消えたメモリー
身を乗り出して食い入るように画面を見つめていると、薄暗くぼやけた映像に『通話が終了しました』の文字が現れる。
車から降り、駆け出す。雨は容赦なく長海の全身に降り注いだ。足元の水たまりを大股で飛び越えて、神永家の玄関扉を叩く。
「開けろ神永! 警察だ!」
ドンドンドンドン――! 引き戸のガラスが割れそうなほど強く叩いた。返事がない。戸に手をかけるが鍵は閉められていて、ガタガタと怒りと動揺の音を上げるだけだった。憚ることのない雨のノイズに神経がすり減る。
たかが高校生だと侮ってはいなかった。子供でも、ずる賢く大人を騙す悪鬼のような奴はいる。
長海は扉を睨んで思考した。指先が警棒に伸びるが、落ち着け……これは二人ではじめたことだ。俺たちで解決するんだ。
令状なしの強行突破は最後の手段。応援は呼べない。呼んだところで到着には時間がかかる。長海の拳は再び扉を叩いた。
「神永!」いるのはわかっているんだ。「今すぐ開けろ。開けなければ扉を壊す」
縦縞模様のガラスの向こうで人影がふらりと揺れる。影は大きくなり、やがて玄関扉を開けた。出てきたのは神永響弥だった。
「な、何なんすか……」
兎のように潤んだ瞳が長海を見つめる。長海は彼を押しのけて家に上がりこんだ。背後で響弥が慌てふためく。
「
「……はい?」
一拍置いた返事だった。「とぼけるな!」と怒鳴りつけると、響弥はビクッと肩を弾ませて「知らないっすよ」とかぶりを振った。埒があかない。長海は部屋を一つひとつ見て回った。
リビングキッチン、客間、トイレ、響弥の部屋。リビングでネコメに出したグラスは洗い立ての水滴を垂らして、シンクに伏せられている。
長海は眉間のしわをきつくした。開かない部屋がひとつだけ存在した。「この部屋はなんだ」と尋ねる。響弥は後ろから顔を覗かせて、
「倉庫っすよ。もう何年も開けてないっす」
「開けろ」
「無理っすよ」
長海は握りしめた拳を響弥の頬に振るった。殴られた響弥の細身は壁にぶつかって尻餅をつく。
――そんなわけあるか。ここは風呂場だ。あいつが訪れ、そして倒れた脱衣所だ。
この先に相棒がいるのは確実。長海は響弥の胸ぐらを掴んで引っ張り起こす。
「開けなければ壊すと言っただろ」
「……開かねえよ」
鼻をすすって響弥はそれでも否定する。憎悪と悲しみに彩られた目は、長海が強行できないことをわかっているようだった。
ここまで追いかけて、手ぶらで帰れるか……いや、帰るわけにはいかない。
ミシリ、と長海はフローリングの床を踏みしめた。堪忍袋の緒が切れた音だった。
「逮捕する」長海は言った。
神永響弥に手錠をかけて、乱暴に外へ連れ出す。抵抗しても無駄だ、と心の炎が燃えていた。
響弥は二の腕を引く長海に圧倒されて、つんのめりながら廊下を滑った。首根っこを掴めば宙に浮いてしまいそうな、非力で軽い身体だった。
外の雨脚は強くなる一方で、まるでシャワールームだ。長海は、行きで見落としていた玄関にネコメの傘がないことに気づいた。
あのとき、響弥は傘を家のなかに置くよう促していた。その意図を悟って、歯噛みする。
こいつは最初からネコメを襲う気だったのだ。
警視庁、取調室に
綾瀬は、廊下を通り過ぎる長海を呼び止め、連れていかれる子供を見て仰天する。
「綾瀬さん、一緒に取調室に来てください。見せたいものがあります」
「は、はあ?」
長海は一息に言って、早歩きで響弥を連行した。これは大事になりそうだと、綾瀬は班長に連絡して長海のあとを追う。
扉をノックして綾瀬刑事が入ってきた。響弥は手錠を嵌めたまま椅子に着いてうなだれる。ふたりとも濡れ鼠のようになっており、綾瀬はため息を漏らして取調室を一度出ると、タオルをふたつ持ってきた。長海に手渡し、もうひとつを響弥の肩にかける。
