第十五話

死を見る覚悟

 梅雨明け宣言されたばかりの夕方に降り注いだ雨はにわか雨だったらしく、窓の外は予報どおりの青空が広がっている。これから本格的な夏がはじまるのだと思うと、長海ながみの気持ちも晴れるというものだ。

 夏は好きだが、雨はお断りである。どんより湿っぽい空気は肌にまとわりついて、気持ちを苛立たせる。からりと乾いた晴天のほうが気分もいい。

 長海は自販機で缶コーヒーとミルクティーを買うと、相棒の病室に足を向けた。ネコメは、ベッドの上で身体を起こして本を読んでいる。紅茶色の淡い瞳と、白い眼帯に覆われた片目が長海を涼やかに見据えた。


「長海さん、おはようございます」

「寝てたのか」

「こんにちはの同義です。まだお仕事中でしょう、聴取ですか?」


 記憶を失っていても勘のいい相棒刑事に、長海は「まあ、そんなところだ」とミルクティーを渡した。ベッドの脇の椅子に腰を下ろして缶コーヒーを振る。


「お前が襲われたときのことを……改めて尋ねに来た。何度も訊かれただろうが、何か思い出したことはないか、再度尋ねたい」


 頑なに口を閉ざしていた稗苗ひえなえ永遠とわは、類巣るいす一真かずまが自供したのち追従するように罪を認めた。互いに殺したと見られる遺体が同時に出てきたのだから、もはや逃れようがないと判断したのだろう。

 だが二人とも、神永かみなが響弥きょうやについては『無』だ。神永家との関わりも、どうして彼の家にいたのかも。響弥のことになると途端に貝のようになって殻にこもってしまう。

 ――風田かぜたとおんなじだ。彼ら大人たちは神永響弥を今でも庇い、守っている。


「たとえ俺が、彼に目玉をくり抜かれていても、せいぜい傷害罪で終わるでしょう。風田さんがすべての罪を認めている今、彼の殺人罪を立証するのは難しいことです」


 ネコメは指先で眼帯の表面をゆるりと撫でた。


「それに、記憶のない俺が今さら何を言ったって、信用に値する証言ではないと思いますよ」

「……」


 それでも俺は、思い出してほしい。もとのお前に戻ってほしい――そんな言葉をぐっと飲みこんで、長海は缶コーヒーを一口呷った。


「無理にとは言わない。ただの、上からの指示だ」


 このまま響弥が捕まらず、いや、捕まったとしても、彼の真実の罪状は闇に覆われたままだ。ネコメへの傷害も井畑いばたの自殺偽装も、ホテルでの拉致監禁も類巣と永遠の関与も。地下室で凍らされていた父親の遺体だって、知らんぷりをされればそれでおしまいになる。すべて風田が罪を被ることになるのだ。

 そんなの許してたまるか。ネコメの失った瞳はもう戻らない。せめてその無念は白日のもとで晴らすべきだ。彼の罪は彼のものとして正しく裁かれるべきだ。


「あやふやな俺の記憶を頼るより、彼を捕まえるほうが先でしょう。今朝の捜索願はどうなりましたか?」


 ネコメは自嘲気味に薄く笑うと、「藤北の生徒でしたよね」と付け足して、刑事らしい話題を振ってみせる。またしてもほかの刑事から余計な情報を聞かされたようだ。


生活安全課セイアンは家出として見ているが、気になるか?」

「そりゃあ同じ学校ですからね。気になりますよ」


 今朝、藤北に通う百井ももいりんという少女の捜索願が出された。遺書のような置き手紙の確認も取れており、警察は事件と家出両方の可能性を視野に入れている。

 行方不明の捜査は長海たちの担当ではないが、響弥と同じ――そして記憶上では今も自分と同じ――藤ヶ咲ふじがさき北高校というだけでネコメは常にアンテナを張っているようだ。


「今は生徒の証言も取りやすいでしょう、けど夏休みに入れば見失います。霧はいっそう濃くなるばかりです」

「大人の意見だな」


 長海はため息交じりに肩をすくめた。ネコメの言うとおりだと思ったからだ。

 響弥を見つけない限り事件の数々は一向に終わらない。彼を野放しにして、いずれ戻ってくるのを待つ手もある。でもそれでは遅い、遅いのだ。時間が解決するにはあまりにも長すぎる。

 缶コーヒーを飲み干すと、長海の内ポケットでスマホがバイブレーションを奏でた。仲間の刑事からかと思いきや、知らない番号からの着信である。

 長海は「悪い、電話だ」と一言告げて席を立ち、足早に休憩室へと向かった。


    * * *


 朝のホームルームが終わると、わたるは荷物を運ぶていで職員室に呼び出され、凛の失踪について問われた。

 彼女の家出について何か心当たりはないか、石橋いしばし先生は幼馴染という仲を考慮して尋ねる。ホームルームでは、凛は風邪で欠席だというふうに伝えられたが、裏ではしっかりと行方不明として扱われているようだ。

