記念日

 渉は、檻で眠る響弥の父を視界の端に捉えながら思わず「っは」と笑みをこぼした。茉結華は顔をしかめて、「何が可笑しいんだよ」と吐き捨てる。


「久しぶりだな。お前とこうやって相対するの」

「は……?」

「別にふざけてねえよ」


 可笑しくはないし馬鹿にもしてない。よかったと、安心したのだ。

 こいつはまだ誰も殺していないし、殺せない。ナイフを向けるのは子猫が毛を逆立てているようなものだ。渉を監禁した頃よりも与えられた経験値の少ない彼を見て、愛おしささえ覚えた。それは得なくていい経験値だ。どうかそのまま変わらないでほしい。

 ナイフを向ける親友の姿に、屋上の芽亜凛が重なる。――ごめんな、お前には殺されてやらないよ。


 茉結華の視線とナイフの切っ先に動揺が表れ、柄を握る手に力が加わった。――来る、踏みこんでくる。正面ではなく、横から切りつけてくる。

 親友は畳を蹴って、ひゅっと、予測したとおりの弧を描いた。渉は軽々とステップを踏んで、戻ってきた軌道上の手首を掴む。


「ちっ!」


 茉結華は足を払ったが、渉のかわすスピードのほうが上であった。互いの片足が交差して畳の上を滑る。腕の自由が利かない茉結華は、ぐるんと天井を向くようにして倒れ、


「とっ、」


 渉は咄嗟に、彼の頭に腕を回して抱き留めていた。その直後、逆手に持ったナイフが渉の左肩に突き刺さる。


「痛っ、つ……!」


 たまらない激痛に唇を噛む。が、渉は茉結華を守るのをやめなかった。彼の後頭部に回した手に力を入れて痛みに耐える。

 茉結華は鼻息荒く呼吸していたが、しばらく静止するうちに徐々にナイフから手を離した。ぶるぶると指先が震えている。刃先はジャージを貫通して渉の肩に沈んだまま。


「わ、渉……」


 弱々しく呟いた茉結華の瞳は濡れていた。渉は目を細めて微笑する。


「……落ち着いたか?」


 親友は小さく首を横に振った。今度は別の動揺がこみ上げてきたようだ。渉は左腕を動かさぬよう極力右手に頼って、茉結華と自分の身体を起こした。視線は突き刺さったままのナイフに注がれている。渉も釣られて見たが、大した怪我じゃないな、と判断して茉結華と向き合う。


「いいか茉結華。お前が響弥でもどっちでもいい。お前は俺の……、」


 俺の……と、唇が震えて言葉を切る。抑えてきた感情が雪崩のように溢れてきて、ぐっと涙をこらえる。

 ――また、お前に会えてよかった。


「お前は俺の、ただ一人の親友だ。どんなに隠しても……偽っても、それだけは変わらない」


 茉結華が、響弥が――ひとりでもふたりでも、どちらでも同じだ。変わらない。渉にとっての親友は彼一人だけなのだから。


「喧嘩中なのによく言うよ……」


 苦笑とも違う苦い顔つきで響弥はため息を吐いた。「え?」と、渉の口から自然と声が漏れる。喧嘩中なの?


「あ……前に言ってた冬休みの喧嘩って今のことか」


 前とはもちろん過去ではなく、夢で見た『記憶』のことだ。去年の冬休みに喧嘩した、と響弥が話していた。彼は自分が悪かったと言っていたが、渉はまったく憶えていなかった。


「今日の渉は独り言が多いね」


 響弥は押入れから救急箱を持ってくるが、「抜くのはまずいだろ」と言って渉は止めた。彼が傷を縫えるほど器用なことは知っているが、実際にやられるのは怖いしごめんである。

 傷の手当よりも喧嘩の内容が先だ。俺たちは何を……何を喧嘩しているんだ?


