囚われの蝶

「留置所の食事は健康にいいでしょう。今日は私の奢りです」


 皮肉的に稗苗永遠へカツ丼を差し入れて、ネコメは自分の分の箸を割った。「いただきまーす」と手を合わせ、昼過ぎの飯に食らいつく。なんでお前も食うんだと言いたげに、長海は横目で食事風景を見ていた。

 永遠は、もくもくと湯気を上げるカツ丼を淀んだ瞳で睨めつける。化粧は剥がれ落ち、髪の艶はなくなり、目つきもいっそう悪くなった。

 それは永遠ではなく、『神永詩子』の顔つきであった。大学生の彼女はカラコンを着けている。だが神永詩子を演じるときは化粧を控え、周囲を欺いた。


「神永詩子さんは関西弁で話すそうですね。うちの部署にもいるんですよ、エセ関西弁で話す刑事が。でも永遠さんは随分流暢だったとか。彼女が関西に住んでいると聞いて、たくさん練習したんでしょう。プロ意識ですか」

「…………」

「でもね、永遠さん。本物の詩子さんはそこまで流暢じゃありませんよ。話すことすら難しかった、今のあなたのように」


 ネコメはカツ丼の半分を食べ終わるが、永遠は手も触れない。


「警察は敏雄さんの遺体捜索で朝から晩まで大忙しです。あなたが自供してくれれば、手間も省けるんですがね」


 叔父の遺体は警察犬を使ってなおも捜索中だが、骨が折れる作業だろう。行方不明届は大家さんの言っていたとおり、二月に生活安全課へ出されていた。出したのは永遠自身である。


「今さら……見つかりっこない」


 永遠は掠れた声を出し、嘲るように片頬を吊り上げた。


「探せなかったのは、あなたたちでしょ。警察の人ってなんて頼りない、無能な人たち」

「警察を騙せて快感でしたか」

「さあ、なんのこと?」


 殊勝な女だ。ネコメたちが思っていた以上に、永遠は賢くまた手強い。彼女が無実を『演じ』れば、どんな警察も騙せてしまうだろう。しかしそうしないのは、茉結華――神永響弥を庇っているため。

 いつ自分が罪を被ってもいいよう、否定も肯定もせずだんまりを決めこむのだ。


 昨夜の快晴が、まるで嵐の前の静けさだったかのように、外の天気は大荒れだった。ネコメと長海は報告書を提出した後、二人の捜査車両に乗りこむ。

 刑事に休日はない、なんて言葉は嘘だ。それは大きな事件を抱えているときや、緊急指令が入ったときである。土日祝日は基本的に休めるし、家族との時間を有意義に過ごすことも可能だ。

 ネコメと長海は出勤していた。どうして休みの日に、と嘆くのは新人の頃だけで、慣れてしまえば喜んで国に魂を捧げる。


「取調室でカツ丼を頼む奴いるんだな」

「長海さんも牛乳と餡パン好きでしょう」

「俺はお前ほど大食いじゃない」


 永遠の手つかずのカツ丼は、長海がいらないと言うのでネコメがその場で平らげた。叔父殺しの証拠は揃っているため確実だが、茉結華と繋がっている証言は得られない。この目で見た確実な共犯関係なのに。

 車は忙しなくワイパーで雨を弾きながら走り続け、いつもの張りこみ現場に到着する。傘を持たずに外へ出れば、老竹色のモッズコートが一分も経たず深緑色に染まるだろう。

 これから響弥に直接会う。会って、任意同行を求めるつもりだ。


「長海さん。俺に何かあったら、あとはよろしく頼みますね」

「縁起でもない」


 そこは任せろと言ってほしかったが。ネコメと長海は、互いにスマホのビデオ通話を繋げる。


「見えますね?」

「ああ、ばっちりだ」


 ダンスパーティーの応用である。あのときは録画だったが、今回は無線代わりにビデオ通話を用いて、相棒の目にもわかるようリアルタイムで繋げる。

 もしここに神永響弥が黒である証拠が映れば――正当な証拠にはならずとも、警察内部を説得する武器になる。そうすれば正式に神永家の捜査ができるようになるのだ。


 ネコメは画面の録画機能をつけて、スーツの胸ポケットにレンズ部分が覗くよう忍ばせる。機械音痴な長海はネコメに教わりながら、同じように録画機能をオンにした。モッズコートで視界を遮らないように気をつけなくては。

