生物学

 実験教室の座席は教室とは異なり、自由に場所選びできる。大抵、友達同士で集まることが多く、渉自身もそうだった。

 予定通り杉野の隣に座って、教科書を忘れたことを伝える。教室であれば、杉野は渉の前の席の男子だ。話しやすくて親しみやすい、無愛想な渉でも波長の合うクラスメートである。

 杉野は快く教科書を見せてくれた。


「サンキュ、杉野」


 お礼を言って、斜め前の列にいる凛を窺う。凛は芽亜凛に手招きをされて、隣の席に座っていた。

 芽亜凛の人気ぶりは依然として高く、クラスメートの誘いを男女問わず頻繁に受けている。だが当の本人は、その誘いをいつも断っていた。

 断った上で、自分から凛を誘うのだ。彼女は誰よりも、凛のことを優先していた。


 今日も今日とて梅雨日和。湿気を含んだ空気が、不快感と蒸し暑さを増加させる。

 予鈴が鳴ると同時に、奥の扉が開いた。しわのない白衣をまとった笠部が、眼鏡を指で上げながら入ってくる。「起立! 礼っ!」と、クラス委員の凛による号令がすぐにかかった。


 笠部は、「今日も湿度が高いなあ。暑かったら脱げよー」と、のらくら言ってから授業をはじめた。

 教科書をめくって、音読を指示する。それが終わると黒板に説明と補足を書いていく。いつもどおり、退屈な生物の授業だ。


(もう少し、比喩とか語呂合わせを混ぜてくれれば、マシな授業になるのにな)


 暗記が基本の生物学でも、例え話や記憶術を介してくれたら楽しく覚えられる。しかし残念ながら笠部にアドリブ力はないし、ユーモアもきかない。

 板書しているだけで憂鬱な時間が過ぎていくのは、頭を使わずに済んで楽だけれど、暗記が苦手な生徒はあとあと苦しむことになる。

 渉にその心配はないが、授業の退屈さは敵であった。予習しておけば笠部の授業は不要であると、反抗心を抱いてしまうほどに。


 授業はプリントにまとめを記入して終わりとなる。これが過ぎれば、みんなお待ちかねの昼休みだ。

 笠部は列の間をふらふら行き来しはじめた。サボり防止と授業態度のチェックである。そこでようやく、笠部は渉の席に気づいた。


「教科書は。忘れたのか」


 静かな教室にピリリと緊張感が走る。

 気弱な杉野は身をすくめ、渉はすぐに挙手した。


「俺が忘れました」

「なんだ、杉野じゃないのか」


 笠部は意外そうな顔つきで言って、「珍しいな望月、次はちゃんと持ってこいよー」と間延びしながら通り過ぎていった。渉は「はいっ」と返事をして一礼する。

 顔を上げると、凛がこちらを振り向いて『ごめん!』と手を合わせていた。渉は顎先で頷き、密かに頬を緩めた。


「じゃあ今日はここまで。号令」

「起立――!」


 開始と同じく、凛の号令で授業が終了する。

 渉は杉野に礼を言って、凛のもとへ向かった。自白して事なきを得たが、内心ではヒヤヒヤしていた。追及されずに済んで胸を撫で下ろした。

「お疲れ」と声をかけると、凛は「ありがとうございましたっ」と小声で言って、えへへ、と笑う。授業前と比べてだいぶ顔色がよくなっていた。嵐と一緒に胃痛が過ぎ去ったってところだろう。

