どうして人を殺す
壁のうちひとつの面は不自然だった。遠目で見るとただの白い壁、目を見張るものは何もない。しかし近くに寄って見てみると、その箇所だけ薄っすらと継ぎ接ぎがあるのがわかった。
渉はその壁を指先で撫でる。
(ここだけ上から塞いで、壁紙を貼ったような……となると、こっち側は廊下かもしくは別の部屋で繋がってたか)
壁を叩いてみても、ここだけ音がよく響く。柱が入っておらず、中身が空っぽなのだ。
(こんな改造一人じゃとてもできない。まさかルイスと……? いや、あの人じゃ無理だ)
茉結華も華奢っぽくはあるが、ルイスの細身は一目瞭然、動けない人間のそれである。
(父親も協力者なら三人で十分できるか。響弥の父親……どんな人だったっけ……)
茉結華は『お父さん』から技術を教わったと言っていた。おそらく格闘技や戦闘技術――殺しのすべまで全部である。そんな父親なら、茉結華の計画に加担していても不思議じゃない。
母親のいない響弥が、茉結華が――いったいどんな心境と経緯で、今まで過ごしてきたのか。
少なくとも茉結華の協力者は二人以上。彼自身を含めれば相手は三人になる。
(反対側にトイレとエアコンがあるってことは、元の出入り口はここだ。不意打ち……からの正面突破か、それともこの壁さえどうにかできれば――)
思考を巡らせて後ろを振り向き、「……っ」渉は咄嗟に息を呑んだ。
振り向いた先には茉結華が、こちらを見るのを今か今かと待っていたかのように、笑みを湛えて立っていた。
「い、いつから……そこに」
「いつから?」
食事を乗せたトレイを抱え、茉結華はゆっくりと首を傾げた。
「なーに渉くん、見られちゃまずいことでもしてたの?」
「……別に、何も」
「へえー、何も、ねえ?」
茉結華はトレイを床に置くと、両手を挙げて背伸びする。トレイには鍋が乗っていて、弁当以外という珍しさを醸し出していた。
大きく踏み出した茉結華に渉は身を縮める。
「なんだよ」
「確認しようと思って」
「は……?」
何を、と訊く前に、茉結華は結束バンドで縛られた渉の両手を掴み上げた。体幹でどうにか抵抗を試みるも、のしかかる体重に負けて渉は押し倒される。
「おい――」
「渉くんが一人で抜いてたかどうかを」
「は?」
「チェックします」
茉結華はニヤリと笑うと、空いていたほうの手を渉の腹部から下へと滑らせた。
――何だこの状況。なんて言った?
渉は回転の鈍い頭で茉結華の言葉を復唱する。そして、自分が何をされそうになっているのかを理解した途端、カッと熱が込み上げた。
「はあ!? するわけないだろ馬鹿! は、放せ!」
「じゃあいいじゃん、見せてよ」
「ふざっけんなっ! 俺は、そういうのは……っ」
枯れそうな声量で訴えかけて必死に身をよじる。たとえ冗談でもこればかりは御免こうむる。時折茉結華から向けられる性的紛いの行為はきわめてナンセンスとしか言い様がない。だがそうまでして嫌がる渉が見たいというのが、茉結華の思考なのだ。
一心不乱に暴れる渉を見て満足したのか、茉結華はくすぐっていた手をどけた。
「本当は何してたの?」
渉は荒れた息を整えて、じろりと茉結華を睨み上げる。
「……見てただろ」
「え? 何? 知らないけど?」
茉結華はどうしても自白させたいらしい。やはりあの壁は出入り口を塞いでできたものか。
「ほーら、やましいことじゃないなら、自分のお口で言えるでしょ? 何をしてたのか言ってごらん? そうしたら今だけは許してあげ…………」
そう言い終える前に、
「どけよ、早く」
「――え」
渉は茉結華の顔に向けて、プッ――と、唾を吐いていた。
空気に触れてひんやりとする唾液の感触に、茉結華は笑顔のまま固まる。渉はジトッと目を据えたまま苛立ちを崩さず。
「は・や・く」
「………………ふ、はっ」
監禁者は吐息混じりの笑みをこぼした。表向きでは平静を装い、けれども渉は十分に覚悟する。次に飛んでくるのは拳かもしれない。ナイフかもしれない。また首を絞められる可能性だってある。
だが茉結華の反応は、そのどの予想にも当てはまらなかった。
「あは、は、あはははははは――!」
可笑しそうに、楽しそうに、嬉しそうに。茉結華は渉に跨ったまま、盛大に笑い声を上げた。押さえつける手さえも外し、腹を抱えてくつくつと。
一種の興奮状態に陥った茉結華は、顔についた唾を指で掬い取って口元に運んだ。唇でついばみ、渉に見せつけるかのように舐め取る。
「ふ、ふふっ……ふふふっふふっ」
なおも不気味に笑い続ける茉結華に、渉はゴクリと喉を鳴らした。