 二人はワイパーを止めたまま、見づらいフロントガラス越しの神永家を見つめる。悪天候も、今は姿を晦ますための味方だ。降り注ぐ巨大な雨粒が滝のように窓を打つ。


「行ってきます」


 ネコメはビニール傘を手に車を降りた。湿った空気が肌にまとわり、草むらから立ち上る雨と土の生臭いにおいが鼻を突いた。




 インターホンを鳴らすと、響弥はすぐに出てきた。玄関扉から顔を覗かせ、訝った様子で会釈する。


「え、金古せんせー? どうしたんすか……?」


 オフの彼は学校とは違い、黒縁の眼鏡をかけている。部屋着のTシャツはしわくちゃでだらしないが、休日でもヘアセットと耳のアクセサリーは健在だった。


「テスト前の家庭訪問ですよ」

「はあ」


 家庭訪問というのはもちろん方便で、休日に遊びに来た先生である。響弥は怪しんでいるが追い返す気はないらしく、外の大雨を一瞥して「どうぞ」とネコメを招き入れた。

 ネコメは傘を畳んで「お邪魔します」と一礼する。玄関脇に傘を立て掛けようとすると、「倒れちゃうんで、なか入れていいっすよ」と響弥が勧めた。お言葉に甘えて室内に置かせてもらう。雷の光が背中を押した。


「あのぉ……せんせー暑くないっすか?」

「お気になさらず。上がってもいいですか?」

「あ、ああ……はい」


 扉を閉めると外の音が一気に遠のいた。くすんだ木造の床が、歩くたびにミシミシと音を立てる。

 廊下の隅にはオンラインショップの空箱が積まれていたが、意外と掃除は行き届いているようで、目立った汚れはない。家政婦のように稗苗永遠が世話していたのだろう。


 響弥はリビングに案内すると、ネコメに座るよう促して麦茶を用意した。

 キッチン横のゴミ袋からは、コンビニ弁当やインスタント食品の容器が透けている。テレビと家庭用ゲーム機の周辺は散らかっていて、男子一人分の洗濯物があちらこちらに丸まっていた。


「えっと、今日はまた食事の誘いっすか?」


 響弥はペットボトルのコーラで一口喉を潤す。ネコメに出した麦茶の氷がじわじわと溶けて、カロンと間抜けな音を立てて回った。この氷に、いったいどんな毒素が含まれているのか。

 当然口をつけないネコメは「いえ、響弥くんのことが心配で来ました」と、半ば嘘とは言えない気持ちを明かす。


「響弥くんは私に、叔母さんがいるから大丈夫と言いましたね。本当に、そうですか? 私の目には一人で我慢しているように見えます」


 キッチンのゴミ袋を横目で見てやれば、響弥は取り繕ったような笑顔を浮かべる。偽りの笑みは舌の上で溶ける綿菓子のように一瞬で消えて、


「最近は、会ってないっす。たぶんもう、一週間くらい」


 視線をテーブルに落とし、不安そうに指先をいじる。彼の姿は、カメラ越しの長海にどう見えているのだろう。

 悪女に騙された哀れな子供か。大人を操る悪魔の子か。


「叔母さんに会いたいですか」

「そりゃあ、まあ……でも、忙しいんだと思いますよ。また何日か帰ってこないかもしれないっす」

「このあと会えると言ったらどうしますか?」


 響弥は眉宇を曇らせ「どういう意味っすか?」と、彼が天使でも悪魔でも通用する素朴な疑問を返した。

 ネコメは「ドライブしましょう」と言って席を立つ。警察だと明かすのは車に乗ってからだ。その前に、


「お手洗いを借りていいですか? 響弥くんは出かける準備を」

「あ、はい……玄関の突き当たりにありますよ」

「ありがとう」


 響弥をリビングに残し、そっと廊下に滑り出る。着替えと家を出る準備もろもろ合わせて、猶予は約三分間と考えて行動を起こす。

 ネコメは言われたトイレではなく、階段横の部屋を開けた。想定どおり、脱衣所とそして風呂場が続いている。髪を染めるにはここが一番適切だ。


 壁に吊るされたミニカゴ、洗面台横のスチールラック。生活感溢れる雑貨品に視線を走らせ、目当ての品を見つける――その予定だった。


 目的の品は扉を開けた瞬間、探す間もなく目の前に飛びこんできた。一日用の髪染め……。ネコメは目を見開いた。


 ――あった。


 黒の髪染め。スチールラックの上に堂々と置かれてある。

 突如、ネコメの後頭部を強い衝撃が襲った。壁に手をつき踏み止まり、しかしもう一撃、雷に打たれたような衝撃が一点めがけて降り注ぐ。


「くっ……」


 たちまちのうちに平衡感覚を失い、フローリングの床に吸いこまれる。ひんやりとした冷たい感触を、流れ出た命が静かにおびやかしていく。

 背後から伸びた手が、ネコメの胸ポケットを漁った。スマホを取り出す前に電源を落とし、相棒との繋がりを断つ。ネコメは薄目で『その人』を見た。――響弥では、なかった。


 長海さん……。


 頭から足の先まで床に縫い付けられて動かない。標本にされた蝶のようだ。霞がかった脳裏に、長海のしかめっ面が浮かんだ。

 ああ、長海さん……。

 またあなたに怒られてしまう。

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