幼馴染

 スマホを閉じ、群青色に変わりゆく空を見上げる。時刻は午後七時半。


(早すぎたか……)


 不安と緊張と猜疑心で、三十分も早く待ち合わせ場所に着いた渉は、芽亜凛の連絡先を知らない状況に困り果てた。

『明日、夜八時に東京タワー前に来てください』

 金曜の放課後に転校生が告げた嘘のような誘いはぐるぐると頭のなかを漂い、家でテスト勉強をしている午前中も離れなかった。


 こんなことなら誰か連れてくるべきだったか。告白保留中の響弥は無理として、朝霧……は用事があると言っていた。頼れる千里は入院中で、凛も……。

 駄目だ駄目だと渉は一人、首を振る。芽亜凛との連絡手段はクラストークのみ。個人登録を飛ばせば済むが、今さら今日だけのために送るのもな、と渋っている。昨日のうちか遊園地に行った日にでも追加しておくべきだった。


 クラスにすっかり馴染んでいる六月の転校生、たちばな芽亜凛。休日のタワー前は家族連れや観光客で溢れていて、彼女の姿はまだ見えない。あの誘いは本当だったのだろうか、彼女は本当に来るのだろうか。

 芽亜凛との接点といえば、凛と千里と仲良くしていることと一緒に遊園地に行ったくらいだ。その程度の関わりで、こうして彼女の誘いを真に受けている自分もどうかと思う。さすがに、深夜に嘘の呼び出しをした朝霧とは違っていてほしいが。


 周辺とスマホを交互に見ているうちに十五分ほど経ち、渉はトッ……と鳴った靴音で振り返る。


(え――?)


 ゆったりとしたキャミワンピースに、履き慣れたスニーカー。手には鞄とスマホを持ち、むすっと唇を尖らせた幼馴染が渉を見ていた。


「騙されたね」


 頬を緩ませ肩をすくめて、凛はスマホのトーク画面を渉に向ける。『もう着くよー』という吹き出しの下に、東京タワー展望台ツアーのリンクと『望月さんによろしくね』のメッセージが続いていた。


「つまり……?」

「渉くんも芽亜凛ちゃんに呼ばれたんでしょ?」

「あー……」


 そういうことか、と合点がいき天を仰ぐ。彼女がなぜ渉と凛を会わせたのか理由はまったくわからない。が、遊園地で裂けた二人の仲を気遣ってくれたことは察した。


「予約、八時半からだって」

「三十分も先かよ……」

「ゆとりを持ってくれたんだね」


 二人の足は自然と東京タワー入り口へと進む。カウンターで受付を済ませ、時間になるまで夜景を見ながら過ごそうとエレベーターに乗った。

 上昇するエレベーター内で凛は「んっ」と顔をしかめる。渉が見ると、凛は耳に人差し指を向け、高度変化で詰まったことを訴えていた。渉は思わず笑って、俺も、と同じように指をさす。

 唾を飲んで耳抜きをし、エレベーターを出た凛は三百六十度見渡せる夜景に目を輝かせた。


「すごーい!」


 高さ百五十メートルのメインデッキには、遮るもののない景観が広がっている。東京。この色鮮やかな夜景を堪能するために、人々は高所を目指して散策する。カップルや旅行客が展望フロアを歩き回り、渉ははぐれないように凛の後ろにぴったりと張りついた。


「綺麗だね」

「おう」

「ツアーだともっと上に行くんだって」


 緊張も不安もないのか。渉の前に立って、しっかりとした足取りで歩く凛からはどこか自信が溢れていた。最上階ではさらに美しく眺望ちょうぼうのきいた夜景が見れるだろう。予約時間が待ち遠しくなる。


「凛って高いところ好きだよな」

「えっ、そんなことないよ?」

「そうか? でも――」


 ジェットコースター好きだろ、と言いかけて言葉を切る。遊園地の思い出は砂糖なしのコーヒーのようだ。尾を引く苦味が喉奥に広がる。

 いつまで引きずっているのだろう。凛は告白する前のように話しかけてくれたのに。


「小さい頃、木から下りれなくなったことあったでしょ」


 逡巡する渉を見て、凛は思い出話に花を咲かせる。


「子猫を助けに木に登ったら、今度は私が下りれなくなっちゃって」

「凛が……?」

「そうだよ。渉くんが登って、手を引いて助けてくれたんだよ」

「桜の木か」


 小学生の頃だ。校内の木の上で怯える子猫を見つけた。近くで遊んでいた友達は先生を呼びに行ったが、凛は直接木に登って子猫を救出し、そして今度は彼女が下りれなくなって……。

