弱肉強食
「この世は弱肉強食だ」
生物学教師――笠部淳一は、ぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「強いものが弱いものを食らう。何ひとつおかしくない、自然の摂理だ」
誰も聞いていない話を身振り手振りで語る笠部は、ゆっくりゆっくりと凛に近寄る。
弱肉強食は笠部の口癖だった。まるで、だから諦めろと説得するかのように、言葉と距離とで威圧する。
凛は背後の机に手をついた。
どうすればこの状況を一変させられるだろう。頭のなかは抜け出す考えでいっぱいだった。
目の前の男にどんな言葉をかけて、どんな行動を取るのが正解なのか。隙をついて逃げるか、反撃して倒すか――間合いを冷静に目で測る。
「いいか百井。妙なことは考えるなよ」
笠部は脅迫とも取れる言葉を口にする。
「この前の中間テストの結果、まだ返ってきてないだろ」
成績は……大切だよな? と。
しかしその言葉は、凛の耳には届いていなかった。
「警察官になりたいんだったらな、どうするべきかわかるよな?」
自信はある。
なぜなら凛には、夢を叶えるために身に着けた、持ち前の柔術があるから。
(大丈夫……)
こんなところで怯んじゃいられない。自分の身は、自分で守れる。
凛はぐっと息を呑み、覚悟を決める。
(そうじゃないと……――警察官になんてなれない!)
カシャシャシャシャシャシャシャシャシャ――
凛の攻撃範囲まであと一歩のところ。
カメラのシャッターを切るような機械音が、どこからともなく鳴り響いた。
「……何の音だ?」
笠部の顔から余裕が消える。額に脂汗を滲ませ、あからさまに警戒していた。
音がしたのは廊下側……しかし扉は棚で塞がれて開くこともできない。だが隙間から光は漏れている。
つまり、目を凝らせば覗ける。
笠部は顔をしかめ、棚の隙間を注視した。
(今がチャンス!)
笠部の横をすり抜けて、後ろの扉から逃げ出せる。
そう思ったとき、救世主は現れた。
* * *
「こっちですよ」
小鳥のさえずるような声が、一瞬にして場を支配する。
笠部が振り向いたとき、扉の前にいたのは橘芽亜凛だった。その隣で、渉は凛を抱き止めている。
芽亜凛の手には飾り気のないスマホが、笠部をしっかりと捉えていた。
「なんだお前たち」
「先生のラブシーンが見られそうだったので、つい撮っちゃいました」
いたずらっぽく芽亜凛は言う。弾む声色に反して、目元はぴくりとも動かない。
「間違えて長押ししてしまったので、たぶん百枚ほど撮れてますよ。見ますか?」
「な、なんだと?」
「さっき先生がしようとしてたことです。女子生徒を相手に」
最後の言葉を強調して、芽亜凛はわざとらしくかぶりを振る。ぐっ、とスマホを持つ手に力が加わったように見えた。
「これ、どう見てもエッチですよ」
「待て! 俺は何もしていない! み、未遂だ! そうだろう!?」
笠部の言い分を芽亜凛はため息で黙殺する。
渉は「未遂ってことは、何かするつもりだったんですね」と冷たく言い放った。「最低だな」想像するだけで反吐が出る。いち教師が、恥ずかしくないのか。
しかし笠部は白衣の乱れも気にせずに、人差し指を全員に突きつける。
「いいか、お前たちの成績は俺の手のうちにある。俺は、お前たちの人生を左右することができるんだぞ」
「あんたの人生を左右することも俺ら側にあるんですが、その辺はご理解いただけてますか」
「そんなものが証拠になると思っているのか?」
笠部は不敵に笑って、ずり落ちそうな眼鏡を指で上げた。
「俺より弱い、子供の分際で……脅迫するのか? 教師を脅すつもりか」
「教師でいられるのもあと少しの間です」
「口が減らないガキだな。橘、お前は利口な奴だと思っていたが、本気で言っているのか?」
「ええ、何しろ信頼は得ているので――」
「ふざっけるなああああああああああああっ!」
笠部淳一は咆哮した。
「何を言っているのかわかっているのか? 俺はお前らの教師……お前たちの人生を決める、権限がある! そんなスマホで撮れているものか。そんなチンケな脅し、最初から通じないんだよ! 俺に逆らえると思うな、クソガキ共があっ!」
罵声ともとれる怒鳴り声が、物置部屋にこだました。
しん、と静寂を取り戻す一室。笠部は眼鏡を白く曇らせながら、はあはあと呼吸を繰り返す。
息巻く様子は、まるで映画の悪役のようだった。怒号は廊下を抜けて、下の階まで響いているかもしれない。張り詰めた空気のせいで、肌がびりびりと痺れる。
「違いますよ」
と、場を切り裂いたのはやはり芽亜凛だった。
「連写したのは事実ですけど、まだカメラ止めてませんから。気づきませんでした? 私がどうして、ずーっとレンズを向けているのか」
芽亜凛はスマホをタップして、停止した画面を笠部に見せる。
