一生のお願い

 神永響弥が乗り捨てた車からは、偽造した免許証と財布、銃の弾倉、そして本人が使用していた髪の黒染めが見つかった。凛を連れ去ったのちに彼は変装と称して、茉結華ではなく響弥に扮したという。どちらが本当の彼だったのか、今となっては誰にもわからない。

 警察は凛の聴取と、改めて風田の取り調べを進めた。響弥が持っていた銃のうち、一丁は都内の交番から盗まれたものと判明している。もう一丁はどこから取り寄せたものなのか、組織犯罪対策部ソタイの協力を得て出どころの捜査が進められた。


 デスク作業を終えた長海は、ネコメを探す目的でなければわざわざ行くことのない警視庁の屋上に足を踏み入れた。ここへ来るときはいつもあいつが一緒だった。

 燃えるような夕焼け空が、建物の群れに朱色を映し出している。風のない穏やかなトワイライト。

 夜の訪れを告げる屋上の中心で、すらりと伸びたモッズコートの人影が赤い空にタバコをくゆらせていた。これがすべての答えだと言わんばかりに、彼は後ろ姿でアンサーを返す。


 長海は、タバコを一本取り出しながらその隣に立った。取り出したばかりのタバコを口に咥えて、一拍遅れて振り返ったネコメのタバコの先端にそっと繋げる。赤く灯ったネコメのタバコから、長海のタバコへ火が移る。

 肺には送らず、長海は口のなかに溜めた煙を空に向かってゆっくりと吐き出した。


「いつから吸ってた」

「長海さんが吸い出してから」


 隻眼の相棒は、夕焼けを煙たく眺めながら淡々と答えた。長海が人知れず吸いはじめたのは、小坂めぐみが亡くなってからだ。


「誰かに聞いたのか?」

「いいえ、タバコくさかったので」

「え……」

「気づいてませんでした?」


 慌てて長海は自分のスーツを嗅いでみせたが、タバコのにおいは感じ取れなかった。そもそも頻繁に吸っているわけでもないのだから、ネコメが気づいたのはだいぶ初期の段階だろう。

