贖罪

 午前六時半のアラームで目を覚ますと、ベッドの隅に茉結華が頬杖をついていた。彼はにゅふふ、と目を細めて「おはよぉ」と甘えた声を出す。渉は寝癖だらけの頭を掻いて起床した。


「おう……早起きだな」

「今日は始業式だよ、渉くん」


 本格的に響弥の居候がはじまって早二週間。彼は渉の部屋ではなく、出張中の父の空き部屋を借りている。互いに部屋に入ってはともに過ごしているが、この日は朝から侵入して渉が起きるまで見守っていたようだ。何をそんなに浮かれているのやら。

 親友の髪は白く、目つきは勇ましく吊り上がっていた。この状態の響弥は茉結華寄りだと、渉は自己判断している。口調はくん付けと呼び捨てが交差したり、一人称も俺と私が混ざったりと今でも安定しないままだが、そのままでいい。渉も響弥だったり茉結華だったりと、自然と彼に合わせて呼び方を変えている。


 そんな茉結華と、この日はじめて登校した。黒染めもワックスもせず、イヤーカフだけ耳に付けて、彼は制服に腕を通す。表門の前で足を止めた茉結華はわずかに緊張した面持ちで校舎を見上げた。


「無理しなくていいんだぞ」


 茉結華は、ふふっと笑って、


「大丈夫だよ。私も茉結華を……殺したくないから」


 この二週間で彼に、どうして毎日染めていたのか訊いたことがあった。どうして一日分しか染めないのか、という質問だ。

 茉結華は脱衣所の鏡を見つめながら、「毎日大変だったから」と薄く笑って答えた。つらい目に遭うのは響弥ではなく、茉結華の役割だった、と。

 響弥である自分も、茉結華である自分も、どちらも『殺したくない』から毎日『息をしていた』。たとえそれが演じ分けでしかなくても、そのルーティンのおかげで彼の精神は正常でいられたのだ。


 一月七日の始業式を境にして、キザキは響弥に絡まなくなった。茉結華として登校した彼を見て、キザキはやっぱりかと納得したようだ。ようやく謎解きが終わってどこか満足そうな、タネ明かしを食らって少し不服そうな、どちらとも取れる反応だった。彼は自分よりも強い奴を暴きたかっただけなのだと今ならわかる。


 茉結華の姿で学校に行ったのは、裁判上の戦略でもあった。多くの人に素の自分を見てもらうこと。虐待の事実を認めてもらうことだ。

 父親を監禁したのは二十四日の一日だけだったと、病院の検査で判明している。衝動的な反抗心だったと響弥は罪を認めていた。その行いには情状酌量の余地が十分あると百合が手堅く弁護して――彼女の手腕も相まって、響弥に対する長年のネグレクトは有罪判決が認められた。


 神永家の様子を定期的に見ていたという風田かぜた慈朗じろうは、警察官を辞職した。これまでの罪を告白する、と電話越しの響弥に言って、それ以来連絡は取れていない。

 テレビでの報道はされていないが、その同時期に『元警察官による自殺偽装!』という見出しで並ぶ週刊誌をコンビニで見かけた。彼もきっと、正統な罰を受けて罪を償っているのだろう。


 響弥の弁護側には一年D組の担任、大越おおごし先生が呼ばれた。その空白を埋める教員には、生物学教師の笠部かさべも含まれていて――

 生物の授業はつまらないと不評であったが、普段の笠部は温厚かつ物知りで雑学好きである。これが意外と一年生の間で評判となり、大越の代わりに笠部は頻繁にD組へ顔を出すようになった。

 見事にずれていった彼の日程、そのおかげか。笠部淳一じゅんいちは、のちの休職の原因となる交通事故そのものを起こさなかった。

 彼は不審な雑誌記者と知り合うこともなく、うつ病を悪化させることもなく、彼なりの人生を歩んでいる。病気のことも奥さんとのことも、渉が手を加えずとも、少しずついい方向に回復しつつあるようだ。


 何事もない日々。だが毎日どこかで事件が起きている。

 二月、若い女の自殺未遂が報じられた。浴室で倒れているところを叔父が発見し、その後叔父による性的虐待を受けていたことが警察の調べでわかった。稗苗ひえなえという、珍しい苗字であった。

 三月には秋葉原で傷害事件が発生した。若い男同士のいざこざである。被害者の男は血まみれであったが命に別状はなく、一方的な暴力と恐喝罪で戸川とがわという男が現行犯逮捕された。


 新元号が発表された四月、茉結華は学校に馴染みつつあった。響弥でもあり茉結華でもある状態で、彼は口調も雰囲気もその都度ころころと変わった。それは神永響弥として、肩の力を抜いて楽に振る舞っている証だった。

 その髪色はどうしたの? 地毛なの? いつから虐待されていたの? そういった生徒たちのセンシティブな質問に、すべて正直に答えていた。

 茉結華が淡々と答える横で、渉は彼らを追い払うのに必死であった。茉結華に……親友に、決して無理はしてほしくなかった。


 登下校も休み時間も授業の間も、二人はいつも一緒。渉は彼のボディガードとして野次馬たちを追っ払った。茉結華は「わあ、過保護ぉ」と間延びして、満更でもなさそうに笑っていた。

