八つ当たり

 茉結華が防音室に入ると、パソコンの前で作業をしていた長身で痩せ型のハッカーことルイスがすぐに反応した。ルイスは姿勢を傾けて、「あ、茉結華」とディスプレイの隅から顔を覗かせる。その目に飾られている愛用の赤縁眼鏡は、以前茉結華がプレゼントしたものだ。


「少し見てほしいものが――」


 ルイスはそこで言葉を切り、視線を一点に定める。

 茉結華は、自分の右半身への注視を感じ取り、次に来る言葉を大人しく待った。相手の出方を窺ったとも言う。


「そ、その傷……どうしたの?」


 ルイスは眉間のしわを深くして指をさす。袖下から見える茉結華の右腕は、先ほど渉に引っ掻かれた傷がミミズ腫れとなって浮き出ていた。

 茉結華は片腕を上げて皮肉そうに唇を緩める。


「うーん、猫? いや、犬? うん、猛獣にやられたの」

「……冷やしたほうがいいんじゃない?」

「ヘーキ。痛くは……なくはないけど」


 動かしていなくとも腕の表面はヒリヒリと痛む。


(まあ……あっちのほうがダメージは大きいしね)


 茉結華は今もなおあちらの部屋で横たわっていそうな渉の様子を思い描いた。

 摂取しているのは水だけの上に、服の下は痣だらけなのに、渉の反抗的な態度は変わらない。手も足も拘束されたあの状況下で相手に立ち向かってくるなんて。その力はいったいどこから湧いてくるのだろうか。


(……体力馬鹿)


 さすが、柔道と剣道、日々のストレッチやジョギング、放課後部活の多方面からの誘い――それらを熟してきただけある。

 だがそれを嬉しく思う反面、いつかは来る終わりを恐れている自分がいる。この感情が寂しいと思う気持ちなのかはわからない。今を楽しいと感じているのは事実なのだから、変わらないでいてほしいと思うのは何も不思議じゃないだろう。

 そうやってまた、茉結華は自己解決する。考えるのは得意じゃない。自分は今、この瞬間を楽しむだけ――


「濡れタオルを持ってくるから、待ってて」

「え? ホントに大丈夫だよ?」

「待ってて」


 席を立ったルイスに念押しされて、茉結華は「うん……」とか弱く頷いた。能動的なタイプではないのに、今日はやけに張り切っているようだ。あるいは張り切り出したか。この程度の傷、どうってことないのに。

 三分もしないうちにルイスはリビングから戻ってきた。


「はい、冷やして」


 ルイスは持ってきた濡れタオルを広げて、茉結華の差し出した腕にぴちゃりと掛けた。傷のことを思って柔らかめの生地を選んだらしい。水気が肌に染みるが、タオルの冷たさは心地よかった。


「ありがとう」


 はにかんで茉結華は自分の腕に目を向けた。そして、いつもと違うルイスの様子に敏感に感づく。

 返事もせず傍らに立っているルイスは、茉結華に視線を落としたまま。こういうときいつもなら「うん」とか「どういたしまして」とか、すぐに返事が返ってくるのに。何か言いたいことがあって逡巡しているのだろうと、茉結華はうつむいた状態で悟った。


「……茉結華」

「んっ?」


 頭上からしたルイスの声に、茉結華はわざと遅めに顔を上げる。


「彼と……何かあった?」

「……」


(ふーん、そういうこと)


 リアルの人間との関係に探りを入れるなんて、ルイスらしくない。茉結華は表情には出さぬよう努めて小首を傾げる。


「いつもどおりのじゃれ合いだけど、なんで?」

「浮かない顔してる……昨日もそうだった」

「そう?」


 茉結華は軽く笑って、脇に折り畳まれたパイプ椅子を片手片足で開いた。元々ここに置いてあったものだが、渉のいる間は片付けられていたのである。

 まさか顔色について言われるとは予想外だったなと思いながら、茉結華は椅子に腰掛けた。


「ルイスさんって、渉くんに興味あるの?」

「いやっ……僕は茉結華のことが心配で」

「どこがどう心配?」


 そんな鋭い切り返しにルイスは瞬きを繰り返して、それから瞳を泳がせた。言いづらそうに、しばしの沈黙を挟んで――


「彼に……心を奪われるんじゃないかって」


 思い切った告白に、茉結華はぽかんと口を開ける。――渉くんに、心を、奪われる……?


「ぷっ……ぷふふっ」


 茉結華は吹き出し笑いした。

 ルイスは眉を八の字にして指を組み、まるで怪盗に予告状を送られた宝石商人のようにそわそわとしている。心配の二文字が刻まれたその顔つきが可笑しくて、つい笑ってしまった。


「ご、ごめん……」と謝罪を口にするルイスに、「ううん、謝るのはこっち」と茉結華は自虐的な笑みで返す。


(困るのはお互い様だもんね)