 隣に佇む芽亜凛は上目遣いで渉を見つめる。その視線がちくりと痛くて、渉は「じゃあ、あとでな」と踵を返した。

 そのときだった。


「うん、――きゃ!」


 と、背後から、凛の頷きと悲鳴が聞こえた。

 驚いて振り向くと、そこには通路に出て立ちすくむ凛と、


「おお、百井、悪い」


 ぶつかったらしい、笠部淳一がいた。


「い、いえ、すみません!」


 凛は、足元に散らばった教科書類を拾おうとしゃがみ込む。そして彼女の視界を遮るように、笠部の腕がにゅっと伸ばされた。

 笠部は教科書を拾い上げ、裏面に記された名前に顔をしかめる。


「あ? 望月……? お前忘れたって言ってたよな」


 渉は乾ききった下唇を舐めた。心臓が早鐘のように鳴った。


「えっと、これはですね……」


 情けなくも、しどろもどろな返事しかできない。

 凛は、真っ青な顔で固まっていた。笠部は察したように大きなため息をつく。


「呆れたぞ、百井。望月になすり付けて自分はいい子気取りか?」

「すみません……」

「違います、俺が無理やり貸したんです。凛は悪くないです」

「悪くない?」


 笠部の声が低くなる。


「忘れ物をしたのは百井だろ。それは悪いことじゃないのか、百井?」

「……はい、すみませんでした」


 凛は怯えた様子でうつむいて、こくりこくりと首を振る。責任感の強い凛は誰にも助けを求めない。

 背後に立つ芽亜凛は、黙ってそのやり取りを見ていた。


「よし、百井だけ残れ。お前らは帰ってよし」

「は? いや、先生……」

「いいの! 渉くん、」凛は渉の言葉を遮り、「……先、行ってて」と、弱々しく芽亜凛にも視線を送った。

 渉は歯を食いしばった。


(ふざけんな。なんで凛が……笠部と二人きり? 何しでかすかわかんないだろ……)


 すでに実験教室には四人しか残っていなかった。渉と芽亜凛が立ち去れば二人きりになる。

 しかし渉の心配に反して、芽亜凛は従順に扉へ向かう。凛のことが心配じゃないのか。薄情だな、と素直に思った。しかし彼女は笠部の本性を知らない……。


(くそ……)


 渉は言い返したいのをこらえて、しぶしぶ芽亜凛に続いた。


    * * *


 笠部は、奥の物置部屋へと少女を連れ込んだ。部屋のカーテンは閉め切られ、廊下に通ずる扉は大きな棚で塞がれている。その隙間から差し込む小さな光だけが頼りの明るさだった。

 埃だらけの一室で、笠部は唯一の出入り口の前に立つ。


「俺は生物学の教師だが、心理学も学んでいてな。暗闇効果って知ってるか? その、なんだ……男女が暗闇で共に過ごすと、やがてに及ぶってな」


 それをな、試してほしいんだ。それが百井……お前への、特別授業だ。

 笠部は笑いながら言った。


「生物ってのは繁殖するものだ。そうだろう、百井? お前はいい子だから、先生の言っていること、わかるよなぁ?」


 まだ、昼休みははじまったばかり。


    * * *


「ああ、くっそ! なかで何やってんだ……?」


 実験教室を出たあと、渉はE組に戻ることなく廊下の隅に身を潜めていた。クラスメートはみな購買に行くなりして、とっくに昼休みを満喫しているだろう。


(まさかあんなことになるなんて、マジでしくじった……)


 油断したのが悪かった。教科書を無理に貸したのは自分なのに、凛だけが悪く言われるのは不本意である。何より笠部と二人きりだなんて、放っておけるわけがない。怒鳴り声だろうと悲鳴だろうと、聞こえたらすぐに殴り込んでやる。

 今のところ、物音ひとつ聞こえてこない。本当に話しているのか? 廊下も実験教室も、不気味なほどに静まり返っている。


「ああ、わかんねえなあ……ここからじゃ何も見えない。……なかに入るか? 忘れ物をしたって理由なら、堂々と行けるか……」


 ぶつくさ言っているときだった。


「むぐっ!?」


 背後から口元を押さえられ、重心を後ろに持って行かれる。

 渉は藻掻きながら首をひねって振り向いた。そこにいたのは、


(橘……!)


 芽亜凛だった。なぜこんなところに。


「あなた、意外と独り言が多いんですね」

「んむむっんむむっ!」

「騒がないでちょうだい」


(騒げないんですが)


 左手で口を、右腕で首を押さえられている。ほぼ絞め技に近かった。渉が本気で抵抗すれば振り解けるだろうけれど、女子を相手にそんな真似はできない。

 大人しく降参の意で、渉は彼女の手を軽く叩いた。こんな至近距離で彼女の顔を見たのははじめてだ。芽亜凛は何か言いたそうに渉を見ていたが、ゆるりと力を抜いて解放した。どっと息を吐く。


「なんだよ、お前……何しに来た?」

「決まってるじゃないですか、凛を守るんです」

「は……?」

「……私のせいね。私が付いていればこんなことにはならなかった。失敗だわ」


 芽亜凛は心底不快そうに目を細め、淀みなく立ち上がると、渉の前に歩み出た。

 渉は慌てて彼女の腕を掴む。


「待てよ、何する気だ?」

「やれることをするだけ」

「きみは転校して来たばかりで知らないだろうけど、笠部って奴は――」

「早くしないと、凛の処女が奪われるわよ」

「……っ!?」


 予想外の言葉にうろたえる渉の手を、芽亜凛は難なく振り払う。向かう先は実験教室ではなく、その奥の物置部屋らしかった。

 渉は不安を胸に、頭を低くして彼女に続いた。この転校生が何を考えているのかさっぱりだが、今は従うしかなかった。

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