教科書

 翌日になると、学校は朝から全校集会を開き、千里の行方不明を公表した。

 もはや警察も動いている事態。隠しておく必要はないだろう。当然、保護者たちにもその情報は届いている。地域では広報が響くぐらい、本格的な行方不明者としての扱いがはじまった。

 学校側は誘拐の線も考慮して、生徒はできるだけ集団で登下校するように、と注意を促した。それに加えて千里の行方ついても、任意で聞き込みが行われている。


 また翌日の六月六日。今日も千里は行方不明のままだった。


「芽亜凛ちゃん?」


 三限目の授業が終わって、凛は隣の転校生、橘芽亜凛の顔を覗き込んだ。


「芽亜凛ちゃん、朝から元気ないよ……?」


 芽亜凛は浮かない表情で虚空を見つめていた。体育で怪我をした足が痛むのだろうか。タイツを穿いているため怪我の具合はわからないけれど、傷はまだ癒えていないだろう。

 昨日であれば、千里の行方不明に落ち込んでいるのだろう、と解釈できた。しかし正式発表された時点で、芽亜凛の調子に変わりはなかった。

 やはり体調不良だろう、と凛は解釈する。「大丈夫?」と続ける凛の呼びかけに、芽亜凛は長い睫毛を微震させた。


「……少し考え事をしてて」

「考え事? 相談だったら私、いつでも乗る!」


 どんと胸を張って、凛は前のめりに申し出る。芽亜凛は凝り固まった表情を和らげ、困ったような笑みを浮かべた。

「ありがとう」芽亜凛はそう言って席を立ち、「先、行ってる」と次の生物学に向けて移動をはじめる。凛は「う、うん」と慌てて返事をした。


 笑ってくれただけで『よかった』と思えた。転校生に夢中になることで、不安の灯火が隠せるような気がした。

 ――親友の行方不明。目の前の何かに集中しないと、気が狂いそうになる。


 理科の授業は生物も化学も実験教室で行われる。転校してきてまだ日は浅いというのに、芽亜凛はすでに単独行動できるくらい校内を把握しているようだった。校内案内をしたあの一回きりで、すべての場所を完璧に覚えたらしい。

 そんな彼女に感心しつつ、凛も移動のための準備をする。持っていくのは教科書、資料、筆記用具などの必需品。机のなかを漁る凛は、しかし異変に気づいて身体を傾けた。


 机のなかを目視して、続いて脇にかかった鞄の中身をチェックする。

 ……ない。

 教科書が、見つからない。


「凛、移動するぞー」


 硬直する凛のもとに、幼馴染が声をかける。

 渉は「何やってんだ?」と言って傍らに来た。凛は、「やばい」と一言告げる。


「生物の教科書忘れちゃったよお! どうしよう……」


 凛は頭を抱えて天を仰いだ。

 以前までは渉とよく一緒に移動していた凛だったが、芽亜凛が来てからはそれもなくなった。二人きりで動くことが、少なくなっていった。委員長として転校生の面倒、見なきゃいけないだろ? と、言葉を交わさずとも渉のほうが気を遣っているようなのだ。


 そんな渉から移動を誘われた。人見知りの彼は、芽亜凛がいなくなったのを見て接触してきたのだろう。彼の性格を把握している凛には手に取るようにわかる。それでも、自分のもとに来てくれたことは嬉しかった。

 が、今は悠長なやり取りをしている場合ではない。忘れ物をしたとき、本来ならば他クラスから借りて対処するのが基本だ。

 だが時間がない。圧倒的に時間が足りていない。

 ――千里がいれば、時間割の都合があったとしても、まず彼女を頼っているのに。


 渉は「なんだそんなことか……」と呟き、片手で抱える資料から教科書を引き抜いた。


「貸すよ」

「えっ? いいよ、渉くんのじゃん」

「別にいいよ、杉野すぎのに見せてもらうし」

「いやいやいや、いいって!」


 日本人特有の謙遜が繰り返される。凛は遠慮して手を振るが、顔には迷いが見て取れた。早く移動しないとまずいというのに、幼馴染の優しさに素直に甘えられない。

 渉はふうと息を吐き、「はいはい。委員長さんの風格は守るべきだー」と、棒読みで言って人差し指をくるくると回してみせる。渉は「それに、」と言って続けた。


「お前、笠部かさべのこと苦手だろ。遠慮すんなよ」


 生物学教師、笠部淳一じゅんいち。掴みどころがない性格で、扱いが難しい教師である。

 普段は落ち着いて見えるが、突拍子もなくキレる特徴があり、ほんの少しのきっかけで何もかもが豹変する。廊下や教室で笠部の怒号が飛び交っているのを、渉も凛も目撃していた。標的になった生徒が過呼吸を起こしたこともあった。うつ病を患っているせいとも聞くが、噂の真意はわからない。

 何が原因で逆鱗に触れるかわからない。だから怖い。生徒からの評判は最悪に等しかった。クラス委員として教師と関わることの多い凛であっても、笠部は特別苦手な相手であった。

 だから渉はフォローするのだ。


「ほら」


 ぐいと教科書を押し付けられて、凛はやおらに受け取った。


「……わかった、ありがとう。終わったら絶対返すから」

「おう、わかったわかった」


 固い約束を交わして席を立つ。

 幼馴染はぶっきらぼうな返事をして、凛に知られないようにほくそ笑んだ。

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