第十話

七月一日

 中学のときに姉に貰って以来愛用している目覚まし時計が、頭の上で鳴り響く。大きく伸びをしてベッドを下り、顔を洗ってジャージに着替えてリビングに向かう。物音で目を覚ました愛犬のニノマエが尻尾を振って駆け寄ってきた。


「おはよーおはよー。散歩行くよ」


 ニノマエの頭を撫でて、りんはカーテン越しに窓の外を覗き見た。緩く水滴がガラスを叩いていて、じっとりとした梅雨の空気が広がっている。芽亜凛めありの祈りが通じた土曜日はつかの間の晴天だったようだ。

 凛はレインコートを羽織って、ニノマエにも同じくレインコートを被せる。リードで繋いで走りこみ用のシューズを履いて、日課であるジョギングの一歩を踏み出した。


 七月に突入しても梅雨明けはまだだ。梅雨嫌いのわたると違ってニノマエは雨の日でも喜んで散歩する。水たまりに突っこんではしゃぐ程度には元気なため、できるだけ舗装された道を選ぶよう注意して進む。

 今日から期末テストがはじまる。朝の時間に余裕ができて、且つ早帰りとなるのはテスト期間の利点だ。


 凛は全教科で平均点以上を保ち、十位辺りをうろついている。E組では中位と下位の差が激しく、それが平均点を下げている原因なのだけれど、おかげでクラス内では上位に入りこんでいた。

 それでもいつもギリギリ渉に負けてしまう。小学生の頃はお互い百点満点を取っていたのに、今では十数点の差が埋まらない。この差は問題文の理解力だと思っている。渉は真面目で勤勉で洞察力があって地頭がいいのだ。


 三十分近いジョギングは、道をぐるりと周って家へと着いた。ニノマエの身体をタオルで拭いて玄関に上がる。

 両親におはようと挨拶して、手洗いうがいと水分補給を十分に済ませて朝食をとった。母が用意してくれた甘じょっぱいフレンチトーストとリンゴを食し、背が伸びますようにと願いながら牛乳を飲む。

 着替えとヘアセットと歯磨きをほぼ同時に終わらせて、筆記用具と参考書数冊が入った軽い鞄を持って「行ってきます」と家を出た。傘をさし、足を止める。


「おはよ」


 家の前で、渉が手を振っていた。凛を待っていたらしい。おはよう、と返して並んで歩く。凛は渉の顔を窺った。


(笑顔だ……)


 溢れんばかりのニッコニコ笑顔が、幼馴染の顔に張り付いていた。ふにゃふにゃと弧を描く口元は、にやけ顔とも取れる。こぼれる笑みを必死に隠しているような。


「なんだよ」


 凛の視線に気づいた渉はやはり笑顔のまま、照れくさそうにはにかむ。


「あー、ご機嫌だねぇ渉くん」

「えーっ別に、そうか?」

「うん。だってほら、今日雨だし」

「うん、雨だな。まあ、たまにはいいだろ」


 たまにというか、ほぼ毎日降っているのだけれど。

 雨の日は機嫌が悪い幼馴染が、超絶上機嫌で並んでいる。これは……自惚れてもいいのかなと凛は苦笑した。

 彼の笑顔の理由は土曜日の一件だろう。また凛と一緒に過ごせるのがそんなにも嬉しいのか。登校時間はいつも合わない二人なのに、渉のほうから珍しく合わせに来ている。

 凛と登校したくて、凛と一緒にいたくて。待ちきれない思いで早起きした渉を想像すると、こちらまで自然と頬が緩んだ。


「渉くんってさ、芽亜凛ちゃんのことどう思う?」

「別に怒ってないぞ」

「あ、うん、そうじゃなくて」


 土曜日の呼び出しがすぐに浮かぶほど、渉にとっていい思い出になっているようだ。ぱたぱたと、心地よい雨のリズムが傘に弾む。


「んー、凛と仲がよくて響弥きょうやの好きな子ってくらいか。なんで?」

「こないだの借りがあるでしょ」


 思いついた言葉を咄嗟に放ったが、今後話すかもしれない芽亜凛の話を信じてもらうために、少しでも彼女に好意的であってほしいというのが本音だ。

 渉は虚を衝かれたように瞠目し、「そうだな」とくしゃりと笑った。


「放課後、三人で勉強会しようよ。芽亜凛ちゃん頭いいから頼れるよ」

「俺はいいけど、たちばなさんはいいの?」


 クールで優しい彼女は、もしかしたら気を遣って二人だけでどうぞと言いそうだが。芽亜凛が凛と渉を繋いでくれたように、今度は凛が渉と芽亜凛を繋ぐ架け橋になりたい。

 そして、もうひとつ、響弥と渉を離しておきたい。

 彼の正体を知った今、はたして自分は正常に応じられるだろうか。不安は残る……。でも渉は奪わせない。何を犠牲にしようとも。彼らの仲を切り裂くことになろうとも。

 凛は頷き、「図書室に集合ね」と放課後の予定を立てた。


(……私たち、両思いなんだよね?)


 いつからだろう、と当然の疑問が湧く。一緒にいる時間が長すぎて、凛もはっきりとした時期やきっかけは思い出せない。

 凛と渉の誕生日は、八月九日と十六日の一週間差だ。帝王切開で産まれた凛は、一週間以上病院に滞在していた。同じ病院で産まれた渉とは、つまり赤ん坊の頃から一緒にいるのだ。

 家が近所で以前から付き合いがあった互いの両親は意気投合し、さらに仲を深めた。追従するように幼馴染たちの絆も深まる。


 女兄弟、幼馴染に囲まれて育った渉はやんちゃでわがままで乱暴で、常に姉たちに叱られていた。学校では百合ゆりに代わって凛が渉の悪事を叱りつけた。幼少期の渉は喧嘩っ早く、すぐに手が出る子だったのだ。

 彼が変わったのは、武道を習いはじめてからだろう。渉は凛とは別の柔道クラブに隠れて通っていた。そんなの親のつてでバレるに決まっているのに、渉は今でも隠せていると思っている。

 そんなふうに育った渉だから、いつから好かれていたのかまったく見当もつかない。むしろ鬱陶しがり、姉妹を嫌いそうな環境なのに。


 渉くんは、いつから私のこと好きなの? そう訊くのはさすがに調子に乗りすぎか。

 でもいつか訊いてみたいと思う。ひとつの傘の下で二人が歩けるようになった日に。




 テスト期間中は、職員室に入るのは極力控えるよう言われている。そのため配布物の確認もなしに、まっすぐ教室へ向かった。

 教室にはすでに半数程度の生徒が登校しており、談笑を優先しつつ勉強していた。また放課後ね、と約束して渉と別々の席に着く。隣の芽亜凛は片頬で笑った。


「おはよう。テスト頑張ろう」


 笑顔の下に隠された憂いは、数周目のテストに対するものではなかった。


 。そんな噂が放課後、瞬く間に広まった。芽亜凛は「怖い」と呟いた。

 七月一日。期末テスト一日目。今日は、前の芽亜凛が茉結華まゆかに捕まった日だ。彼の逮捕の裏側に、いったいどんな悪夢が絡んでいるのだろう。

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