて、とろける幸福を黙々と味わう。

 凛の力は強大だ。彼女の行き過ぎた発想が、千里を救った。


 けれど前回、千里と小坂との連絡が途絶えたのは今より一週間も先である。加えて、またしても二人同時の拉致。

 これは、関係者の逮捕で茉結華が焦っていることを示している。平然とC組の教室で談笑していた神永かみなが響弥の仮面の下は、監禁に失敗した恨みと狂気で満ちているはずだ。

 冷たい一室の地獄絵図に含まれていたのは、芽亜凛と千里と小坂と、それに渉。


「ケーキを食べたら、凛の家に寄ってもいい?」


 赤く透けた苺ジャムを小さな舌で舐め取って、凛は「ん?」と眉を上げる。


「いいけど、とんぼ返りになっちゃうよ」

「顔を見たほうがいいと思って……」

「顔――?」




 凛を送るついでと思えば無駄なことなんてなかった。バスを降りてまっすぐ凛の家に向かい、出会った日以来の訪問をする。

 振り返れば当然のことだ。定期的に帰っていたとは言え、凛は長らく千里の家に泊まっていた。芽亜凛が遊びに行く隙などなかった。

 久しぶりの百井ももい家の空気に、胸がすうっと爽やかな心地を得る。


 すべては、あの日凛と出会ったことからはじまった。今は奇跡的にうまくいっているとしても、必ずどこかで転がり落ちる。

 そうならないための、最後の手段。――もう、こうするしかない。


「あった。はい、中学のアルバム」


 アルバムが見たい。なんていう芽亜凛の突然の言い出しにも、凛は快諾して部屋の棚から分厚いそれを引き出す。凛と、渉と、千里と……響弥が卒業した中学のアルバム。

 まだ赤い髪留めでハーフアップにする前のミディアムヘアの凛と、目立たない黒地のヘアゴムでサイドテールにした千里。今より前髪が短く、どこか幼さの残る強張った顔つきの渉。両耳のイヤーカフもワックスも付けていない響弥。


 卒業生の正面写真を指さし、芽亜凛は言った。


「彼が犯人なの」


 え? と唇だけ動かし、凛はアルバムを覗きこんで目まぐるしく顔色を変える。

 写真の下に印刷された名前は、神永響弥。


「え? えっ、え?」

「彼なの」


 困惑する凛をなだめるように繰り返す。


「呪い人のすべての実行犯。警察が追っている白髪の男の正体が、彼なの」


 凛は言葉を失い、一拍置いてへなへなと床に座りこんだ。芽亜凛はアルバムを胸に抱えて隣にしゃがみこむ。

 アルバムのなかの神永響弥は、まるで黒髪の茉結華だった。高校に上がるとヘアセットとアクセサリーで、さらに自分たちを解離させたのか。自然と変装を成功させるため、そして目的の二年目を万全の状態で迎えるために、見た目から茉結華の要素を除いた……。


「ごめんなさい。驚かせたくなかった」

「うん、わかってる……もう、危ないってことだよね」


 今までは警戒していたに過ぎず、学校に関わる事件は起きていなかった。でも千里と小坂が明確に被害を受けた今、こちらも襲撃に備えなければならない。

 見えない敵と戦うのは無謀だ。守れるものも守れなくなる。凛にはその危険性が伝わっている。


「覚悟はしてたのに、いざ明かされるとびっくりしちゃうね。そっか……響弥くんが」


 動揺を誤魔化すように、凛はアルバムのページをめくる。芽亜凛の知っている生徒、知らない生徒、校舎、先生たち。親友同士、寄り添ってピースする渉と響弥。

 過去の自分が幸せであればあるほど、無知が知に転じたときつらくなる。凛にとっては今がそのときだ。


「受け止められなくても無理はないわ」

「うん……でも、芽亜凛ちゃんのことは信じてる」


 だから疑わない。


「人は誰だって、罪を犯す可能性を秘めてる。その一線を越えるか越えないかは、人それぞれブレーキが違うんだ」


 たったそれだけのことだよ、と凛は続けた。濁りも淀みもなく、ただ純粋に澄んだ瞳で。


「渉くんが危ないね」

「うん」

「でも渉くんはきっと」

「信じない」

「うん」

「でも凛の言葉なら」

「信じてくれるかな……」


 次に危惧されるのはそう、渉だ。渉は芽亜凛の事情も、ましてや響弥が犯罪者だなんて信じない。

 取り戻すべくは、遠ざかってしまった凛と渉の距離だ。凛との距離が開いている今、安全とも取れるしそうでないとも取れる。しかし、茉結華は血眼になって犠牲者を増やそうとするだろう。もはや凛との距離など関係ないのかもしれない。


 凛は言っていた。凛のそばが一番安全だと。ならば芽亜凛にできることは、二人の仲を取り戻すこと。

 ――凛には、私と同じ思いをしてほしくない。

 自分に嘘をついてまで、相手を思う気持ちを抑えこんで、傷ついて。そんな凛を見るのはもう嫌だ。

 枯れないでほしい。でも、どうか凛の時間は動いていて。


 天気予報によると土曜日は晴れ。それまでに凛と渉の距離が戻らなかったら――もう一度、ハートの弓矢を手にしよう。

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