(やべえ、全然憶えてねえ)


 思い出さないとと焦れば焦るほど記憶が絡まる。中学のクリスマスケーキの一件は関係ないか。あれは響弥の甘党を渉が知らずに、むしろ苦手だと思いこんでケーキを取り上げたことが原因だ。あとは朝霧や芽亜凛のことで言い合った記憶があるが、まったくの無関係だと言い切れる。何で喧嘩中なんだよ……。

 響弥は傷口から染み出た血にガーゼを当てながら嘆息し、「トキテルのことだよ」と肩をすくめた。


「……キザキ?」


 トキテルこと紫陽花あじさい刻輝きざき。十二月の現在、彼はまだ藤北に在籍している。昇降口で渉と口論になり、自主退学に繋がる騒動が起きる前だ。

 ――ああ、そうか。


「俺……響弥と喧嘩したから意地になって……」


 キザキを、追い出そうとしたんだ。

 響弥は内に秘めた茉結華を隠している。地毛の色も身体にできた痣も、中学からずっと隠して過ごしてきた。そんな響弥にキザキはしつこく絡んだ。


「体育がきっかけだったか……響弥の体力テスト、ボール投げだけすげえ飛んでたもんな」


 コントロールと力の加減が難しくて、響弥のが出てしまった。キザキが目をつけたのはそこからだ。ボクシング経験者の彼は、弱ぶっている神永響弥を見抜いてしまった。

 こいつには秘密がある。どうして手を抜いているんだ。気になって仕方がない。彼の探りは一年間を通してじわじわとエスカレートしていった。

 そして今度は、キザキと何を話していたのか渉が聞き出そうとする。響弥は自棄になって渉を突き放した。――それが一週間前の、冬休みがはじまる前の出来事だ。


「お前はたまに、本当の自分を見せてくれてたんだな。いつも抑えこんで、必死に隠してた茉結華の部分を」


 渉は懐かしみに浸るように目を閉じる。好きな子の前で格好つけてお姫様抱っこする彼の姿を。マットを運ぶくらいで悲鳴を上げていた姿を。


「お前はお前でいればいいんだよ。どっちが本当の姿とか、偽物だとか嘘だとか、そういうの全部含めてお前なんだから。俺がまるごと受け止めてやる」


 繰り返し渉は心で唱える。響弥でも茉結華でもどっちでもいい。お前は、たった一人の親友なんだからと。

 響弥はとりとめもなく瞬きをして、目線を彷徨わせて言葉を探す。父親のこと、家のこと、そして渉の怪我のこと。不安な要素はたくさんあるだろうけれど、渉は「心配すんな」と念を押した。

 直後、インターホンが鳴り響いて親友同士は顔を合わせる。うぅぅ……と、神永詠策えいさくが唸った。


「ただのいびき……睡眠薬盛ったから」

「どうする?」

「放っとけば帰るよ。渉じゃないんだから」


 そうは言っても、インターホンは二度三度と鳴った。渉は時間を見ようとスマホを取り出して、「え」と硬直した。画面を響弥に見せて、二人一緒に玄関へ向かう。磨りガラスの向こうに、小さな人影が立っていた。

『響弥くんの家でしょ』と、幼馴染からメッセージが届いていた。

 渉は怪我が見えないよう横向きに立ち、響弥にこくりと頷く。この姿で凛の前に出てもいいのか、響弥は一瞬ためらいを見せたが、頷き返して玄関の戸を開けた。

 首に青いマフラーを巻いた凛のまん丸い両目が、響弥を真正面から捉える。


「響弥くん……?」


 凛は、廊下の奥で背中を預ける渉を一瞥して、響弥の顔と交互に見た。やはり説明は必要か――


「こいつは茉結華で……話すと長くなるんだけど、」

「やっと――」


 と、凛は渉の言葉を遮り、響弥の――茉結華の手を、きゅっと指先で握った。


「やっと約束……果たせるんだ」


 約束。渉にその真意はわからなかった、けれど。

 センサーライトに照らされてちらりと見える親友の横顔。瞳の奥に、ぱちぱちと季節外れの花火が上がって見えた。


「遅くなって、ごめんね」


 冷え切って赤く色づいた鼻をすすって、凛はしかと響弥の手を握りこむ。

 響弥はぶるりと身震いしたあと、背中を丸めて嗚咽した。この瞬間、彼は本当の意味で救われたのだと、渉はそう強く感じた。




 凛を車で送り迎えした百合に相談して、ひとまず渉は病院で処置を受けた。響弥の父は眠ったまま救急車で搬送されて、響弥のことは事態が落ち着くまで望月家が預かることになった。

 クリスマス会は響弥と一緒に食事だけ済ませて、長いようで短いイブの夜は、こうして忙しなく過ぎていった。

 自室に響弥の布団を敷いて電気を消す際、渉は日付が変わっているのを目にする。


「誕生日おめでとう」


 響弥はきょとんとした顔で渉を見上げたが、渉はすぐさま顔を逸らしベッドに潜った。背中越しに、「あ……ありがとう」と呟きが聞こえる。

 十二月二十五日。今日は大事な親友の誕生日だ。

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