最終話
逆行
呪いなんてあるわけないだろ。六月上旬に親友へ放った言葉が、自分に返ってくる。
呪いなんて、霊なんて、オカルトなんてあるわけない。
けれど芽亜凛は――無意識だっただろう、願ってもいない奇跡だっただろう、
呪いはある。存在する。信じるしかない……信じたい。チカラの継承の成功を。呪いを願い、チカラを信じ、瞳を閉じてどうか成功するようにと祈っている。
芽亜凛のナイフは渉の心臓に無事到達した。助骨に当たってカクンとずれた刃先は隙間に入りこみ、柔い内臓を斜めに穿つ。
死を待つ数分間、禁忌に震える芽亜凛の身体を支えた。ナイフの繋ぎ目から命が流れ出ていくのがわかる。抜けば一瞬で死を迎えるだろう、けれど渉は芽亜凛と繋がっていたかった。確実に成功させたかった。失敗して、渉の死んだ時間軸に彼女が一人囚われぬよう。
瞳を閉じた暗闇で、ふっ、と反転した重力が身体にかかる。アトラクションの頂上で内臓が持ち上がる感覚。全身がふわりと浮いたように軽くなり、触れていたすべての感触がなくなる。そのまま渉は夢を見るように、もしくは走馬灯のように、色鮮やかな映像の嵐に吸いこまれていった。
頭のなかでいろんな光景が過ぎ去っていく。
運ばれていく
ばらばらに様々な記憶が頭のなかを流れていく。時間が逆行していく。
夜は夕暮れに変わり、太陽の位置は昇っていく。咲きはじめのアサガオの花が窄んで、降り注ぐ雨は厚い雲に吸いこまれ、アジサイの葉に垂れたしずくは天へと還っていく。灰色の空は青く色づき、湿気を含んだ気候はからりと乾いて街に春の陽気を授ける。
よく知った声と温度と香りが、重力とともに渉の五感へと戻ってくる――――
はっと、声が出た。瞳を開くと、
わんっと足元で凛の愛犬ニノマエが鳴いて、渉は視線を落とした。グレーのロングTシャツの袖から覗く両手が見える。握っていたのは、赤い帽子を被った猫の飾り物。これは――
「渉くーん。お腹が空いたのはわかるけど、ぼうっとするのは全部飾ってからにしてよ?」
幼馴染の不平を聞いて振り返ると、糸で連なった雪の結晶を握った凛と、彼女の身長よりも高いクリスマスツリーが視界に飛びこんでくる。渉はごくりと、喉を鳴らした。
――戻ってきたんだ……。成功したのか。
この景色が夢でない限り、芽亜凛との継承は成功したと言える。渉は頬をつねって痛みを感じたのち、スマホで日時を確認した。そして、思わず声を漏らした。
「も……」
「も?」
「……戻り……すぎだろ」
一瞬こちらを振り返った凛は、手に持った結晶の飾りをリビングの壁に装飾していく。ツリーの上部には手が届かなくて、渉が代わりに手伝っていたのだ。
今日は百井家で開かれるクリスマス会一日目。十二月二十四日、午後六時。クリスマスイブだ。
(梅雨でも春でもどこでもいいとは言ったけど、冬は戻りすぎだろ……)
ここが渉に最も相応しいリスタート地点ということか。渉はもう一度頬をつねって現実であることを確認すると、猫の飾りをクリスマスツリーに吊るしてスマホを操作した。「んんー」と隣で幼馴染の唸り声が聞こえたため、手早く済ませる。
渉は、響弥との個別トークを開いた。彼との最後のやり取りは、他愛もないテレビのバラエティ番組の話題。日付は……一週間前で止まっている。
「渉くーん? サンタさん来ないよ?」
「そうか、今って冬休みか」
「……うん?」
幼馴染の苦言に被せて渉は状況に納得する。学校は先週末から冬休みに入った。響弥とのやり取りはその前から途絶えているようだが、いつメンとのグループトークは今日まで更新されている。普段どおり未読を溜めていたらしく、渉はグループトークを少し遡ってから響弥の個人トークに『今から会えるか』と送信した。仮に返事がノーであっても渉の答えは変わらない。
スマホをポケットにしまって玄関に向かう。磨りガラス越しの外は真っ暗だ。病院の屋上で見た初夏の夜空よりも暗い、凍えるような冬の夜道が待っている。
渉はハンガーラックに掛かったジャージを羽織って、首元まで上げたファスナーにネックウォーマーを重ねた。靴を履くと、玄関に幼馴染がぴょこっと顔を出し、
「ちょ、っと渉くん……! どこ行く気……」
ぱたぱたとスリッパの音を立てて追ってきた凛を、渉は振り向きざまに抱き寄せた。「ゎ、」と、背伸びした幼馴染が肩口で小さく息を呑む。
セーター越しの体温がじんわりと手のひらに伝わる。温かい。目を閉じれば眠ってしまいそうなほど柔らかな心地に、渉の胸は安らいだ。