 互いに非喫煙者だった二人が、今では揃ってふかしている。不思議なものだ。


「榊創はヒントだったんだな」


 長海は、相棒の言動を一つひとつ思い出しながらため息をついた。ネコメは返事の代わりに、弧を描いた唇からタバコの煙を吐き出す。


「お前の中身が本当に高校生だったなら、その四年後に死んだ榊創のことを知るはずがない。加えてお前がよく喋るようになったのは、風田さんが逮捕された後だ」


 そのときは勘づかなかったが、今思えばおかしなことだとわかる。記憶は戻ったのではない。最初から全部、ネコメの演技だったのだ。

 長海が気づくには時間がかかった。当然である、つい先ほどまで記憶喪失だと信じこんでいたのだから。


「敵を欺くにはまずは味方からですよ」

「俺まで騙すことはないだろ」

「長海さんはわかりやすいので。言えばすぐにバレちゃうと思ったんですよ」

「風田さんにか」

「……はい」


 今度は素直に肯定する。「全部話すんだろう?」と問えば、ネコメは「そうなりますね」と認めた。

 この先、聴取はネコメに移る。彼は記憶が戻ったていで話すことになる。あの日、神永家で何があったのか……。

 まったくとんだ相棒を持ったものだと、長海は天を仰いだ。そして、


「……あれも演技だったのか」


 彼のほうを見ずに煙を吐き出す。ネコメは、ふうっと長くふかして、「あれとはいったい何でしょう」と笑みを滲ませた。

 ――真正面からぶつかれば、こいつは答えを教えてくれるのだろうか。

 弱みを見せたがらないネコメが。公衆電話から長海にかけた訴えも、カーテンの向こうで今にも飛び降りそうな姿も、切羽詰まった泣き声も、すべて演技だったというのか。

 ――違うだろう。あれは本物だ。あのときだけは、本当だった。

 ネコメは、「でもまあ、長海さんなら来てくれるって信じてましたから」と、ただひとつの真実こたえを口にした。

 あのときのネコメが嘘だろうと本当だろうと。彼は嘘偽りなく、長海を信じている。


「振り回すなよ」

「まだ慣れてないんですか?」

「慣れたら解散だ」

「遠回しに釘を打たれた気がします」


 ネコメはくつくつと喉を鳴らして、笑い声をこらえるようにタバコの火先を見つめた。


「神永響弥は、ずっと……茉結華を演じていたんですね」


 口に咥えた長海のタバコからほろりと、灰が落ちる。


「私が最後に見た彼は茉結華でした。堂々と悪事を働く際、彼は茉結華になっている。そう思っていました」

「俺を謹慎処分に追い詰めたのは神永響弥だ。彼は堂々と嘘をつき、悪事を働いていた。茉結華も響弥も同じだ」

「……そう、ですね……」


 ネコメはうつむいて、短くなったタバコを携帯灰皿で揉み消した。自身のことはその完璧なポーカーフェイスで煙に巻くのに、他人のことになるとネコメは正直だ。物事を冷静に見極めて仲間さえ巧みに欺くような男だが、その胸には痛む心があるのを長海は知っている。

 神永響弥は、環境によって破滅の道を選ばざるを得なかった犠牲者だ。彼の周りに一人でもまともな大人がいれば、あるいは救いの手がもっと早く伸びていればこうはならなかっただろう。

 長海の吐き出した煙が、風に乗って空へと昇っていく。


「始末書は書いたのか」

「提出しましたよ。朱野警部にこってり絞られました。また飛ばされる覚悟です」


 神永響弥の銃を弾き飛ばしたのはネコメだ。病院から彼を導いたのは例の情報提供者である。そのことをネコメに詰めると、

「長海さん電話に出るとき露骨に嫌な顔をしていたので、知らない番号からだろうなと思いました。それで確認を取ったら案の定、神永響弥の居場所がわかったところだったと」と答えた。


 どこまでも勘の鋭い相棒は長海より先に本部へ戻り、そのまま単独で響弥のもとへ向かった。

 ナイフと銃では圧倒的に銃のほうが優位である。何者かの発砲によって響弥の武装を解除したあの瞬間、警察側は彼を降参せざるを得ない状況に追いこんだ。……二丁持っていたことは、まったくの想定外である。


 長海とネコメはほとんど同時に息を吐いた。考えていることは一緒だろう。

 どうすれば俺たちは、響弥を止められたのか。どうすれば俺たちは、歪んだ大人に囲まれた環境から彼を救い出せたのか。

 人生は選択と後悔の連続である。悔いても悔いても永久に明かされない答えを、長海は茜色の空に委ねた。


    * * *


「もう今日は休ませてあげてください」そんな懇願とも取れる凛の母親の訴えを聞いて、ようやく刑事たちは引き下がった。病室には凛と凛の家族、芽亜凛と渉が揃っていて、同室で軽い事情聴取を受けていた芽亜凛たちも時を同じくして解放される。

 凛と母親は「私は平気だよ」「そういう問題じゃないの」としばらく言い合っていたが、「明日でいいだろう」と冷静に言い放った百合ゆりに止められた。百合は「車を取ってくる」と続けてそのまま凛の病室を後にする。


 凛は軽度の栄養失調で点滴を受けたまま警察の聴取に答えていた。どうせ明日も同じことを訊かれるのだろう。警察は被害者の心の負担を思いやる気持ちを備えておきながらも、淡々と仕事をこなしていく。それが彼らの役目だからだ。

 病室の窓から見える景色にも、心があろうとなかろうと仕事をこなす人々がいた。点々と病院前に散らばっている報道陣たちだ。

 誘拐された凛の救出劇と犯人の報道は、夕方のトップニュースに流れた。どちらも未成年で、銃を所持していたことが話題を大きくした要因である。ネットの記事には『非行少年』『心の闇』というワードが多用に見られた。藤北の掲示板もさぞ盛り上がっていることだろう。


