暴走

「長海です。今から送るGPSのデータを調べてください。今朝捜索願が出された女子生徒の居場所がわかったかもしれません。そこにはおそらく、神永響弥も一緒かと」


 長海は朱野しゅの警部への報告を終えると、スマホを胸にしまって休憩室を後にした。情報提供者は、銃撃事件の被害者の一人、望月もちづき渉だった。

 行方不明の少女と響弥が一緒にいる。突飛な話だったがネコメも気にかけていたことだ。長海が共有した位置情報は各班に回されて、至急追手がかかるだろう。


「悪いが戻らなければ……」


 ならない。そう口にしながら相棒の病室を覗いたが、ベッドはもぬけの殻だった。

 いない。どこへ行ったんだ。

 窓が閉め切られていたことにひとまず安堵して、長海は病室前で仁王立ちする警備員に尋ねる。


「あの、あいつはどこに?」


 警備員はびしりと敬礼して答えた。


「はっ。ネコメさんなら公衆電話に向かいました」


 このたった数分のうちにいとも容易くすれ違ってしまった。長海は忘れていた。自分の相棒が、目を離せば煙のように消える男だということを。

 仕方なく、一番近い公衆電話エリアに向かうが、そこでもネコメとは会えなかった。あのひと目でわかる異様な容姿がどこにも見当たらない。急いで病室へと引き返したが、部屋の主はいまだに戻っていなかった。

 ……変だ。嫌な予感が長海の胸をかすめる。


「どこに行ったんだ……」


 公衆電話で誰と話していたんだ。どこへ向かったんだ。……まさかとは思うが。

 あいつの言う刑事の勘なんてこれっぽっちもあてにしていないが、今ばかりはこれに頼る。刑事としての、相棒としての勘であった。

 長海は病院を後にし、ほかの刑事たちとの合流を図る。みな響弥を追って出動しているはずだ。銃撃事件のような惨事が起きる前に、少年少女の暴走を止めなければならない。


    * * *


 ふん、ふふん、ふん、ふん。ふん、ふふん、ふん。

 ガソリンスタンドで窓拭きされている間も茉結華まゆかは横揺れの鼻歌を刻んでいた。神永詠策えいさくの軽車を拝借して百井凛とドライブデート。このままあてもなく彷徨い続けて、ずっとずっと遠くへ行きたい。

 凛の住む住宅街から少し離れた駐車場に停めておいた車。茉結華は、助手席に座る凛を盗み見る。

 銃を突きつけながら半ば強引に乗りこませた形となったが、張り詰めた緊張感は車内で食事を挟むうちに薄れていった。相変わらず凛の本心は読み取れないが、その横顔は穏やかでリラックスして見える。


「昨日は渉くんが入ってきて驚いたねぇ。凛ちゃんも肝を冷やしたでしょ」


 渉と凛の言い争う声や、凛以外の人の気配は、部屋にいた茉結華に筒抜けであった。

 危険を察知した茉結華はトンカツを口に咥えたまま咄嗟にベッドの下に隠れ、渉の襲撃から逃れた。凛が必死に隠そうとしてくれているのだ、茉結華もそれ相応に完璧な振る舞いを見せている。

 茉結華は、凛が渉に話したとは思わなかった。渉が踏みこんだときの凛の慌てようは本物だ。あの幼馴染は野生の勘だけで凛の部屋まで辿り着いたのだ。まったく油断ならない『親友』である。


「ごめんね、気づかれちゃったみたい」


 凛はくすりと目を細めて笑う。瞳は窓の外の、どこか遠くを見つめていた。

 私はいつ死んでもいい、と。彼女の眼差しから覚悟の決まった諦念を感じ取って、茉結華は勝手に諦めないでよと心のなかで呟く。

 ――嫌だな。いじめたいわけじゃないのに。


 凛ちゃんには笑顔でいてほしいよ。人質という関係にも関わらず、茉結華は寄り添うように甘い考えを本心から抱いてしまう。

 非情になれれば楽だった。芯から狂ってしまえれば。取り返しのつかないほど身も心も鬼になれたのなら、まっすぐ黒に染まって落ちていけたのに。

 何度念じて願っても、自分の心は正常のままだ。本物になれなかった偽物。それが茉結華自身だ。

 茉結華はガソリンスタンドを出て車を走らせる。


「凛ちゃんの捜索はとっくにはじまってるだろうね。あんな書き置きも残したんだし」


 責任を放棄した口ぶりで言ってみた。

 あの書き置きは茉結華の指示ではない。凛が残したいと言ったから、時間を与えたまでだ。


「別に、仕方ないよ。言わなくても心配するだろうし、探さないでって言っても探すのは当然だもん」

「あはは。開き直ってるね。みーんな心配してるだろうなぁ」


 そんな凛をひとり占めしても、茉結華には何のドキドキ感も得られなかった。高揚感も優越感も無に等しい。逃げられる緊張感も抱かなかった。今の凛は、ただの喋り相手にすぎない。