腕のなかにすっぽりと収まってしまう小柄な幼馴染は、「渉くん……?」と、不安げに呟いた。
……全部曝け出してしまいたい。今までのことも、これからのことも。凛へのこの想いも。きっと芽亜凛も、何度も揺れたことだろう。
だけどまだ、ただいまは言わない。それは全部終わらせてから告げる言葉だ。
リビングに続くドアの隙間から「あら」と凛の母が、「まあ」と渉の母が口に手を当ててほくそ笑んだ。渉は凛の目を見て口角をきゅっと吊り上げる。
「行ってくる」
渉は外へ飛び出した。
街を彩る家庭の温もり、木々を華やかに飾るイルミネーションの輝きを横目に、渉は冬の湿ったアスファルトを自転車で滑走した。
親友への想いを乗せて漕ぐペダルのリズムに呼吸がほっほっと重なって、白い息がクリスマスの街に溶けていく。顔はひりひりと痛むほど冷たいが、ペダルを漕ぐうちに首元は暑くなり、触れると汗でべたついた。
――会いたい。もう一度、生きている頃のあいつに会いたい。
響弥のいない人生なんて俺にはいらない。戻りたい。歪んでしまう前のあの頃に。気づきたい、止めたい。あいつを縛りつける苦しみから。今ならまだ間に合う。間に合わせてみせる。
渉は細い近道を通って裏側から回り、神永家の前でブレーキをかけた。
街を彩るクリスマスの夜とは程遠い暗闇が、彼の家の窓から溢れている。何の光も灯っていない『無』だ。
まるで留守を主張するかのような静寂に目を細めて、渉は玄関のセンサーライトのもと、インターホンを鳴らした。スマホを見ると、『無理』とだけメッセージが、渉が送信したわずか一分後に届いている。渉は通話アイコンをタップした。
繋がったのは、三コール目の途中であった。
『何?』と、開口一番に不満そうな声が飛んでくる。その一声で渉の瞳はゆるりと潤み、自然と上を向いて息を吐いた。
「今家の前にいるんだけど」
『は? 無理って言ったよね』
「お前、
と、渉は間髪入れずに断言した。
声のトーンの微妙な変化、柔らかくも棘のある口調……機嫌が悪いときの茉結華そのものだった。電話越しの親友は返答せずに息を詰めている。迷っているのか驚いているのか。
「なあ、寒い。開けてくれ」
『……なんで』
「夜家を出るとき、普通は電気つけとくんじゃねえの。防犯対策になるだろ」
親友は『ふぅん……』と鼻を鳴らして『知らなかったよ』と低く続けた。玄関の磨りガラスに、白い影が近づく。扉一枚隔てた二人は、同時にスマホを下ろした。
ずずずっと、滑りの悪い音を立てながら引き戸が開く。案の定、親友は白い髪の姿で現れた。
「よく来れたね」
「通知見てなかったんだよ」
「そういう意味じゃなくてさ」
ため息をつく茉結華の横に並ぶように、渉は靴を脱いで一歩、廊下に上がった。
「親父さんは?」
「……留守」
「へえー」
生返事をしつつ、渉は鼓動が大きく弾んだのを感じた。胸騒ぎがする……悪い予感だ。
茉結華は、通り過ぎようとする渉の腕を「ちょっと」と慌てて掴んだ。
「入らないでよ」
「誰もいないならいいだろ。お前と俺、二人きりじゃないのか」
「……」
「言い回しキモかった?」
渉はいたずらな笑みを返して茉結華の手を払い、暗い廊下の奥へと進む。頭のなかで家の間取り図を思い浮かべて、そうしてある扉の前でぴたりと足を止めた。ルイスのいた防音室……渉が監禁された最初の部屋だ。渉は、心臓の鼓動に従って扉を開けた。
目が泳ぐ。泳ぎ出す。
入ってすぐ横の、パソコンがあったスペースには何もない空白が広がっていた。奥にあったスライドドアも――あそこはトイレだったはず――なくなっている。まだ改装前ということだ。
その隅に、小さな檻がひっそりとあった。鉄格子のなかで丸まっている黒い人影。どくどくと心臓が暴れ出す。それは、響弥のお父さんの――っ。
死体……と判断を下す前に、渉はその和装が上下していることに気づいた。まだ息がある、生きている。檻のなかにいる状況を除けば眠っているだけのようにも見えた。
ほっと震えた息を吐いて安堵したのも束の間、背後から熱風のような黒々しい気配が渉のうなじを粟立たせる。
「入らないでって、言ったじゃん」
殺気立った親友の赤い瞳が渉を捉える。茉結華は行く手を塞ぐように扉の前に立っていた。右手に握った折り畳みナイフをゆっくりと持ち上げて、鋭利な刃で狙いを定める。
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