 彼のことを面白く思わない生徒もいた、教師もいた。面倒事を嫌う教師は茉結華と関わることを避けたがっただろう。だが茉結華は、持ち前の運動神経と頭脳で彼らを唸らせた。もともと抑えていただけのこと。本領発揮する神永響弥に、クラスメートは体育館でも教室でも痛快に手を叩いた。


 春休みには百合に連れられて、関西のとある病院を訪ねた。響弥の叔母にあたる人、神永詩子ともこの入院先である。行きたい、一度でいいから会いたいと言い出したのは響弥のほうからだった。


「やっぱり染めたほうがよかったかな……」


 病院のスタッフに案内される途中で、響弥は自分の白い髪を撫でた。

「そのままで、ありのままの響弥くんでいればいいよ」と、渉の隣で幼馴染が頷く。響弥は不安げに照れ笑いを浮かべた。

 神永詩子はリハビリルームの窓際の隅で、車椅子に座って外を眺めていた。彼女は幼い頃の響弥と同じように、暴力と罵詈雑言の日々に身体を壊し、心を病み、今でも入院を続けている。歩行障害、言語障害、その他の意識障害を患っている。話しかけても反応されないかもしれませんと、介護スタッフは念押しした。

 響弥はふうと深呼吸して、彼女の前に膝をついた。目の高さを合わせるが、その視線は交差しない。白髪混じりの横顔は窓の外の小鳥を見つめている。


「詩子さん」


 声をかけると、ふわりと瞬きを一度して、彼女は響弥を見た。後ろで見守る渉の心臓が、脈打つ速度を上げる。

 詩子と響弥の視線が交差する。スタッフはその場で息を呑んでいた。そして、


「響弥ぁ……大きくなったねぇ……」


 しわの刻まれたくしゃくしゃの笑みで、詩子は響弥の頬を撫でた。

 響弥はこくり、唇を噛みしめて頷く。スタッフは思わず口元に手を当てていた。凛は安堵の息を吐いて、「よかったね」と小声で渉に呟いた。百合は渉にハンカチを差し出し、渉はありがたくそれを受け取った。




 待ちに待った春の始業式がやってきた。各教室の廊下に貼り出されたクラス表を見て、渉は目を疑う。

 渉のクラスは――二年D組。響弥と同じクラスだった。

 凛はC組、千里はB組に振り分けられている。D組の担任は一年時と変わらず大越先生だ。


(俺の知っている未来と違う……)


 いや、今までも知らないことだらけだった。『記憶』と同じだったことなど一度もない。むしろ違っていてくれたほうがこの場合いいのだろうか……? 素直に喜べないこの不安と落胆は、凛と別クラスになったことが要因かもしれないが。


(繰り返しのチカラは、今もあるんだろうか)


 渉の意思とは関係なく二年E組の生徒でなくなった今、はたして死によって時を繰り返すチカラは健在なのだろうか。渉は体育館で開かれた始業式の間も、教室でホームルームをしている最中も、ぼうっと考えを巡らせた。

 答えを教えてくれる人はいない。芽亜凛はもう、今までの記憶を失って、普通の高校生に戻ったのだから。


「じゃあ俺先に行くね」


 帰りのホームルームを終えたあと、白い髪の親友は渉にそう告げていそいそと教室を出ていった。百合との契約書やその書類云々で、学校が終わったらすぐに合流するよう呼び出されているのだった。渉は買い出しを済ませて帰る気だったため、今日は早急に別行動である。


(まあ、あんまり構うのも響弥のためにならないよな……)


 健やかに独り立ちしていく親友に寂しさを抱きつつ、渉は生徒玄関を一人で出た。凛は早速C組のクラス委員に立候補したようで、放課後の会議に出るそうだ。

 知らない生徒と同じクラスになるのは新鮮なものだが、もとのE組には戻れない。渉だけみんなより多くクラス替えをした気分である。心に穴が空いたような、もどかしい気分。


(――またか)


 と、渉は横断歩道の前で足を止めた。

 ――誰かに、見られている。

 登校したときも感じた妙な視線だ。響弥を狙ったパパラッチによる視線と疑ったが、どうやら違うらしい。渉は歩道橋の階段を上って、周囲を見渡した。

 ――カメラマンや雑誌記者……怪しい人影はない、か。

 響弥ではなく渉に用があるストーカー? それとも単なる気のせいか。


 もと来た道を帰ろうと踵を返したその矢先、ゴッ、と。頭に強い衝撃を受けて、渉はその場に倒れこんだ。意識が飛びかけるほどの痛みに悶えながら、精一杯目を開く。河原に転がっていそうな大きな丸い石を持って、黒い人影が立っていた。

 真っ赤な両目を剥いて渉を見下ろす、神永詠策が、もう一度凶器を振り上げる。

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