いつもありがとう

「よいしょっと」


 廊下を曲がってすぐにあるリビングの引き戸を、茉結華は素足で器用に開けた。

 広すぎず狭すぎずのリビングは明るい。手前には木質のダイニングテーブルがあり、その周りを四つの椅子が囲っている。奥にあるのは大型液晶テレビ。辺りにはゲーム機とコントローラー、積み重なった大量の空き箱と、男物の洗濯物が乱雑に放られている。


 茉結華がリビングに足を踏み入れると、席でスマホを触っていた――エプロン姿の若い女性が振り向いた。こちらを二度見した彼女の横を、茉結華は素知らぬ顔で通り過ぎる。

「茉結華くん? 何か持ってる?」と、彼女は茉結華を目で追いながら、見た目相応の若々しいよく通る声を発した。茉結華は珠暖簾をくぐって答える。


「うん、ゲロ」

「えっ!?」


 ガタンと椅子の動く音を耳にしながら茉結華はシンクの前に立つ。シングルレバーのハンドルを肘で上げて、他人の吐瀉物を洗い流している点を除けば極自然な手洗いをする。


「え……だ、大丈夫? も、もしかして体調悪いの? おおお、お腹痛いとか?」


 同じようにシンク前に来た彼女が心配そうな声を上げた。横から覗き見ようとするその顔には目をやらないで、茉結華は「あはは」と笑い飛ばす。


「そういうのじゃないけど――あ、トワちゃんこれ押してくれる?」


 ハンドソープの前に手のひらを出して言うと、トワと呼ばれた女性はすぐさまポンプを押した。一回、二回と泡が出た後、茉結華は手を引っ込める。


「ええっと、消毒液はー……」

「左下の棚のなか」


 茉結華が教えると、トワはシンク下の棚を開けてアルコール消毒液を取り出した。そして私がかけてあげますと言わんばかりに隣で構える。

 気合十分な素振りをされても茉結華が急ぐことはない。指の間と手首までマイペースに洗い終えてから消毒液をかけてもらう。台所で行われる二人のやり取りは、まるで手術中の医師と助手のように役割分担されていた。


「お昼ご飯……何がいいかなーって訊こうとしててね。お、お粥にする?」


 現在時刻はちょうど昼手前。昨日に続いて、今日は二日目の休校だ。

 茉結華は天を仰いで思案する素振りを見せる。取り分けお腹は空いていないのだけれど、作ってもらえるのはありがたいので。


「お粥かー。じゃあお願いしてもいい?」

「うん!」


 トワは元気よく返事をすると、手首に付けていたシュシュを取り、長い髪をポニーテールにまとめた。常温保存されたレトルトご飯を戸棚から一食分取り出して、すぐさま支度に取り掛かる。茉結華の家では米はレトルトが常なのだ。


「ええっと、ご飯温めて……となると、十五分ちょっとでできるかな」


 パックの蓋を少し開けて、電子レンジに入れる。

 トワは、茉結華の身辺をサポートしてくれる女性である。時折こうして家にやってきては、弁当や食品、日用品などの買い出しと補充を行う。時間があるときはこうして手料理を振る舞うなどして、男しかいないこの家に、心地いい風を通してくれるのだ。


「何か混ぜたいものってある? 梅干しは……茉結華くん苦手だよね?」


 冷蔵庫を開けてトワが尋ねる。酸味より甘味のほうが遥かに好きというだけで別に苦手ではないが、茉結華は特に異論を述べることなく、


「んー、てかたぶんないよね?」

「……、ないね!」


 普段からコンビニ弁当やレトルト食品で腹を満たしているため、冷蔵庫のなかは極端に物が少ないのだ。

 食材のなさを確認し合い、トワは生卵をひとつ手にして茉結華に見せる。


「卵粥にしよっか?」

「賛成ー!」


 茉結華が万歳すると同時に、電子レンジが加熱終了をお知らせする。「あっ」と気づいたトワが開けようと手を伸ばすが、茉結華はそれよりも速く動いて取っ手に触れた。茉結華の手の甲に遅れて当たったトワの指先がビクンと弾む。


「出すよ、熱いでしょ」


 そう言って茉結華が微笑めば、トワは意表を突かれたように瞬時に顔を紅潮させた。伸ばした手を慌てて引いて「じゃ、じゃあ、このなかに!」と鍋を取り出し、コンロの上に設置する。茉結華がパックの中身を掻き出している間も、トワは両手を組んでモジモジしていた。