 凛はうんと頷き、「二人で怒られたよねぇ」と苦笑した。駆けつけた先生に木から下りる様子を見られたのだ。


「あのときは焦ったな」

「うん、足踏み外すかと思った」

「先生の声で?」

「遠くから機関車みたいに走ってきたよ」

「そりゃあ怖い」


 くすくすと凛は肩を揺らして笑う。彼女の笑い声を久しぶりに聞いた気がした。

『どうしよう、わたるくん……下りれない!』

 木の上から半泣きで訴えかける幼馴染を助けるのに必死で、高いところの恐怖や先生に怒られる不安はまるでなかった。子猫は金網をすり抜けて逃げていき、二人は木に登った理由を認めてもらえず、凛は隣で泣き出して渉は反論ばかりしていた。


「渉くんが一緒なら、怖くない」


 ぽつりと置くように凛は呟く。渉は目をしばたたいたが、凛はスマホで時間を確認して、「そろそろ行こう」とエレベーターに足を向けた。

 ツアー開始までまだ余裕はあるものの、案内所にはすでに何組か客が揃っていた。そのどれもがカップルに見える。自分たちもそう見えているのだろうかと、渉は気恥ずかしさよりも気まずさを覚えた。


 開始時刻になるとガイド役が現れ、渉たちはトップデッキに通じるエレベーターに乗りこんだ。再び耳が詰まっても凛は茶化さず、先ほどよりも強張った横顔が出口を向いていた。到着のアナウンスとともに扉が開き、客の波が動き出す。

 展望台に一歩踏みこむと、凛の手がするりと渉の手を握った。「ん、」と予期せず喉から高い声が漏れる。


「は、はぐれちゃうから」

「……お、おう」


 凛の頬が仄かに赤い。渉もまた顔の体温がボッと上昇するのを感じ、胸を打つ鼓動が速くなった。

 高さ二百五十メートルのトップデッキツアー。青や赤、黄に白。色とりどりの光を放つ東京の夜景が目の前に広がっている。ビルの明かりは星の煌めき。行き交う車のヘッドライトは流れ星。メインデッキより高い空間から見下ろす景色は、空を覗いているかのようだった。


 ガイドの説明がずっと遠くに聞こえる。ごくりと唾を飲みこんでもそれは治らず、ピンク色の靄が渉の脳裏を覆いつつあった。まるで話が入ってこない。

 渉は恐る恐る指を浮かして手のひらを軸に、貝殻のように凛の手を繋いだ。五本指が交互に絡み合い、凛は一瞬ぴくりと震えて握り返す。指の隙間を埋めるように、ぎゅっと深く繋がる。

 凛の熱い手から、緊張が伝わってくる。渉もそうだ。密着した手のひらからは心臓が飛び出そうだし、もう汗が吹き出ている。吐息さえも熱い気がした。


 ちらりと目だけを横に向ければそこには大好きな幼馴染がいて、ぱちぱちと睫毛を揺らし目を泳がせながらガラスの向こうを眺めている。どこに視線を定めればいいのか迷っているようだった。

 渉は、ガラスに反射した凛を見つめた。泳ぎ続けていた凛の視線が、吸いこまれるようにしてぴたりと留まる。夜景に包まれた自分たちは、腕が触れるほど近くにいた。


「ぁ――、渉くん」


 凛は何か決意したかのように口を開いて、「あのね」と隣の渉を見上げた。渉はガラスから目を離し、直接彼女と視線を交わす。


「私……私ね、」

「うん」

「私……渉くんのこと……」


 うつむいて唇を噛む。渉は彼女の言葉を待つ。

 凛は大きく深呼吸をし、潤んだ瞳で渉を見上げた。


「――渉くんのそばにいたい。これからもずっと、渉くんのそばにいたい」


 渉は声もなく、うんうんと小さく首肯する。


「だからね、今は……時間が欲しいの。待っててほしい」

「……うん。待つよ」


 凛の気持ちが落ち着くまで。凛のなかで答えが出るまで、いくらでも待てる。

 嫌われてたわけじゃなかったんだ……。それが知れただけでもう、十分だった。


「ありがとな」


 告げる渉に応えるように、凛もうんと頷く。この話はここで終わりだとお互いわかっているからこそ、ガラスの向こうに広がる夜景に目を向ける。手は繋がれたままだ。

 渉は、どうしたって緩み切る口元を手で隠した。ガラス越しの凛はそれを見て、くすりと吹き出したように顔を緩める。

 街の明かりのひとつひとつに人がいて、家庭があって、人生がある。その誰よりも、どこよりも、渉は今幸せであると胸を張って噛み締めた。

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