白日のもと
二日続けて妹が見舞いに来るなんて、明日は雪でも降るんじゃないかと
「さっき降ってたくせに」
薄目でテレビを睨む
斜めに起こしたベッドに上体を沈めて、朝霧は傍らでプリンを食べる妹を一瞥する。
「ただのにわか雨だろ。天気予報にまで文句を言うな」
「文句じゃない、事実でしょ。ちょっと濡れたし」
「風邪引くなよ。今のお兄ちゃんには看病できないぞ」
「キモいから来なくていいよ」
兄が入院しても口の減らない妹だが、これでもまともに会話しているほうである。通常運転であれば目も合わさないし口も利かず、そもそも見舞いになど来ない。微細な変化をもたらす起因があるとすれば、それはやはり
彼女の死を、虹成は尋ねない。訊きたがっているのは顔つきでわかるが、兄が傷ついていると思っているのか、それともこの兄に訊いたところで得られるものはないとわかりきっているのか。
朝霧が何を言おうと虹成には嘘だとわかる。たとえ嘘でなくても、兄の紡ぎ出す言葉は虹成自身を傷つける。彼女が求める答えは生まれないし、何もない。
だからただ、黙ってそばにいる。朝霧も自ら話すことはない。今さらこの妹に取り繕うことは皆無だ。
事件当日、来ることのない朝霧の両親に代わって病院に駆けつけたのは保健教諭の
「先生」と呼ぶ朝霧が薄く笑うと、猪俣はハッと顔を上げて、泣き出しそうな顔で彼の髪を撫でた。
虹成はからになったプリンの容器を重ねると、テーブル上の三つ目に手を伸ばす。太るぞ、と朝霧は口を滑らせかけたが、甘味の苦手な兄に代わって処理してくれてるのだ。文句は言うまいと飲みこんだ。
「虹成は自分の名前の由来、知ってるか?」
脈絡のない問いに虹成はプリンの蓋を剥がしながら、さあ、と首をすくめる。
「授業でやらなかったのか」
「ジェネレーションギャップでしょ。痛い名前流行ってたし、授業でやりにくくなったんじゃない? あんたは『学修』から取ってるんでしょ」
無感動に言いながら、ふにゃりとスプーンで掬ったプリンを口に運ぶ。朝霧
「病室から見えた虹だよ。それが虹成の由来だって」
「ふぅん……なんであんたがそんなこと知ってんの」
興味なさげに訝しむ妹。その問いには答えず、朝霧はカーテンの開いた窓を指さした。虹成は指先を辿って姿勢を低くすると、窓の外の景色を覗きこむ。瞼が持ち上がった。
雨上がりの空に、七色の橋がかかっている。青い空にも負けない鮮やかな虹。雨上がりの晴れた空にかかる、色彩豊かなアーチ橋。
雨もたまには悪くないだろ、と朝霧は思った。妹とこんな空を見られるのなら。
梅雨明けを祝う虹は、見上げる者の目に鮮烈に映る。夏の夕刻はまだまだ明るい。遠くで走り去るパトカーのサイレンが連なって聞こえた。
* * *
行方不明の少女を連れた未成年が、現在銃を所持して建物に立てこもっている。現場ではすでに警察官が一人、胸を撃たれて瀕死状態だ。無線を受けた警察は武装を許可し、続々と建物周辺に集まりつつあった。
刑事の朱野は拡声器を片手に現場の指揮を取る。「きみは完全に包囲されている。逃げ道はない。人質を解放して出てきなさい」今ならまだ間に合う、と説得を試みて様子を窺う。
茉結華は廃工場のなかから見える外の状況を四方八方くまなく確認していた。
近隣のビルからきらりと光る反射はライフルのスコープによるものだ。重大な立てこもり事件となれば、日本では
建物は裏口まで包囲されている。外でキンキンと声を上げている刑事の言うとおり、逃げ場と呼べる道はなかった。
剥き出しの排水管からぽたりと水が滴り落ちる。茉結華は窓際の死角に隠れて、ふっと息を吐いた。
「予知夢だったのかな……夢で見た光景とおんなじだ」
人質を取って大勢の警察官を相手にするそんな夢。夢のなかで茉結華は最後……――思い出す前に首を振る。
馬鹿馬鹿しい。今は目の前の現実を考えよう。状況はまさに八方塞がり、袋の鼠だ。さて、どう逃げ出そうか。
「私が、前に出るよ」
隣で息を潜める凛が、キャップ帽の下から視線を送った。
「人質を盾にすればさすがに何もしてこないよ。正面から出て車を奪うのが打開策じゃないかなって、私は思うけど……」
されるがまま黙ってここまで付いてきた凛であったが、本気で茉結華に協力しようと考えているようだ。茉結華もそれしかないと思っていたが、悩みすぎたか。彼女に――人質に、背中を押されるなんて情けない。
茉結華は銃口を凛に突きつけると、「わかってるよ」と口角を上げて、窓の外めがけて一発撃ちこんだ。ぱりんっとガラスが割れる音と周囲に響き渡る銃声が入り乱れる。
「人質、してくれるんだよね?」
凛は両手を挙げて、うん、とまっすぐな瞳で頷いた。
建物内から響いた銃声が長海の鼓膜を震わせる。まただ……あのときと同じ。犠牲者一人を出した藤北の銃撃事件、間に合わなかったという後悔の念が、今も長海の心に巣食っている。
裏口には綾瀬と灰本が、正面には長海と朱野警部が。それぞれを三百六十度死角なく、逃げ場なく包囲する形で構えていた。もちろんほかの捜査員も勢揃いである。
