藤ヶ咲

『今すぐ来い。来なかったらガキを殺す』


 通話が切れたあとも響弥はスマホを耳にしたまま動けなかった。車を運転する百合が「どうした」と横目で窺うが、目の前に霧がかかったようにその声も掴めない。

 ――今の……電話は……。

 恐る恐る画面を見ると、表示されているのはやはり親友の名前だった。渉の電話だと思ったのだから当然である。名前の下には、GPSによる発信元が書かれていた。


 間違いなく渉のスマホからかけられた――しかし聞こえてきた声は、数カ月ぶりに耳にした育ての父のものであった。たとえ繋がったのが数秒であっても、響弥の脳内にはぱちりと鮮明に電流が走った。

 渉が危ない。それだけが頭を支配して冷静さを欠く前に、響弥はスマホ画面を百合に見せる。「ここに向かってください」百合の鋭い眼光が上目遣いで響弥を射抜くが、勘繰られぬよう顔を背ける。


 百合は黙ったまま、弁護士事務所に向かう途中のナビゲーションを先ほどの住所で上書きした。案内を開始します、と機械的な音声が車内に響く。

 どんな運命のいたずらか。その場所はかつて響弥が立てこもり、自ら命を絶った都内の廃工場であった。


 響弥はドアミラーに反射する自分まゆかの姿を一瞥する。茉結華ならこうする、茉結華ならこう言う、神永響弥ならこうするべきだ――と、己を縛り付けてきた声は聞こえてこない。

 自分は自分だ。茉結華の姿をしていても、神永響弥本人だ。渉がそれでいいと言ってくれたように、響弥はずっと迷子だった自分自身を取り戻せた。

 ――これからは一人で戦うんだ。痛みも苦しみも、茉結華に頼らず。全部俺自身のものとして受け止める。


 百合が近道を選んでくれたおかげで、目的地には十分ほどで到着した。「五分で戻ってこい」と、百合は見透かした目で言いつける。響弥は頷けずに、停車した車を一人で降りた。

 鍵の壊れた金網から敷地内に侵入する。靴裏がじゃりっと砂と擦れて、地を踏む足音がやけに大きく聞こえた。

 あちこち割れた窓ガラス、ツタに侵食されたコンクリートの壁。どこが正規の入口なのかもわからない寂れた建物がぐんぐん近づいてくる。スプレーで落書きされた看板を横切って、響弥はべこべこに歪んだシャッターをくぐった。


「……お父さん」


 薄明かり射しこむ工場で待っていたのは、とっくに逮捕されたはずの父だった。横倒しのドラム缶に腰を下ろし、薄茶色の麻縄を片手に絡めている。交差した縄の先は――額から血を流してコンクリートの地面に横たわる渉の首にかかっていた。ひと目で状況を理解すると、心臓だけ別の生き物になったみたいにどくどく、どくどくと、響弥の指先にまで鼓動を伝える。

 父、詠策はボサボサの短髪を掻き上げて貧乏揺すりした。


「言うことがあるんじゃねえのか、あ?」

「……」


 痰の絡んだしわがれた声が息子を制しようと威圧する。

 見開かれた響弥の瞳は、父の握る縄に注がれていた。手放したはずの殺意が己を引きずりこもうと、ずるずると足元から這い上がっていくのがわかる。

 響弥は、視界が赤く染まる前に瞳を閉じて、かくんと膝を折った。


「……ごめんなさい」


 両手を床につけて跪き、頭を垂れる。


「親友を……返してください。俺はどうなってもいいから……どうか親友だけは、奪わないでください」


 凪いだ声が震える。いつもこうやって謝ってきた。父の前で正座して、そのままでいろと言われれば何時間でも姿勢を保った。暴力と罵声による支配は響弥の心身から自由を奪い、時間を奪い、感情を抑制した。

 ――でも、渉だけは……。親友だけは、奪わせない。

 響弥を守るのは茉結華だった。だけど傷だらけの茉結華を守ってくれたのは渉だった。彼は、誰にも必要とされなかった響弥を求めて変えてくれた。自由を教えてくれた。……大事な親友なんだ。たとえ『恐怖』が相手だろうと、響弥はもうくじけたりしない。

 春一番の生ぬるい風が頬を撫でたかと思いきや、父の靴裏がボールを転がすみたいに響弥の頭を踏みにじった。


「ここまで育ててやったのに、お前を拾ってやったのに! その結果がこれか、あ? 恩を返す気はねえのかよ、なあ! ここまで食わせてやったのは誰だ? お前一人じゃ死んでただろうがよぉ! おい、聞いてんのかよ!」


 ガッ、ガッと詠策は響弥の頭上で地団駄を踏む。白い髪がぐしゃぐしゃに乱れて、冷たい土汚れに埋もれていっても響弥は地面から離れなかった。

 額が削れてぽたぽたと鼻血が垂れても、逆流する血で頭が痛んでも。たった一人の親友を守るために、自分自身と戦い続ける。

 ひときわ大きな舌打ちをして詠策は足を持ち上げた。響弥を踏み潰そうと殺意を宿すその足が、息子に届くことはなかった。代わりに響弥に降り注いだのは、「ぐっ、ぎっ」といった詠策の呻き声。