「点滴が終われば帰れるのよね?」


 芽亜凛の問いに凛が頷き、「二人も疲れたでしょう。今日はもうゆっくり休んで」と凛の母親が告げる。そうさせてもらおうかと渉を一瞥すると、疲れ切った彼の泣き腫らした横顔があった。

 渉は聴取の際、何度も言葉を詰まらせては目線で急かす警察に待ったをかけた。「響弥さんと仲がよかったんです」と芽亜凛が代わりに応答すると、渉は堰を切ったように嗚咽を漏らした。本来ケアされるべき被害者の凛のほうが、よっぽどはきはきと受け答えしていた。今は泣き疲れて放心状態のように見える。


 芽亜凛は泣けなかった。茉結華の……響弥の死よりも、凛を救えた安堵が占めていた。

 長い旅が終わった。いや、終わったのかどうかさえ今の芽亜凛には考えられない。迷いもある。後悔もある。けれど疲労が、精神ともに満ちていた。凛のお母さんが言うとおり、今日はゆっくり休んで明日に思考を回したい。


「あ、ごめん……私、二人に話したいことがあって。三人だけにしてもらってもいい?」


 二人の顔色を窺って、ぽつりぽつりと凛が言う。帰る前の挨拶だと、芽亜凛は思った。

 友達同士で話がしたいと言う娘に、両親は快く従って病室を出ていく。ベッドの上で片腕を固定する凛は、両目をそわそわと動かしたのち渉を見つめた。彼の泣き腫らした重い瞼が、彼女を捉えようとして持ち上がる。


「私のことは大丈夫だから」


 悲しみに暮れる幼馴染を勇気づける力強い視線と、まっすぐな言葉が矢のように放たれた。凛はまるで自分自身に言い聞かせるように、彼のその背中を目一杯押す。


「渉くん。渉くんは渉くんがしたいこと、思う存分叶えてきなさい」


 唇を噛みしめて、凛はきゅっと小さな笑みを作った。

 眠たげだった渉の顔つきが、みるみるうちに覚醒へと兆しを示す。渉の抱える悩みも、迷いも、すべて、この幼馴染にはお見通しであった。

 薄っすらと涙の膜を張った温かな眼差しで、凛は芽亜凛のこともゆるりと射抜く。


「芽亜凛ちゃん、渉くんのことよろしくね」


 芽亜凛の特別な友達は、渉と芽亜凛の手を取って柔く握った。その言葉の輪郭が掴み取れないまま、芽亜凛はこくりと頷いた。


 二人が病室を出ると、入れ替わるように凛の両親が戻ってくる。一礼してすれ違うや、渉は「少し時間いいか」と、芽亜凛の返事を聞く前に歩き出した。その足取りは軽くもなく、重くもなく、芽亜凛が追いつける程度のペースだった。

 抗えぬ引力に突き動かされて、二人が辿り着いたのは病院の屋上庭園。ライン状になった緑の芝生の前で、渉はぴたりと立ち止まった。

 夏の夜風が、二人の髪を揺らして通り過ぎていく。彼の背後で揺れる髪を押さえて、芽亜凛は渉の言葉をただじっと待った。


 何を伝えたいのか、それを考える余裕もないけれど。これから彼が吐露する言葉は決していいものではない気がした。凛に頼まれたのだから、投げ出すわけにはいかないが。

 渉は告白前の男子のように、胸いっぱいに夜の空気を吸いこんだ。一度息を止めて、ゆっくりと吐き出して、こちらを振り返る。


「一生のお願いがあるんだ」


 赤く腫れぼったい目はもうどこにもなかった。今は夜空から降り注ぐ月の光が、彼の真剣な表情をありありと浮かび上がらせる。

 瞳に覚悟の色を宿して、渉は人生で一度きりの願いを紡いだ。


「俺を、殺してくれないか」

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