退屈しない日々

 凛の話は本当だった。二年E組の担任、石橋先生に渉は後日探りを入れたが、転校生の話題もその予定もないと一蹴されてしまった。

 四月が終わっても聞かない転校生の話、渉を見守る不審な視線、長海刑事への個人電話。すべてを芽亜凛に結びつけるのは無理がある、だが渉の直感はざわついた。

 ――橘芽亜凛は転校してこない。


 どうして。彼女にいったい何があったのか、どんな心境の変化があったのか。クリスマスの夜を起点に、因果はそこまで変わってしまったのか。

 渉の知っている記憶とは何もかもが違っている。笠部先生の事故回避、二年生になっても在籍しているキザキ、ばらばらになったE組の生徒たち、予測不能のクラス分け。

 そして、転校してこない橘芽亜凛……。


 渉は中間テストが終わったある日、思い切って彼女の通う日龍高校を訪ねることにした。「会わせたい子がいる」と響弥に言って、彼を連れて校門前で待ち伏せする。テスト期間はどの学校も大抵同じ日程で行われるため、今日は日龍も早帰りだ。


「日龍だったら部活してるんじゃね?」


 と、白い毛先を指で摘みながら響弥はもっともらしい意見をする。


「日龍の帰宅部ってみんなジム通いって聞くし、暇な俺らとは違うんだよ」

「ジムには通ってない」

「じゃあ部活じゃん」


 えーっ日が暮れちまうよぉ、と響弥は唇を尖らせた。芽亜凛は水泳部で、ジムやスポーツクラブには通っていない。ということは今頃屋内プールで練習中である。部活時間まで考慮していなかったのは渉のミスだ。


(マジか……部活中かよ)


「お腹空いたし……」とぶつぶついじける響弥の横で諦めかけたそのとき。

 緑色のブレザーを着た生徒がちらほらと通り過ぎていくなか、あの上品な佇まいが渉の視界に入った。


「いた……!」


 まっすぐ伸びた長い髪を翻し、生徒玄関を出る芽亜凛の姿を真正面に捉えた。風に靡く絹の髪を手で払い、胸元の赤いリボンを揺らしてこつこつと規則正しく踵を鳴らす少女、橘芽亜凛。

 彼女が表門を跨いだ瞬間、渉は「ぉ、あの!」と声に出した。芽亜凛はこちらを見ずに動きを止める。


「……橘、だよな? お、お前ずっと……いや、なんでもない」

「何の用ですか」


 抑揚のない無機質な声が返ってくる。受け答えしてくれることにひとまずほっとして、渉は背後で縮こまっている響弥の肩を叩いた。


「約束を果たしに来たんだよ」


 ぴくりと、芽亜凛の睫毛が微震する。響弥はちらりと芽亜凛を窺ったが、慌てて渉の後ろに隠れた。

 さっきまでふにゃふにゃとあくびをしていた彼は、芽亜凛が歩いてきた途端、渉の背後に隠れて小さくなっていた。響弥が人見知りをするとは珍しい。

 芽亜凛は、はあ……と息を吐いて鞄をかけ直す。


「もういいですか――」

「みんな元気だ」


 渉は突拍子もなく言って、帰ろうと背を向けた芽亜凛を止める。


「凛もちーちゃんも、みんな元気だ。凛はC組、俺たちはD組にいる。ちーちゃんはB組だけど、特進クラスの小坂と仲良くやってるそうだ」

「…………」

「藤北に来ないのかよ。お前はそれでいいのか?」


 もし、転校することで悲劇が起きると思いこんでいるのなら、払拭してやりたい。もう大丈夫だと。何も心配はいらないと、胸を張って言いたい。

 芽亜凛は少し振り向いて、開きかけた口をきゅっと噛みしめた。物言いたげな横顔を逸らして、日龍高校から去っていく。

 彼女は……渉の知っている芽亜凛そのものだった。どこまで憶えているのか、なぜ憶えているのかはわからない。時間軸を巻き戻る際、芽亜凛の魂も一緒に移動したのか、十二月ではなく四月に思い出したのか。詳細は不明のままだ。


「響弥、あの子のことどう思った」

「……へ?」


 渉は、今も背後で縮こまる響弥に問いかける。


「可愛いと思っただろ」

「うん……びっくりした」

「男ならちゃんと言えよ? 俺はもう気持ち伝えたから」


 響弥はぽかんと一時停止したのち、「えっ――?」と思わず目を見開き、はっと悟ったように息を吸った。

 この日響弥ははじめて知った。いつの間にか親友が、その幼馴染と春を迎えていたことを。彼の驚きと歓声が、天色の空に響いた。


    * * *


 橘芽亜凛の転入日、六月三日になっても彼女は藤北に来なかった。寂しいような、名残惜しいような、複雑な心情が絡み合う。

 渉はあれ以来、彼女と会っていない。彼女が藤北に来たくないのなら無理強いしないし、彼女が決めたことなら仕方ないと思っている。

 芽亜凛のいない六月は梅雨の雨とともに続いた。一週間経っても日本全国を雨雲が覆って、毎日アスファルトの地面を濡らしている。


 渉の座席は廊下から二列目の最後尾で、その隣が響弥の席だ。後ろから入ってすぐに着席できる場所。見た目でよく目立つ響弥への配慮だろう。

 響弥の髪は、つい最近になって根本から色が戻ってきた。はじめて目にする、響弥のもとの髪色。どこまで治るかわからないと言われていたネグレクトの後遺症は、回復の兆しを見せている。


 とっくに梅雨嫌いを克服した渉は、かつての窓際の席を今さらながら惜しく思った。まあ、毎日違う景色に振り回されて退屈しないが。

 隣の教室から、凛が弁当を届けにやってくる。渉と響弥、二人分の包みを渡して彼女は「えへへ」と得意げに笑った。


「朝からご機嫌だな」

「わかるー? 響弥くんも聞きたい?」

「うん、聞きたい」


 男子二人の前でふふんと鼻を鳴らして、凛は言った。


「今日、私のクラスに転校生が来るんだよ。えへへ、いいでしょぉ」


 うきうきと両手を合わせて凛は隠しきれない笑みを浮かべる。「マジで?」と響弥は瞠目し「いいなぁ」とため息をついた。

 ――まさか、その転校生って。


「その子……美人だったりする?」

「うん、そうらしいよ。なんだ渉くん知ってたの」

「いや、まあ……」


 美人でこの時期に転校してくる少女は一人しか思い当たらない。

 渉は、自分が作って響弥が詰めこんだ弁当を彼女に渡した。


「よかったな、仲良くなれそうじゃん」

「まだわかんないけどね」

「凛なら平気だよ」

「だといいな……」


 はにかむ凛に、渉は「絶対大丈夫」と頷いた。幼馴染を包む照れくさい雰囲気を前に「い、イチャイチャするなー!」と響弥が顔を赤らめた。


 きっとその転校生は、最初から凛が好きで、凛と波長が合い、凛と気が合う。C組でも、E組でも、どのクラスだろうと。


 彼女に会ったら教えてやりたい。今までのこと、ここに至るまでの道のりを。

 紹介したい親友がいる。紹介したい恋人がいる。話したいことがたくさんあるんだ。




 今日もどこかで誰かと誰かが出会う。学年の転校生、職場の仲間、相棒の刑事。

 まだ梅雨ははじまったばかり。転校生と過ごす、長く儚い高校生活が幕を開ける。

 誰にも予測できない日々が待っている。

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