 道理でじっとりと見てくるわけだ。少しばかり表情を引き締めるとしよう。

 茉結華は椅子から立ち上がって、ルイスの顔を正面から見つめた。


「不安にさせちゃったね、ごめんね。でも私は、賢明なルイスさんが他人とのことに興味を持って、戸惑ってくれたことが嬉しいよ」

「う……からかって誤魔化さないでほしい」


 ルイスは早く、この不安を解消してほしいのだ。渉とのことを、そんなことないよと、茉結華の口から聞きたくてたまらない。だから茉結華は、言ってやらない。


「そうだよねー、私がよそ見しちゃうとルイスさんが困るもんねー」

「……!」

「だってそうでしょ? 私の心配じゃなくて、ホントは自分の心配だもん」

「ど、どうしてっ、そんな……」


 そんな――意地悪を、だろうか。おそらくそう言いかけた彼の唇に、茉結華は自分の人差し指を当てて、にひゃりと悪戯な笑みを浮かべた。


「八つ当たり」

「!」


 子供じみた理由を聞いて、ルイスはゆっくりと肩の力を抜いた。

 茉結華は唇から指を離して、「意地悪だった?」と二重の答えを尋ねる。ルイスは驚きと安堵の表情を眼鏡の下に張り付けて、「……意地悪だよ」と穏やかに頷いた。

 もうひと押し、茉結華は本心で言葉を紡ぐ。口に出さなければ、信頼はより強固なものにはならないと知っているから。


「大丈夫。ルイスさんは私のだから、できれば邪心は捨て去ってほしいところだけどぉ――私は揺らがないよ」

「……うん……わかってる」


 ふたりは同じ、一本の長いロープで繋がれている。片方が落ちれば片方も道連れとなる。茉結華もルイスも、それは痛いほどわかっているから、だからこそ強い信頼を求めるのだ。

 問題は、信じる心に迷いをこと。


「全部終わったら、旅行にでも行く?」

「えっ……旅行?」

「例えばー、温泉旅行とか。私ってほら、行ったことないから……」


 苦笑いする茉結華のひょんな言い出しに、ルイスは晴れやかな笑みを咲かせた。


「うん、行こう……! 好きなところへ、どこへでも」

「そのときはタジローもトワちゃんも一緒にさー」


 ルイスの顔色を窺いながら間延びさせて、「……うん、そう……だね」と、彼が早くも表情を暗転させたところで、茉結華はすかさず追及する。


「二人きりがいいの?」

「へっ……!? あっいや……その……」


 わかりやすい動揺だ。蒼くなったり赤くなったり、忙しい顔色である。ポーカーフェイスをしないのはこちらへの信頼の証か。それとも気づかれてもいいというサインか。

 しかし茉結華は拾ってなどやらない。代わりにタオルを掛けていない左の小指をついと差し出した。


「約束、しよ? 全部終わったら、二人で温泉旅行に行くの」

「……僕でいいの?」

「ルイスさんがいい」


 淀みない返答に、ルイスも同じように小指を出した。緊張しているのか、小さく震えているその指に、茉結華は自身のものを絡める。


「……」


 渉の介入によって、今まで抱くことのなかった『私情』が、ルイスのなかに生まれてしまった。その気持ちの変化は人間らしいものであり、仲間内の茉結華にとっては喜ばしいことでもある。

 しかしその気持ちが原因で、こちらの信頼が削がれてしまうのは見過ごせない。仮にその気持ちが『嫉妬』だとすれば、これからの関係を維持するのにとても厄介な壁となる。


(まさかルイスさんがね……渉くんなんかに対抗心を燃やす?)


 確かに渉に対する自分は、ほかと比べると明らかに甘い。仕置きに容赦はしていないが、それでも甘いことは図星だ。

 ルイスには渉とそれ以外のことも把握してもらっているが故、扱いの差が見えてしまっているのかもしれない。この少年――渉は、茉結華のお気に入りなのだと。


(まったく図々しいよ、渉くん)


 絡める指の力を強くして、茉結華はニコリと微笑んだ。

 約束事は相手の心を繋ぎ留めるのに効果的だ。それが相手との簡易的な誓いとなるからである。だがしかし、この世には交わした約束を忘れてしまう愚か者もいるらしい――


「あ、それで見せたいものって?」


 指切りを済ませたところで本題に戻るとする。ルイスが見せてくるものと言えばパソコン画面に尽きるので、茉結華は席のほうに移動した。ルイスも慌てて椅子に着き、「これ、」と言ってキーボードを操作する。


 画面に映し出されたのは録画映像だった。何の変哲もないどこかの歩道――見覚えのあるそれは、学校周辺の防犯カメラ映像である。今までにも何度か確認を請われては、こうして目を通してきたため、いくつか風景は覚えている。

 やがて歩道に一人の人物が現れた。覚束ない足取りでやって来たのは、両手で段ボール箱を抱えた、黒い目深帽子を被った怪しげな男。


「一応と思って残しておいた。どうする?」

「そうだねえ、ルイスさんが言うんだから、このまま残しておこうか、一応」

「わかった」


 映像に映っていたのは、先日藤ヶ咲ふじがさき北高校に『不審物』を届けてくれた井畑いばたという男。

 ルイスの言い方からして、すでにカメラ側の記録は上書きされている。つまり残されたこの録画が世間に出るも出ないもこちら次第。私情に流されようとも、彼の有能ぶりには心底ため息が出てしまう。


「記事を作って、はい終わりーなわけないからね。あの人には、まだまだ動いてもらうよ」


 弱みは握っておかないとね。

 茉結華はデスクに置かれた雑誌の表紙をトントンと指で突いた。蛍光色の文字で表紙に掲載されているのは、『某名門校! 最恐のオカルト伝説――呪い人復活!』の文字。

 雑誌名は、オカルト雑誌ムイチ。

 井畑芳則よしのり、三十代半ばの男。彼はムイチに所属する雑誌記者である。

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