「これ、動画です。音声も入って、ちょうどいいですよね」
そこに録画された自分の姿を目の当たりにして、笠部は口の端をぴくぴくと痙攣させる。
「先生の言葉を借りるなら、『人間は強者だから、弱い蛙は解剖されても仕方ない』ですか? なら『先生は弱いから、私たちの餌食になっても構わない』ですよね?」
芽亜凛は機械的に首を傾け、喧嘩腰な姿勢で居続ける。
笠部は血走った目で彼女を睨むが、蛙にいくら睨まれようとも芽亜凛はまったく動じない。昼休みも、そろそろ終わる頃だ。
「……やりたきゃやれ。だがお前たちは後悔するぞ、この俺に楯突いたことをな……」
観念したのか、笠部はゆっくり膝を折る。
渉は芽亜凛に目配せした。依然として笠部を見下ろす芽亜凛の横顔からは、およそ人らしい温度を感じられない。
渉は、凛を先に部屋から出し、芽亜凛の様子を窺った。声をかけようか迷ったが、その前に芽亜凛はくるりとこちらを振り返る。
それを合図に、
「一生……後悔させてやる――!」
ふらりと立ち上がった笠部は解剖用のメスを握って、芽亜凛目掛けて突進した。渉は芽亜凛に手を伸ばしかけ、宙に浮かせたまま静止することになる。
渉が声を発するよりも先に、その光景は再生された。
芽亜凛は、飛び込んできた男の手首を、流れ作業のように掴んでひねり上げる。手から凶器が落ちる前に背後へ回る。そのまま手首への関節技を決める。
「ぎッああああああああああああああああっ!」
どうしようもない笠部の悲鳴が、激痛によって引きずり出された。
(嘘だろ……!?)
渉は驚愕に目を見開く。
芽亜凛の行なったその技は、かつて渉が身をもって経験した――逮捕術。
幼馴染の凛が、独学で会得した技に、そっくりだったのだ。
「抵抗すると腕が折れますよ」
淡々とした芽亜凛の声音に、笠部は大きく震え上がる。先に部屋を出たはずの凛も、何事だと言うふうに扉から顔を覗かせた。
「め、芽亜凛ちゃん……!?」
「大丈夫。怪我はないから安心して」
芽亜凛は状況に不釣り合いな笑みを凛に見せた。鬼のようにも天使のようにも見える微笑みは、凛から視線を外すと同時に消え失せる。
見事な関節技を決め、おまけに骨折を仄めかした橘芽亜凛は、笠部を拘束したままその横顔に囁いた。
「一生後悔させる……と言いましたが、あなたもきっと後悔しますよ。私の親友に手を出したこと」
凪いだ海のように乱れのない声で芽亜凛は続ける。
「気をつけてくださいね、ここ」
拘束を解く前に、芽亜凛は魔法をかけるかのように、人差し指で笠部の
それは魔法か、はたまた呪いだったのかもしれない。
* * *
昼休み終了から五限目がはじまるまでの間に、渉、凛、芽亜凛の三人は、保健室へと直行した。
保健教諭の
猪俣とスクールカウンセラーの先生は『ここで扱える話ではない』とすぐに察し、急ぎ三人を相談室に案内する。相談室には、教頭と担任の
芽亜凛の撮った動画は、有力な証拠として提示された。動画に映る笠部の、生徒への脅迫。被害者は渉と芽亜凛も含まれて、三名となった。
そして、動画および凛の証言を加えた、生徒へのセクハラ。未遂とはいえ軽視できることではない。凛が大ごとにしたくないと言うので、表向きは控える形となったが――
生徒への脅迫、そして、みだらな行為をしたとして――生物学教師、笠部淳一の処分は決定した。
話し合いのすべてが終わる頃には、もう放課後となっていた。
「これにて一件落着か……」
下校時間はとうに過ぎている。凛は駆けつけた両親の車で帰宅したため、昇降口には渉と芽亜凛しかいない。
渉は、靴を履き替えている芽亜凛を横目で見た。夕日に照らされてきらめく黒髪が眩しい。ほとんど話したことのない転校生を相手に、渉は珍しくも声をかけた。
「あの映像、ところどころ音声が消えてたけど……全部計算してやってたんだ?」
そう指摘すると、芽亜凛は静かにこちらを見た。
「撮ってたとき、スマホのマイクを押さえて『凛に迷惑が掛かりそうなことは入らないように』してた――だろ? あと、自分が不利になる発言は入らないようにしてた」
正解、とでも言うかのごとく、芽亜凛はトントンと靴を鳴らす。
「橘さんさ、」
渉は、低い声で言った。
「あの技、どこで習ったの?」
生温い初夏の風が、二人の間をすり抜けていく。
芽亜凛が姿勢を正せば、絹糸のような髪が、肩から一房流れ落ちた。夕日を背にした彼女の姿は、後光が差しているみたいに眩しい。
「大切な人からよ」
そう答えた芽亜凛の表情は逆光で見えなかった。けれどその言葉に込められた想いだけは、不思議とはっきりと伝わってくる。
帰りの雨は、どうやら降っていないようだ。
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