長海が回した位置情報は正しかった。この建物内部に、神永響弥がいる。彼が銃を所持しているとは誰一人として予想しておらず、放たれた弾数はすでに二発。
指揮を取る朱野警部は言っていた、「相手は未成年。だが油断するな」と。状況はその言葉どおり、手に汗握る過酷なものとなっていた。仲間一人がすでに撃たれているのだ、誰も油断などしない。
立てこもり事件はほとんどの場合が消耗戦と化す。相手が降伏するのを待つか、突入許可が下りるのを待つか、もしくは新たな動きを見せるのをただひたすらに待つか――
長海は、出入り口となったシャッターの薄暗い隙間にすっと影が走るのを見て、両目を大きく開いた。銃を握る手に汗が滲む。『出てくるぞ。注意しろ』と警察官全員に無線が入る。
建物の影を破って炎天下に姿を見せたのは、両手を挙げた小柄な少女と、その後ろにぴたりと付いている神永響弥。彼は右手に銃を構えて左手でナイフを持ち、人質の首に刃を突きつける。
響弥は、長海が瞬きした瞬間パトカーのフロントガラスを撃ち抜いた。そのドアの後ろに身を屈めていた長海の頭上を、砕け散ったガラス片が飛ぶ。威嚇射撃だ。このまま突っ切るつもりか。
パァンッ――と、再び発砲音。
撃ったのは響弥ではなかった。警察官の、別の誰かである。
『おい誰だ、発砲許可は下りてねえぞ!』
無線越しに朱野警部の怒号が飛んだ。響弥を見ると、彼の手から銃が弾き飛ばされている。響弥は空っぽになった自分の手のひらを見て固まっていた。手も身体も無傷だ。
「凛ちゃん」
凛の背後で、響弥はふふっと笑みを浮かべた。ナイフを持つ左手に力をこめたが、刃が彼女の首に触れることはない。殺せない――殺せないよ。凛ちゃんを殺すなんて、最初から私にはできない。
「神永響弥。もう終わりだ」
どこかの馬鹿の声が、数メートル先にいる響弥の耳まで届く。ああ、本当に――
馬鹿な警察官もいたものだ。見せている武器はこれだけじゃないというのに。
茉結華は右手を腰に回して、もう一丁の銃を取り出した。警察の持っている拳銃と同じ型である。家から持ち出した銃はどちらもタジローが用意してくれたものだ。
今度は、弾かれる前に手早く終わらせる。
茉結華は拳銃の撃鉄をカチャリと起こす。もう終わりだ。誰かの言ったあの声が、言葉が、頭のなかをわんわんと責め立てる。
――こんなところで終わってたまるか。
私は茉結華だ。生きている。生きてこの世に、この場所に、地に足をつけて存在している。私はこの世に呪いを証明するために生きてきた。生まれてきた。
こんなところじゃ終われない。こんなところで終わらせられない。誰かに認めてもらえるまで、私は産声を上げ続ける。……誰かに、助けてもらえるまで……。
茉結華は周囲を見渡した。車両の隙間からぎらぎらと鋭い瞳が揺れている。茉結華めがけて一直線に注がれている。
彼の味方はいなかった。誰一人として、見当たらなかった。
「凛ちゃん、」
神永響弥は、自嘲気味に笑って呟いた。
「私、頑張ったよね」
身動きする間もなく銃声がこだまする。誰も問いには答えない。誰も彼を止めることはできない。
燦々と輝く太陽に照らされて、神永響弥は背中から倒れた。まだ明るい夏空の下で彼の瞳孔が開いていく。
ほかならぬ自らの手によって、弾丸は彼の頭を貫いた。
最後に彼の瞳に映ったのは、人々をにこりと見下ろす綺麗な虹だった。
現場を封鎖する警察官によって、辺り一帯が黄色いテープとブルーシートに覆われていく。渉が最寄りのバス停から足を使って駆けつけたときには、もう何台ものパトカーと救急車が停まっていた。
「凛っ!」
救急車のそばで女性捜査員にケアされている凛のもとへ、芽亜凛はテープをくぐって走った。「芽亜凛ちゃん……」と見上げた凛の肩を、彼女は必死に抱きしめる。
凛は無事だった。目立った外傷もなく、渉はほっと息をついた。
まだ封鎖されていないテープの間を通って彼を探す。大勢の警察官が出入りする建物の入口前まで行くと、地面にしゃがみこむ鑑識課の後ろ姿があった。その中心に、誰かが横たわっている。
彼は銀色の袋に収められていた。開いたファスナーの口から見えた横顔は真っ赤な血に染まっている。あれは怪我人じゃない……死体を運ぶ袋だ。
「きみ、何している! 入っちゃ駄目だろう」
建物から出てきた制服警官が渉に気づいて視界を暗く遮る。目の前が制服の紺一色に染まっても、渉の両目は微動だにしなかった。
「おい、聞いているのか」と、警官に肩を押されて尻餅をついた。前方では死体が運び出され、渉を置いて遠ざかっていく。
あれは。あの横顔は――
「響弥……」
袋の隙間から見えたのはよく知った顔。こんなときでもちゃんと外ハネにセットされた黒髪。
渉はひび割れたコンクリートに向けて呻いた。もういない親友の名前は誰に届くこともなく、夏の熱気に溶けて消えた。
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