気持ち悪い――単純な不快感とは違う気持ち悪さに顔を歪める。これが自分の知らない親友の姿なのだというジレンマと、虚しさから込み上げる不快感。
だから渉は目を逸らさず、焼き付けるかのごとく無抵抗に見ていた。茉結華も同じように渉を見た。
「お部屋、気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。トイレもね」
顔を見て気づいたのか、洗顔と歯磨きをしたのがバレている。茉結華は渉の上から退くと、トレイに乗った鍋の蓋を開けた。
(一言余計なんだよ)
渉は身体を起こしてそちらを見る。白い湯気と共に、鰹出汁風味の香りが鼻をくすぐった。
「いただきます」
茉結華はその場に腰を下ろし食事をはじめた。
(自分で作ったのか……? それとも……)
木製のスプーンで掬われる飯は水気が多い。おそらく雑炊かお粥だろうと渉は推理した。
「そんなに見つめたってあげないよ」
「料理できたのかよ」
「違うよ、私にはご飯を作ってくれる可愛い彼女がいるもーん」
ふふんと鼻を鳴らして茉結華はまた一口もぐもぐする。
(彼女……? 女の協力者もいるのか……四人でこんなことを……)
その怪訝な顔つきから察したのか、「渉くんとは関係ないよ」と、茉結華は上目遣いで補足した。
「ルイスさんには把握してもらってるけど、私、渉くんのことを誰かに教えようとは思わないもん。渉くんは私のことだけ考えてればいい。……それとも今は、自分のことをかな?」
最後の意図は渉には通じず、理解できたのはその女が監禁の現状を知り得ていないことと、茉結華の自己中心的な欲のみ。
「お水減ってないようだけど飲まないの?」
「洗面台がある」
「ああーなるほど。確かに、そっちのほうが安全だね」
安全――ということは、やはり何か仕込まれているのか、それとも言葉の綾か。どちらにしてもペットボトルの水は飲む気になれず、二本とも壁際に置かれたままだ。先日渡されたパペット人形も、使わない物としてその隣に添えてある。
(ほかの人が起きている時間帯と考えると、今は早朝とか? ……断定はできないよな)
朝方だとしたら茉結華はこんなところでのんびりしている暇はないはずだ。体内時計が機能しない今、時間帯だけは知っておきたいところだが。
渉が物言いたげにしていると、「昼食だよ」と茉結華は真実を答える。
「今はお昼。あ、不思議そうな顔した? うん、そうだよ、今日も休校」
そう言ってお粥を舌で転がし、「んーおいしい。鰹節は正解だったな」と独り言を漏らした。
二日連続の休校。渉のいない間に外はすっかり大きな騒ぎになっているらしい。学生の行方不明だけじゃそんなことにはならないはず。つまり茉結華の言っていた『届け物』は嘘じゃなかったと。
本当に、
「食べる?」
不意に茉結華は、一口分掬ったスプーンを掲げてみせた。
「あげないって言ってただろ」
「私は気まぐれだよー? 上手におねだりできたら残り半分全部あげちゃう。どう?」
そう提案して、綺麗に片側だけ食べ切られた鍋の中身を見せる。
実際に目の前で口にしているのだから毒が入っていることはないだろう。けれど渉は、食べる気も湧かずに嘆息した。おねだりとやらも願い下げである。
「いらないから質問に答えろ」
「いいよ」
すぐに返事が返ってきたので、渉は仏間脇の黒い柱に人差し指を向けた。「あれ、本物?」と訊いたのは、柱に取り付けられた金具にぶら下がっている――警察手錠。
「さあ? 本物見たことあるんでしょ、わかんない?」
茉結華はお粥を食べつつ言葉を濁す。
渉が本物の警察手錠を目にしたのは中学の頃の職場体験だ。あの時肌で感じたものは今でも印象深く、大切な思い出となっている。だが、さすがに当時の記憶を探ってみても判別はつかない。
――仮に本物だとしたら、また多くの疑問が生じてしまうだけか。
茉結華の様子を窺ってみるも答える気がなさそうなので、渉は質問を変えた。
「お前はいつから響弥と一緒にいる? どうして人を殺す」
「うわー色気ない質問だねー」
茉結華は呆れたように苦笑する。渉はまるで響弥と茉結華が別人であるかのように言ってやったのに、それを間違いと思ってないのか。
茉結華は最後の一口を食べ終えて、真面目そうな顔を作った。
「五歳……ううん、もっと前かな。私は響弥の弟でもあるし、お姉さんでもあるんだよ」
言いつつ片膝を立てて姿勢を崩し、白い歯を見せてニッと笑う。
渉は「理解できない」と、反発した。それでも茉結華は微笑を維持したまま、
「渉くんにはわかんないよ」
「っ……」
わからせてくれないだろ――!