「なんだよ、何があった? 見せたいものって?」
「これです」
長海はスマホを取り出し、録画したビデオ通話の記録を見せようとする。――が、わからなかった。あれはいったいどこに保存されているのだ。
カメラのアルバムには入っておらず、機械に弱い長海は狼狽した。ネコメがいてくれたら一瞬なのにと、今ばかりは自分の欠点を疎まざるを得ない。
「何やってんだよ」
「すみません、保存場所がわからなくて」
「はあ? 貸せ」
ひょいとスマホを取る綾瀬に「わかりますか?」と尋ねる。まっさらなアルバムを見て綾瀬は顔をしかめた。しばらくフォルダを探していたが、「あたしにわかるわけないだろ」と押し戻す。灰本がいれば代わりに操作してくれただろう。
そうこうしているうちに、乱れたスーツ姿の風田班長がやってきた。ネクタイは緩み、ジャケットの襟は折れている。いかにも慌てて出勤したといった風貌だ。
「お疲れ様です」
「ったく、今日は休みだって言っただろ」
「申し訳ないっす」
風田はネクタイを締めて襟を直し、そうして取調室の奥を見て息を詰める。カラーレンズ越しの目が見開いた。
「……長海、そいつは」
「神永響弥。一連の事件の主犯です」
間を開けず、長海は断言した。「主犯?」と綾瀬が切り返す。
「彼の家に金古がいます。今すぐ調べるべきです」
「ネコメ? お前はなんで一人なんだ」
「探せなかったんですよ、見つからなかった。ひとつだけ開かない部屋があって……くそ、絶対あそこにいるのに」
独り言のようにぶつくさと言って、濡れた頭をタオルで掻く。
響弥はうつむいたまま黙っている。殴った頬は赤く腫れ、唇の端に血が滲んでいる。風田は手のひらを差し出し、
「渡せ。解析班に任せる」
仕方がなしといった呆れた声色だった。長海はそのほうが早いと判断し、一礼して風田にスマホを託す。より多くの仲間に見てもらったほうが効果的だと思った。
風田はスマホを胸ポケットに収めながら言う。
「未成年の家を調べたのか。いつから調べてた。親は? どうして報告しなかった」
静かな、けれど怒りのこもった口調だった。口を開くだけで、長海の喉奥に渇ききった苦味が広がる。
「……証拠がなくて、二人だけで捜査してました」
「十年前の記者殺しにこいつが関与していると?」
「それとは別ですよ!」
思わず荒らげた自分の声に驚き、「あ、いえ……すみません」と謝罪の言葉が滑り出る。喉の奥がひゅうひゅうと痛んで、無理やり唾液を嚥下する。長海は淡々と続けた。
「
「ああ、今のお前は信用できない」
風田らしくない台詞だと思うのは長海の甘えだろうか。風田班長なら信じてくれると、心のどこかで期待していた。その期待はたった今ひねり潰される。
「取り調べは俺と綾瀬でやる。綾瀬、いいな?」
「はい」
長海も「……はい」と返事した。いや、何も言えなかった。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、肝心な言葉が出てこない。まるで形にできない言葉を空気と一緒に呑みこんでいるようだった。
綾瀬はノートパソコンを用意し、風田は鑑識に向かう。長海は、椅子に腰掛けたまま動かない響弥をちらりと窺った。
黒髪からしずくが垂れている。透明だった。水程度じゃ化けの皮は剥がせないらしい。
風田は足早に廊下を進む、その途中で。長海のスマホを手洗い場の水に浸した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます