去年のE組

 家に帰るとすぐに夕飯の香りが鼻腔をくすぐって、渉は今日が火曜日だったことを思い出した。

「ただいま」とリビングに顔を出せば、キッチンにいた母と姉が「おかえり」と目線を向ける。


「遅かったねぇ」

「どうせ遊んでたんでしょー? カラオケ? カラオケでしょ?」


 母の望月もちづき陽代はるよは夜勤で働いているため、普段の家事はほとんど渉が行なっていた。しかし毎週火曜の定休日はこうして夕食を共にしている。

 姉の果奈かなは渉とひとつ年の離れた三年生で、通っているのは同じく藤ヶ咲ふじがさき北高校だ。普段は彼氏の家に寄ったり泊まったりと自由に過ごしているが、母が休みの日は家事の手伝いを積極的にしている。

 父の廉治れんじは海外出張で家を空けているため、望月家は実質三人暮らしだ。


「夕飯食べれるの?」

「少しなら」

「もうすぐできるからね」

「何食べてきたの?」


 母に続いて果奈が問う。渉は「唐揚げ」とだけ答えて廊下に出た。家にいても渉の無愛想は変わらない。洗面所で手を洗い、学ランを脱いでハンガーに吊るす。

 職員室を出たあと、昇降口に戻った渉と響弥は、凛に結果を報告した。職員室に千里の傘はなかった。忘れ物置き場にも、残念ながら届いていなかった。忘れたはずの傘は、学校のどこにもなかった。

 家を飛び出た千里自身が持ち出したのか。それともほかの誰かが盗んだのか……。

 きっと今頃、凛も同じことを考えているだろう。


 リビングに引き返して食卓の準備を手伝う。テーブルを拭いて、盛り付けられた飯を置く。冷えた麦茶をコップに注いで手早く添える。

 今日のメインは野菜炒めのようだ。渉も料理の腕に自信はあるが、やはり母の作る料理が一番おいしい。カラオケ店で小腹を満たしてしまったけれど、家庭的な香りはなおも食欲をそそった。

 食卓に着いて手を合わせ、三人で「いただきます」を揃える。食事がはじまると、


「そういやさ、あんたのクラスって転校生来たんでしょ?」


 聞きたくて仕方がなかった様子で果奈が問うた。梅雨の転校生、たちばな芽亜凛めありの評判は、他学年まで広まっているようだ。


「どう?」

「どうって」

「どんな子よ、可愛いって噂じゃん。ちょっとお姉ちゃんにも教えなさいって」


 渉は考え考え、無難な答えを導き出した。


「まあ、美人かな。頭もいいし、運動もできるよ」


 冷たいオーラを放っている、とは言えなかった。果奈は「わーお」と感嘆の声を上げる。


「完璧超人じゃん。いいなあ、転校生なんて珍しいし。あたしも明日見に行こうっと」

「そんなにいいもんじゃないよ」


 本心から言葉を口にする。

 橘芽亜凛。彼女の存在はまるで台風の目だ。ギャラリーはしつこいし、教室や廊下を荒らしたまま帰っていく。その後始末をするのは渉たちE組生だというのに。

 そんな愚痴を噛み殺していると、母が不意にふふっと笑みを浮かべた。


「渉は凛ちゃん一筋だもん」


 ねー! と母と娘、声を揃えてニヤニヤ笑う。渉は顔がわずかに火照るのを感じ取りながら、眉間にしわを寄せた。

 渉が凛一筋なのはこの先も変わらないだろう。だからこそ客観的に感じ取ることができる。

 あの転校生には、どこか人を惹きつけるチカラがある。

 見た目や頭脳だけではない。もっと底が深い、得体の知れない何かだ。


「姉貴って、二年のとき何組だったっけ」


 ふと浮かんだ疑問を、渉は話を逸らすように問う。

 果奈は一瞬きょとんとして、「D組だけど」と答えた。


「ふーん、そうだっけ……」

「何? 興味ないのに訊いたの?」

「いや、去年のE組のこと聞きたかったんだけど、違うならいいよ」


 去年のE組――呪われた二年E組のことである。

 響弥は『じゃあ今年もなしかあ』と、十年間の平穏を示唆していたけれど、去年はどんな様子だったのだろう。呪いを信じ、怯える者はいたのか。はたまた本当に『なくなった』のか。


「果奈の学年って、D組まででしょ?」


 知り尽くしたように母は言った。果奈はうんと頷き答える。


「うちらはD組まで。一年もDじゃない? あんたの学年がちょっと多いんだよ」


 一年生と三年生は、A組からD組までの四クラス。対して二年生は、E組までの五クラス。

 藤ヶ咲北高校の黒歴史、呪い人。それが起きるのは『二年E組』というクラスのみ。

 アンバランスを極める――少子化問題。

 となると、響弥の言うことは『起こるはずもない話』ではないか?


(まさか、なかった十年間……ずっとD組までだったとか……)


 クラスの数なんて今まで気にしてこなかった。自分の学年であろうと他学年であろうと。そこに『E組』があるか否かだなんて、渉じゃなくても誰も意識しないだろう。

 それもこれも、響弥に話を聞かされるまでは。そして千里が、行方不明になるまで――


「渉、どうしたのぼうっとしちゃって、大丈夫?」


 母の声にフリーズが解けていく。ハッと我に返って、渉は首を振った。


「いや、なんでもない」


 ごちそうさま。そう言って席を立つ。

 ――学校のことで、家族に心配はかけたくない。

 窓の外はザアザアと、耳障りな雨が降っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る