喉元までせり上がった言葉をぐっとこらえる。
(調子が、狂う)
何か返さなければと思っても、うまく口から出てくれない。そうこうしているうちに相手のペースに飲まれてしまう。
「それとどうして人を殺すかって? じゃあ逆に訊くけど、渉くんはどうして警察官になりたいの。どうして
「そ、それは……俺が決めたから……俺がなるって決めたからだ。きっかけは凛の影響だけど、二人でおんなじ夢を見たいと思ったから、だから――」
「同じだよ。私もそう」
「違うっ! ……同じにするな」
反射的に否定して、傷付けられたかのように肩をすくめる。
――軽い、軽すぎる。そんなふうに簡単に同意しないでほしい。理解を得ないでほしい。お前の人殺しと、俺の――俺たちの夢を、一緒にするな。
「はあ?」
強く反応を示したのは茉結華も同じだった。
「渉くんに何がわかるの? 勝手なこと言わないでよ、何もできないくせに」
眉を吊り上げてゆらりと立ち上がる茉結華の瞳は怒りを宿して血走り、顔には雨雲のように暗い影が差している。
茉結華は己の胸に手を当てて豪語した。
「今凛ちゃんを守ってるのは誰? 私だよ? この私! 呪い人ってのはさあ、その人だけが守られる特権なんだよ。そうしてるのは私、与えてるのも私。これからもずっとそう、変わらない。変わらず、凛ちゃんは私に守られ続ける」
「…………」
沈黙の後、渉は目をしばたたかせて首を振った。
(違う)
「違うよ……」
「ふふっ……は?」
「凛はそんなこと望まない! 頼んでもいない……! そんなことして……凛が喜ぶはずないだろ――!」
口走る間に前髪を鷲掴みにされたが関係ない。最後まで言い切り、じわじわと増す痛みに歯を食いしばる。
茉結華は渉を掴み上げながらせせら笑った。
「そうだよ? 凛ちゃんは喜ばない。つらくて苦しくて寂しくて、一人で泣いてる。ああ、凛ちゃんを笑顔にできるのも私なんだね」
「ち、がう……違う……っ」
「だって可哀想じゃん? 凛ちゃん一人で……死んじゃうかも」
「う、うううっう――」
低く呻き、頭の痛みを感じながらも首を振った。
「苦しめてるのはお前だ! なんでわかんねえんだよ! なんで……っ」
渉は茉結華の腕に爪を立て、這い上がろうと力を入れる。
「なんで……そんな……、好きなら好きって、言えばよ――かっ」
言葉はそこまでだった。突如腹部に走った衝撃に息が詰まり、指先まで微震する。
痛みの正体は、茉結華の繰り出した膝蹴りだった。
「綺麗事ばっか。取られたくないって誰よりも思ってたくせに、見え透いた嘘言わないでよ」
「……嘘じゃない」
「嘘だよっ!」
ドゴッ――と鈍い音を立てて、渉は髪を掴まれたまま壁に背中を打ち付ける。衝撃は後頭部にまで響いた。
「う、ぐっ……」
脳が揺れて、視界が乱れる。全身が麻痺して力がゆるりと抜ける。情けない声を漏らしても、渉は掴み返す手を放さなかった。
「渉くんはいいよね、平穏で、いつも楽しそうで……怖いものなんか何もなかったでしょ。誰にも怯えず、毎日普通に過ごせて羨ましい」
茉結華は鬼のような双眸をますますきつくして、たっぷりの嫌味を込める。
「そのくせ気にするのは周りのことばっか。自分の損なんて考えないで、他人のために尽くせて……そういうところが、本っ当に――大っ嫌いだった!」
思いの丈をぶつけるその言葉は、どちらのものなのだろうか。わかるのは、これが彼の本心であること。
どちらかではない、一人の人間としての――
「……だ、からぁ……っ」
腕を握り直し、渉は声を振り絞る。
「嫌いなら、嫌いって――俺のこと、もっと早く突き放してくれればよかったんだ……! 馬鹿野郎っ……!」
決して零れ落ちない涙を浮かべて渉はすべてを曝け出す。はじめて目にしたその表情に、茉結華は人知れず唾を飲み込んだ。
思いをぶつけたのは自分だけではない。部屋に響いたのは男二人の激白――
うろたえた茉結華は無理やりの笑みを浮かべた。
「泣いたって変わらないよ? 謝ったって許してあげないんだから……」
「謝った、ぁ……? 俺が、いつ……」
飛びそうな意識のなかでぼやいた言葉が、どこか茉結華には刺さったようで、ほんの一瞬だけ顔色を曇らせる。髪を掴む手を放されて、渉は力なく沈み込んだ。
「……渉くんは精々、私に殺されないよう抵抗していれば?」
このとき茉結華がどんな顔で言ったのか、渉の霞む視界では捉えられなかった。最後にぼんやりと見たのは、部屋を去っていく茉結華の後ろ姿。動けないのは身体の痛みではない。もっと内側の――心臓の辺りが強く締め付けられているから。
もう、疲れた。だから眠る。端的な理由を思い浮かべて、渉は瞳を閉じた。
絶食状態になって約三日目。腹の虫は鳴らなかった。もう死んでいるようだ。
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