継承

 医者も患者もいない屋上庭園で、まばゆいセンサーライトがぱつりと点灯した。ふたつの影を大きく映し出して、相対する二人に脚光を浴びせる。


「何、言ってるんですか」


 渉の願いに、芽亜凛はそう返すしかなかった。冗談にしては笑えない。彼の言葉が頭に浸透するのは存外早かったが、芽亜凛の答えが出るのも早かった。もちろん、ノーだ。

 殺してくれと頼まれて、はいそうですかと殺す人などいない。正常な判断能力があれば、承諾する前にまずは病院を勧めるだろう。その屋上で聞かされるとは何たる皮肉だ。

 彼はおかしなことを言っている――渉に対してそう感じるのは正常な証だ。私は落ち着いている。落ち着いて、冷静に見れている。芽亜凛は繰り返し、自分の心に唱えた。


「ここから突き落としてくれてもいいんだけど、確実に『他殺』にするにはこれが一番かなって」


 渉は至って真面目なようで、芽亜凛の混乱を置き去りにしてさらに続けた。肩に掛かった学生鞄の底から、タオルに包まれた物体を――芽亜凛から預かっていた果物ナイフを取り出してみせる。夜空の下で鋭利な銀がきらめいた。


「持ち歩いてたんですか」

「返すためにな。……絞殺のほうがいいか?」

「馬鹿なこと言わないでください。銃刀法違反ですよ」

「お前が言うなよ」


 彼がいつもと同じ表情を見せるたび、芽亜凛の鼓動が加速していく。芽亜凛がそうであるように、渉もまた冷静であった。一度決めれば徹底する芯の強さも、諦めの悪さも、芽亜凛は身をもって経験している。……彼は本気だ。

 凛の家で出くわしたときにまさかとは感じていたが、言わなくていいことまで全部朝霧が話したのだろう。

 芽亜凛が人を殺せば、その相手にチカラが移る。試したことはあるはずもなく、死によって時を繰り返すチカラは現在も芽亜凛に宿っている。


「どうして殺されたいんですか」

「言わなくてもわかってるだろ」

「……彼を取り戻しに行くつもりですか」

「そうだ。橘も、救いたい子がいるんだろ」


 目線を落とした渉の憂いを刃の光沢が跳ね返す。ずるい言い方だ。このタイミングで芽亜凛の後悔の根を掘り出すのは、あまりにも意地悪である。


「俺は本気だよ。響弥に会いたい。あいつが苦しまなくていいよう、俺がなんとかする」

「なんとかって」

「俺が止めてやる」


 渉はナイフをくるりと回転させて柄のほうを芽亜凛に向けた。芽亜凛はナイフに目を落としたが、スカートの横で握る手は持ち上がらない。

 芽亜凛が死ねば小坂めぐみの生きている時間に戻れる。響弥を殺せば芽亜凛は解放される。この馬鹿げた呪いから抜け出せて、何も知らないあの頃に戻れる。自由になれる。

 それは渉を殺しても同じことだ。なのに……。


「響弥のことは殺そうとしたのに、俺のことは無理なのか。お前の殺意はそんなもんか」

「殺意なんてあるはずないでしょう……」


 揺れる炎はとっくに消えてしまっていた。響弥はもういないのだから。彼に対する負の感情に苦しむことはもうない。彼の凶行と運命の気まぐれに左右されなくていい、振り回されなくて済む。芽亜凛はこのまま、彼のいない時間を歩いていける。


「嫌いだったんです……あの人のことは。彼がいなければ私は……私たちは……っ」


 響弥への恨みつらみはこの世の誰よりも芽亜凛が抱いている。散々私の人生をめちゃくちゃにしておいて、今さら可哀想ぶるのは卑怯じゃないか。救われるべき対象に立候補してくるなんて、図々しいにもほどがある。


「わかってる。自分勝手な頼みだ」


 でも、と。

 渉は声低く食い下がる。豪雨で水を噴き出すマンホールみたいに芽亜凛の感情は溢れてくるのに、渉の願いはただひとつだけ。どんな邪心にも捕らわれず彼は追い求める。


「大切な親友なんだ。あいつのためじゃない、俺は俺のためにあいつを取り戻しに行く」


 そのためなら、自分の命も惜しくない。本当に、なんて自分勝手な人なのだろう。


「今までの私は……私がしてきたことはどうなるんですか。全部、無駄じゃないですか」

「無駄なんかじゃねえよ。俺が憶えてるんだから。俺の記憶に、橘は入りこめたんだから」

「あの人を救えたとしても、笠部先生のことは? 茉結華のことは? 知ってるんですか?」

「俺が全部引き継ぐよ。……大体は憶えてる」

「どこまで戻るかわかりませんよ。一年生になってた人だっているんです」

「梅雨でも春でもどこでもいいよ」


 一片の恐れも見せない渉の姿勢にくらくらと眩暈がした。何を言っても通じない、振れない芯そのものに語りかけているようだった。

 芽亜凛の耳に、いつかの保健室で聞いた言葉が蘇る。死んだこともないのに怖がりようがないだろ、と笑顔で言っていた朝霧の声だ。今の渉は、彼とおんなじ。恐れを感じない無敵の人間だ。