「――神永詠策だな。移送班が血眼になってお前を探している。大人しくしろ!」


 現れたもうひとつの気配を響弥はようやく肌で感じた。壁に押し付けられた父の歪んだ横顔……その背後で手錠をかける一人の刑事の姿を見て響弥は呆然とした。

 彼は詠策を取り押さえると、ちらりと響弥を見て片笑んだ。


「よく我慢した」




 刑事、長海ながみ十護とうごは救急と応援を呼んだ。警察に連れて行かれるさなか、詠策は藻掻き苦しむように首を回した。


「なんでだよツクル! なんで俺を置いて行くんだよぉ!」


 枯れた声で彼は泣き叫んだ。渉と一緒に救急車へ乗りこむ響弥のほうなど気にも留めず、己を巣食う亡霊の名をただ念仏のように唱えていた。


    * * *


 日が暮れた病室のベッドに背中を預けながらの、渉の聴取が終わる。頭の怪我は軽い損傷で済み、大事には至らないとのことだ。二、三日様子見すれば家に帰れると聞かされた。

 長海刑事……どうしてあの場に彼が現れたのか、渉はその理由を尋ねた。


「俺の携帯に留守電が入っていてね。血まみれの学生を引きずった怪しい男がこの建物に入っていくのを見たと。その近くで移送中の受刑者が逃げ出したという知らせも入っていたからね、盗まれた車も発見されたよ」

「……百合姉じゃないんですよね……?」

「電話のことかい? ああ、彼女とは違う。妙に落ち着いた女の子の声で……。すまない、俺には思い当たる人物がいないんだ」


 長海は首を振って苦笑した。刑事個人の番号を知るのは限られた人物である。どう考えても長海が関わったことのある女性に違いない。しかし渉の頭の片隅で疼いたのは、彼に貰った名刺を見て電話をかける自分の姿だった。そして、その隣で番号を見ていた……――

 いやいや、まさかそんな偶然、あるわけない。そもそも芽亜凛の記憶はなくなったはずだ。渉のことを憶えているわけがないし、長海に電話をかけたのはまったくの別人のはず……。


「……もうひとつだけいいですか。移送中の逃走は、何時頃のことですか?」

「十一時半頃と聞いているよ。お昼前だね」


 ――詠策じゃない。

 登下校中に感じた視線は響弥の父によるものではない。朝と昼……登校時と始業式後。藤北の日程を知っている者、もしくは藤北と同じ日程の――他校の生徒によるもの……。

 思考する渉の横で、椅子に座る響弥が疲れ切った瞼を持ち上げた。


「あの……風田さんは元気ですか……?」


 長海は静かに響弥を見据えて、「うん」と。同じ痛みを負った者に向ける優しい笑みで答えた。


「きみのことをずっと、気にかけていたよ。会いたいと、彼もそう思っている」




 その半月後の、四月下旬。渉は百井姉妹同伴のもと、藤ヶ咲ふじがさき市の観光名所を訪れた。藤ヶ咲という名に相応しい藤の花々が見られる自然公園。毎年この時期になると多くの観光客で賑わう花見の名所である。

 凛は渉と響弥を置いてきゃっきゃとはしゃぎ回り、陽の光に透ける藤棚の下で「わあ」と息を呑んだ。白、ピンク、紫。品種によって異なる藤の花が、遠目でもわかるグラデーションを作り上げている。


 ――姉貴も来ればよかったのに……。

 凛は果奈にももちろん声をかけたが、「四人で行ってきて」と断られたそうだ。「百合ちゃんまだヌギのこと認めてないし……」と苦笑いを浮かべていたようで。どうせ恋人のヌギ先輩と後日二人で行く気だろう。

 嘆息を心に留めて、渉は藤棚を下から撮る幼馴染に歩み寄った。


「もうクラスには馴染んだか? C組だろ?」


 凛は写真を確認しながら相槌を打つ。


「落ち着いてるよ。女子も男子も大人しい子ばっかりだし」

「あ、そう……」


 新しい友達はできたかという意味であったが、この様子では大して仲のいい子はいないようだ。かくいう渉も新学期早々に休んでしまったため、クラスに馴染みきれていないのが現状である。まあ、響弥がいるだけで渉の学校生活は安定が保証されているようなものだが。

 清らかで儚げな淡紫の景色を見上げて、渉は転校生に思いを馳せた。

 渉のいたE組で芽亜凛の話が広まったのは四月である。当時の渉は聞きそびれていたが、E組のみんなは把握していた。

 しかしD組となった今、響弥に聞いても転校生の話は出てこない。A組はないとして、B組の千里に聞いても同じだった。残るは二択……。


「凛のクラスってさ、今年……転校生が来たりする?」

「え、何それ」


 弾かれたように凛は反射的に首をもたげる。


「そんな話聞いてないよ?」

「じゃあE組か……」


 また、彼女の転入先は二年E組……。

 だとしても心配はいらない。記憶とクラスが同じというだけのことだ。呪い人は起こらないし、仮にチカラを与えられた生徒が紛れていても、持ち主がそれに気づくことはない。死ななきゃこのチカラの存在は自覚できないのだ。健全な高校生が死に触れることなんて――


「いや、E組でもないと思うよ? 他クラスでもサポートするように言われるだろうし、でも何も聞かされてないよ。職員室でも委員会でも、転校生の話なんて……聞いてないなあ」


 凛はきっぱりと否定した。芽亜凛が転校してくる未来そのものを。

 春の陽気によるものではない唐突な冷や汗が渉の背中をつっと伝う。

 万が一、億が一にでも、芽亜凛に記憶が残っていたら……もしくは渉が悪夢によって記憶を宿したように、彼女も経験をのなら……。

 芽亜凛が転校してこない未来も、あり得るのではないか。

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