「あの書き置きの『彼女』ってさ……」


 茉結華は横目で凛の顔色を窺う。

 あの書き置きには『ある女の子との約束』が綴られていた。彼女との約束を果たしに向かう、と赤裸々な告白が最初から最後まで続いていた。

 私のこと? とは言い出せなかった。茶化しながらでも訊ける話ではないと判断したからだ。

 しかし凛は、「女の子だと思ってたから」と茉結華の予想した答えの斜め上を行く。


「別に響弥くんを庇ったわけじゃないよ。私が勝手にそう思ってただけ。まあ……読んだ人は女の子だと思うんじゃないかな。響弥くんが一緒だなんて思わないでしょ」

「……」


 車は赤信号で停止した。

 ――それって、ずっと……、


「ずっと、憶えてたよ。忘れたことなんてないよ」


 凛はこちらを振り返り、えへへとはにかんだ。


「……お買い物だったかな。出かけることになっちゃって。帰りに、公園に寄ったんだけど――遅すぎたね。ごめんね、言い訳になっちゃうよね。響弥くんだ、って気づくのが、遅すぎたよね……」


 凛はうつむくように、頭を垂れるように、緩やかに目線を下げていく。凛が気づけなかったのは、マユカという名前を聞いて女の子だと思いこんでいたためだった。

 七年前の夏。坂折公園で出会ったあの日。渉とテニスボールで遊んでいた少女は、茉結華に『たすける』と約束をした。大人たちの暴力によって支配されゆく環境から、茉結華を救い出すと。その小さく温かな手を差し伸べてくれた。

 次の日、茉結華が公園に向かっても彼女は来なかった。だがそれは決して、忘れたわけじゃなかった。約束を破ったわけじゃなかった。凛はあの日確かに公園へ向かい、そして茉結華とすれ違ったのだ――

 口のなかでカチカチと小刻みに歯が震える。茉結華は動揺を悟られぬよう懸命に瞳の動きを制御したが、思えば思うほどに心の揺らぎは表れた。


(今さら謝られたって……今さらすぎるよ……)


 凛ちゃんに最後のチャンスを上げる。私のこと助けたいなら、人質になってくれないかな――あんなこと偉そうに言っておいて、辿り着いた答えがこれなの? 私が勝手に思いこんでただけ。すれ違ってただけ。裏切られたと誤解して、忘れ去られたと思いこんで……拗ねて、悲しんで、傷ついて……。だったら私がこの子の大切なものを奪ってやろうと、そう思ってた。


「遅いよ……」


 ――もう、何もかも……遅いよ。

 信号が青に変わっても車の進みは微速であった。予定外の渋滞に巻きこまれてしまったか、茉結華は身体を傾けて前方を覗き見る。


(……は?)


 数メートル先で車の動きを止めていたのは、白いヘルメットを被った何人もの警察官。それは突然はじまった、予期せぬ検問であった。

 夕方のこの時間帯に検問? どうして。疑り深い茉結華の脳裏を本能が駆け抜ける。

 前方で停車している車には、見覚えのある刑事たちが乗っている。そして彼らの鋭い目線は、車内の茉結華と凛に注がれていた。

 茉結華は悟った。この検問の目的は、凛ちゃんだ――と。


「響弥くん……」

「自首はしないよ」


 押し黙る凛に茉結華は自分の帽子を被せる。そして自分たちの番が来る前に、思い切りアクセルを踏みこんだ。

 前の車を追い抜き、止めにかかる警察官を轢き殺す勢いで振り切る。すぐにパトカーのサイレンが後ろを追ってきた。凛は胸の前でシートベルトを握りしめて、背もたれに身体を預けている。

 大通りを抜けて細道に入り、右折左折を繰り返してサイレンを遠ざけると、茉結華は車を乗り捨てた。凛は、茉結華が銃口を突きつける前に手早く車から降りて、不安そうに前を走る。もうあの車は使えない。


 逃げこんだ先は、歪んだシャッターに隠された廃工場だった。壊れたパイプを跨いで、もつれた足取りで奥へと進んでいく。穴だらけのガラスからパトカーの赤いランプが光って見えると、茉結華は舌打ちをこらえた。

 凛は怯えを誤魔化すように身を縮めて、じっと茉結華を見つめていた。これからどうするつもり、と尋ねるみたいに。


「いたぞ!」


 斜め前から声が飛ぶ。時間の問題かと息をついた矢先だった。

 茉結華は安全装置を外した銃で、警官の身体を容赦なく撃ち抜いた。検問から追ってきた制服警官は呻きながら倒れ、凛は「っ!」と口を押さえて息を呑む。茉結華は銃を構えて凛の手を取った。

 小さくて温かい。その手をしかと握りしめ、茉結華は建物の奥へ奥へと走り続けた。

 逃げ出したくても逃げ切れない。自分でも抗えない大きな闇がすぐ目の前で口を開けていた。

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