 鍋に白米を入れた後、そのおよそ二倍になる量の水を入れて火にかける。


「ほかに手伝えることある?」

「ええっと……白だしがあったら嬉しいな」

「白だし……」


 そんな調味料が自分の家にあるはずもなく、トワの言葉も希望的観測だろう。代わりになるものはないかと周囲を見渡し、茉結華は閃いた。


「鰹節ならある!」


 上の棚を開いて、鰹節の袋を掲げて見せる。


 ――正直、『答え』なんてどうだっていい。

 それが役立つか否かも、彼女が承諾するかどうかも。茉結華にとって『答え』というのはどうでもいいものだ。

 ――これはコミュニケーション。

 彼女の心を自分に縛っておくための、ただのスキンシップだ。


「じゃあ……味付けはそれと、塩とお醤油でするね」


 トワの答えは『応』だったようだ。何にしても、自分のために考案して懸命に手伝う男の子を、彼女が否定することはないだろう。たとえこちらがいい加減なことを提示しようと、相手はそれを『正解』に変えてくれる。だから茉結華が『答え』を考える必要はない。

 茉結華は鰹節の袋を置くと、意味もなく彼女の顔を見てニコリと笑った。トワは喉をコクリと上下させて頬を染める。


 茉結華は知っている。――彼女が自分に夢中であることも、自分に惚れていることも。そうなるように仕立て上げたのだから、事実だ。

 しかし茉結華は、『自分が言えば付いてくる、自分が言えばうんと答える、否定をせず肯定だけをし続ける』緩いだけの人間に興味はない。

 彼がトワを選び、こうなるように仕上げたのには理由がある。


「じ、実はね……電話――かけるところ見ててほしくて」


 不意にトワはそう言って、エプロンのポケットから携帯電話を取り出した。それは先ほど触っていたスマホとは異なる、シンプルで色合いも淡い――ガラパゴス携帯。

 察した茉結華が頷くと、トワは嬉しそうに頷き返した。

「じゃあ、かけるね」と言って咳払いをひとつして電話番号を入力する。コールがかかり、相手が先に応じて身分を明かした。トワも言葉を返す。


「あ、もしもしー? あのー、そちらののぉですねぇ――」


 彼女の口から漏れたのは、酷くしわがれた声だった。


「最近テレビでやってた不審物のニュース、ありますよねぇ? それと少年少女行方不明事件。それがぁ学校にまつわる呪いのせいって話をー、聞きましてですねぇ」


 数秒前とはまるで違う、癖のある口調と、若々しさの死んだ声。隣で聞いている茉結華はつい笑みをこぼした。

 その変貌ぶりはまるでプロの声優――だがこれは台本もないただの電話。そして彼女はプロでもなければ声優でもない、ただの大学生。


「……今日発刊されたオカルト雑誌に載せられてるんですよ、ええ、ええ……ムイチです、。聞いたことあるでしょう?」


 いたずら電話とでも思ったのか、噂の出どころを聞き返した学校に、トワは確かな情報源を口にした。別人のような声で話をしながら鍋の具合を確認する。そんな彼女の横顔を、茉結華は満足げに見つめた。


「雑誌にはね、お宅の学校の事件の詳細まできちんと書いてあるんですよぉ。お祓いは済ませてあるんですかねぇ? それとその呪われたクラス、今も残されているんでしょう? 学校は事態を軽視しているんですか?」


 責め立てるトワの語調とシンクロするかのように、鍋がグツグツと煮えたぎる。


(さすがだなあ、トワちゃん)


 何かに取り憑かれたかのような演技。これこそがトワの真髄。茉結華が彼女をそばに置きたいと思った理由のひとつである。

 電話越しのクレーマーがまさか優雅に料理をしているなんて、学校側は思っていないだろう。二十代の女性が相手だとも思わない。


「……ええ、……はい、頼みましたからね? よろしくお願いしますよ?」


 トワは最後まで強い口調を保ち、電話を切った。

 顔を上げてこちらを見ると、「こ、こんなんでよかった……?」と確認を仰ぐ。茉結華はパチパチと拍手を送った。


「うん、すごいよトワちゃん! 思わず見入っちゃった!」

「そ、それほどでも……」


 トワは照れ臭そうに頬を緩める。ここまで見事なものを見せつけられると、茉結華とて清々しい気分になった。


「でも、その携帯ってさ――?」


 茉結華は眉尻をやや下げて、心配そうに尋ねた。トワは「あ、これ?」と言って、得意げにガラケーを振る。


「大丈夫大丈夫。バイト先の、ムカつくおばさんのやつだから」

「そ……そっか」

「うん、何かあったらあのおばさんのせいだし……? この後適当に返しておくから、工作はばっちり」


 携帯電話をしまうトワの横で、茉結華は神妙な顔を作り、「――ごめんね」と呟いた。


「トワちゃんに、盗みまで……させちゃって」


 大層申し訳なさそうに顔をしかめる少年の謝罪に、トワは目を白黒させる。


「う、ううん、何言ってるの! 茉結華くんのためだもん――私なんでもするよ?」

「……トワちゃん……」

「それにまだまだこれから、やることいっぱいあるし。あっ、訛りの勉強もしたんだよ? 心配しないで」


 そこまで言って、トワは鍋の具合へと顔を戻す。ポニーテールにしたことで見えてしまっている彼女の首筋には、叔父から受けたタバコの火による火傷の跡がいくつも残っている。