 渉は自身に向けた刃の表面を親指で撫でる。上空を、飛行機の影が通り過ぎていった。


「お前はうまくやってきた。失われた命もあるけど、助かった命もあるんだろう。……でも、お前がずっと無視してきた命がひとつだけあるよ」


 それが響弥だと言いたいのかと芽亜凛は思った。だが渉が挙げた人物は、まったくの別人であった。


「俺は――お前のことも救いたいんだ、橘」


 驚きよりも先に、芽亜凛の胸の奥に熱の塊がふわりと押し寄せた。

 渉は――学校で、図書室で、遊園地で――幾度となく芽亜凛とぶつかり合った熱い想いを、彼女自身にぶつける。


「お前を縛り付けてるのは運命でも苦難でもない、お前自身の優しさだ。みんなを救いたいというお前の願いが、自分自身を縛ってきたんだ。お前は誰よりも叫びたかったんじゃないのか、助けてって泣きたかったんじゃないのか。救われる価値があるのはお前も一緒なんだよ、橘」


 いつも誰かを想って注がれていた両目が、今は芽亜凛を捉える。長い間見落としていたものを、いとも簡単に拾い上げる。

 芽亜凛を縛り付けていたのは自分自身だ。献身という名の呪縛だ。渉の言葉は、ナイフよりも鋭く芽亜凛の胸を刺した。


「頼む……俺のわがままを聞いてほしい。最初で最後のお願いだ」


 渉は目線をわずかに下げることで懇願した。澄んだ瞳は芽亜凛を逃そうとしない。文字どおり、一生で一度きりの願いである。渉に明日を迎える気は毛頭ない。

 だからか……と、芽亜凛は自分を取り巻く運命の輪に思いを馳せた。この人が芽亜凛を救い出す存在だから、だから渉に記憶があるのかと。

 この人じゃないと駄目なんだ、望月渉でないと駄目だったんだ。

 渉は、芽亜凛の意思を引き継ぐパートナーなんだ。

 この願いを拒むことは、彼の覚悟を踏みにじることと同義だ。


「……凛はどうなるんですか。あなたが死んだら、凛は……」

「ごめんって伝えてくれ」

「嫌です。自分で伝えてください」

「向こうで会ったらそうするよ」


 芽亜凛は、開いた手のひらを夜風に当てて、そっとナイフの柄を掴む。渉が刃を手放すと、ずしっと金属の重みが指先に伝わった。使い慣れた果物ナイフに芽亜凛の憔悴が映りこむ。――私はこんなにも疲れた顔をしてたのか。

 二人の屋上に沈黙が降り立つ。渉は周囲を見渡して、屋上を囲うフェンスに寄りかかった。カッターシャツの左胸辺りのしわを伸ばして、「よし、来い!」と両手を広げる。

 芽亜凛は空を見上げて、ふーっと細い息を吐いた。白い星がちらちらと瞬いている。凛の家で渉と対峙したときと同じ模様の空だ。端を知らない、どこまでも続く天壇青てんだんせい


「あの人に会えたら、伝えてくれませんか。また私に告白してくださいって」


 あの日してくれた告白の返事を、保留にしたままだから。

 渉はニッと片頬を上げて、「ああ、約束する」と頷いた。

 芽亜凛と渉のように、継承の仕方を知ってて行う者は今までにいたのだろうか。頭の片隅に浮かんだ疑問は生暖かい風に吹かれて霧散する。


 芽亜凛は息を吸って、大きく吐いた。覚悟が鈍らないうちに自分に鞭を打つ。汗ばむナイフの柄を握り直して、片手で解いた胸のスカーフを口を使って巻き付ける。ナイフと自分の手が離れないように、きつく固定して逃げ道を断つ。

 何も考えるな。考えないで、ぶつかるだけ。渉がそうしてくれたように、芽亜凛も真正面から彼と向き合う。


 進行方向に刃先を向けて、飛びこむように勢いよく。


 芽亜凛は緑生い茂る地を蹴った。どっ、と鈍く重たい音が空間を穿ち、渉のもたれるフェンスが微震する。痛いくらいの衝撃が、ナイフを通じて芽亜凛の腕を伝った。

 思わず閉じてしまった瞳を開けると、渉のカッターシャツの肩越しが視界に広がった。両手はナイフを握ったまま硬直している。刃先はびくともしなかった。だってそれは渉の身体のなかに――


「……ち、づきさん……」


 じんと痺れた腕が震え、肩が震え、波のように押し寄せた後悔が芽亜凛の心をさらっていく。渉は両手を広げたまま、「そのままでいてくれ」と芽亜凛の耳元で掠れた声を出した。


「もうすぐ終わる」


 かたかたと身体を震わせる芽亜凛を安心させるように、渉は身動ぎしないでそのときを待った。

 錆びた鉄の臭いが夜風に吹かれて鼻をつき、芽亜凛は自分の手が濡れていることに気づいた。染み出た血がナイフを伝って、ぽたりぽたりと滴り落ちている。

 芽亜凛は肩で呼吸した。「望月さん……!」震えた声を上げて瞼を閉じる。得体の知れぬ怪物が自身を呑みこもうとしているみたいだ。

 恐怖に侵された芽亜凛の身体を、渉は片手で支えた。ははっと笑ったような、熱を帯びた吐息が芽亜凛の頬をくすぐる。声にしなくても、あと少しだからと渉は言っていた。

 彼の身体から力が抜けていく。涙に埋もれた芽亜凛の視界がぐにゃりと歪んで、何の光も見えなくなる。

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