 渉は背中に冷や汗を垂らしながら、首を横に振るだけだった。凛の居場所を把握できる手段が自分にあれば、そう伝えていただろうけれど。

 その手段はたちばな芽亜凛めありが握っている。まずは彼女に確認を取ることが先決だ。


 時間は刻一刻と過ぎていった。芽亜凛が凛の失踪に気づいた様子はない。心配のメッセージは確実に送っているはずだが、家にスマホを置いたままいなくなった凛にその声は届かない。既読が付くこともない。今日が過ぎれば、彼女は異変に気づくだろう。

 居場所は誰にもわからない。殺意を持った芽亜凛が駆けつける心配もない……。

 渉は、凛の心配と芽亜凛の暴走を天秤にかけながら、放課後まで辛抱強く待った。昼休みに切り出そうかとも考えたが、中途半端な時間に抜け駆けされても困る。渉が芽亜凛の立場であれば話を聞いた途端に学校を飛び出しているだろうから。芽亜凛の暴走を自分のものと結びつけて、心のブレーキをかけ続けた。


「橘、ちょっといいか」


 クラスの女子テニス部と教室を出ようとする芽亜凛を呼び止めて、渉は人混みを避けた空き教室の廊下に彼女を連れ出した。焦るな、焦るな。冷静でいようとするストッパーと凛を思って先走る気持ちが交差する。渉は咳払いをひとつして、「見せてほしいものがあるんだ」と切り出した。


「ちーちゃんの髪飾りのGPS。まだ機能してるなら見せてほしい」


 綺麗に切り揃えられた前髪の下で芽亜凛の眉間がぎゅっと狭まる。彼女がどうしてと言う前に、「理由は訊かないでほしい」と渉は目線を足元に落とした。小さなため息が、芽亜凛の口から漏れる。


「機能……してますけど」


 そう言って自分のスマホを確認する芽亜凛の声には驚きが含まれていた。渉はその画面を覗きこみ、確かに機能していることを確認する。

 発信機は、停止と移動を繰り返していた。ひとつの拠点に留まっていないうえに、大通りを矢印がスムーズに動いている。歩行者のスピードではない――車だ。


「これがどうかしたんですか」


 気づけば芽亜凛は渉を横目に射抜いている。わかりやすい渉の反応を見ても悟らないのは、事態が予想を超えているからだろう。


「この持ち主、誰かわかるか?」

「……警察じゃないんですか」


 燃えるような瞳で芽亜凛は渉を上目遣いに見据える。千里ちさとが入院して取り調べを受けた際、警察に渡したものであると芽亜凛は考えているようだ。

 渉は次の言葉を言おうか逡巡したすえ、覚悟を決めて拳を強く握りこんだ。


「――凛だ。凛がちーちゃんから受け取ったものだ。凛は今、おそらく……っ響弥と一緒にいる。橘も察したことだろ、凛の家に……あいつがいるって」


 芽亜凛の顔色はみるみる青ざめていった。両目を大きく見開き、唇を震わせて、スマホを持つ手をわななかせる。


「俺が警察に言う。信じてもらえるかわからないけど、できることはこれしかないと思う」


 渉は芽亜凛にGPSのデータを送ってもらうと、生徒手帳から名刺を取り出してその番号に電話をかけた。パソコン室で助けに来てくれた刑事の名刺だった。


「朝一番に私に尋ねなかったのは私が突っ走ると思ったからですか」


 芽亜凛は廊下の壁に背中を預けてぶつくさとぼやいた。渉は彼女の横で、刑事が電話に出るのを待つ。ワンコール、ツーコール……繋がらない。焦るな、繋がらなくても慌てず待つんだ。

 そうして――呼び出し音が繰り返されている間に、芽亜凛のスマホに着信が入った。芽亜凛が電話に出るのと、渉の電話が繋がったのがほぼ同時のことである。


「……えっ……はい。……そうです」


 芽亜凛は渉を一瞥して誰かと別の話をしていた。渉は電話口に出た刑事に、凛の失踪と居場所を特定できたことを手短に伝えてGPSのデータを送信する。電話相手――長海刑事は、驚いた様子ですぐに向かうと言った。

 互いに通話を終えてスマホをポケットにしまうと、渉は芽亜凛に向き直った。彼女は壁にもたれたまま動かないでいる。


「これで……これでもう大丈夫だ。あとは警察に任せよう」


 渉はできるだけ優しく語りかけた。大丈夫、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせるように繰り返す。

 芽亜凛は顔をしかめて一点を見つめたまま、「嘘……ですよね」囁くように断言した。


「本当は向かいたくて仕方ないんじゃないですか。今すぐ飛び出して向かいたいんじゃないですか」


 彼女の握りしめるスマホケースがギッと弱々しく軋んだ。渉の歯噛みを表すかのようだった。怒りと悲しみを混ぜ合わせたような表情で、芽亜凛は渉を見据える。


「私は行きます。どんなに遅くなっても、私は凛のもとへ向かいます」


 無理強いしない芽亜凛の一歩引いた言葉が、渉をどくどくと奮い立たせる。警察にすべてを任せられるほど、自分の気持ちが軽くないこともわかっていた。


 幼馴染と親友のもとへ向かう。この先誰かの死を見る覚悟なんて、今の渉には到底ないものだった。

 きっと誰にもないものだった。血の波紋を見る覚悟なんて。

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