「私にはさ、これくらいしか……茉結華くんにしてあげられること――」

「トワちゃん」


 茉結華は彼女の言葉を遮り、スプーンを持つ手を上から握った。トワは驚き動きを止める。恐る恐る見た茉結華の顔は真剣そうで、そして目が合うと優しい笑みへと転じた。


「いつもありがとう」


 低い声で囁くように告げて、トワの手の甲を親指ですっと撫でる。たちまちのうちに茹で上がったトワの赤面から目を離し、茉結華はキッチンを後にする。もう少しその顔を拝んでいたかったけれど、昼食を焦がされるのは本望ではない。

 茉結華はトレイを用意して椅子に腰掛けると、先刻トワの手を握った右の手のひらを見つめた。


響弥きょうやごめん、か……)


 それはリビングへ来る前のこと。

 あの部屋で渉は、昨夜から目覚めた形跡もなく、まだ畳の上で眠っていた。どうやら彼は薬への耐性が低いらしい。元より健康的に過ごしてきた身であるため、病気になることもなく、薬剤はあまり服用してこなかったのだろう。それ故に耐性が付いておらず、麻酔性のある芳香が効きすぎてしまうらしかった。

 眠っているならそっとしておこうとした矢先、渉がこんなことをぼやいた。


『ご、めん……響弥……ごめん……』


「…………」


 その寝言が、言葉が、煩わしくて――彼の首を絞めた。

 眠っているのだから気絶を促すための動脈を塞いでも意味はない。気道を塞ぎ、呼吸を止める。気道閉塞に必要な力はおよそ十五キログラム。血管を塞ぐことになるが致し方ない――

 そんなことを夢中で考えて、気づいた時には、彼の寝言は強いられた沈黙により消え失せていた。代わりに、唇の端から流れ出た唾液が顎まで伝っていて……。慌てて手を放すと、渉は咳き込むと同時に息を吹き返した。

 それが彼の目覚める数秒前に起きた出来事だ。


(全然違うな。手でも、首でも――渉くんの体温は熱くて、皮膚に沁みる)


 渉のもたらした肉の感触は図々しくも鮮明だ。ほかの誰かで上書きできるものではない。


「お待ち遠様」


 まもなくして、鍋つかみを手にはめたトワがリビングに戻ってきた。トワはテーブルに置かれたトレイを目にすると、「あ……部屋に持ってく?」と少し寂しそうな顔で言う。目の前で食べる姿を見たかったのか、けれども茉結華は無遠慮に「うん」と頷いた。


「男子高校生は忙しいのです!」

「もう、調子に乗らない」


 はぁーいと陽気な返事をしてやると、彼女の顔にも笑みが戻る。


「トワちゃんはこれからバイト?」

「うん、まだ時間あるけど、行ってこようかな」

「ちゃんと、返さないとだもんね」

「? あっ……う、うん、そうだねっ、先に行って置いてくるよ」


 トワは思い出したようにガラケーを取り出して振ってみせる。少し抜けている彼女の性格も茉結華はまた気に入っているが、念には念を入れ、忘れないようにと仄めかして正解だった。


「気をつけて行っておいでね。卵粥、すごくいい匂いでおいしそう」


 心に残りやすいように褒め言葉を最後に言い、茉結華は鍋の乗ったトレイを持ってリビングを出た。そうして、静かな廊下をペタペタと進み、突き当たりにある自室へと戻る。


(さーてと……渉くんはどうしてるかな)


 椅子と勉強机、参考書だらけの本棚、それと最近新調したばかりのベッドが存在感を放つ自身の部屋。床には片付け忘れた私物が多く転がり、茉結華は踏まないようにと器用にかわした。

 向かった先は何の変哲もない、クローゼットの前。扉を開けるとまず、ハンガーに掛かった季節外れの服が目に入る。それを大きく掻き分けると、現れたのはベージュ色でカモフラージュがされた引き戸。取っ手上部には電子錠が後付されている。


 一応、を警戒して身構えつつ、暗証番号を素早く打ち込む。カシャンとロックの外れる音がして、茉結華は引き戸をそっと開けた。

 開けた先にあるのは、自室の倍は広い、薄暗い一室。

 なかで監禁されているはずの少年は、部屋の奥の壁際にいた。壁をコンコンとノックして、なぜか音の変化を調べている。

 茉結華は含み笑いを浮かべて、背後からゆっくりと近付いた。

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