おやすみの時間です
夕飯は買ってきた惣菜で適当に済ませて、茉結華は数時間ぶりに自分の部屋へ戻った。今の時間帯、普通の学生なら勉強に励んでいるか、テレビドラマに没頭しているか、または友人とトークのやり取りでもしているか――少なくとも、自室の隠し扉にパスワードを打ち込んでいるのはこの世界で自分くらいだろう。
扉のロックが解除された。茉結華はペットボトルを持ち直してなかへと踏み込む。自室とさほど変わらない室温、だが湿度は少し高くじめりとした空気が肌身を包んだ。
連休二日間の天気は雨だった。現在も六月の半ばに相応しい雨雲が空を覆っている。だが外の音がこの部屋に届くことはない。梅雨と雨音が嫌いな渉でも、文句ひとつ言ってこない程度には、なかは静寂を保てている。
渉は稼働していないエアコンの前に横たわっていた。何もない畳の上でごろんと寝転がっている。こちらを振り向くことのないその背中は『除湿運転くらいしておけ』と語っているみたいだった。
「寝たふりは通じないからねー」
茉結華は声に出して牽制する。起きているなら確実に聞こえているだろうけれど、渉はピクリともしなかった。
(まあ……フリかどうかは、近付けばわかるか)
その前に、隅に置かれたペットボトルを確認した。中身は少しも減っていない。本当に洗面台頼りになっているのか。素直にボトルの水を飲むほうが早いと言うのに。
(強情だなあ……)
そう思いつつ、今しがた持ってきたばかりのペットボトルと交換する。古いほうはリビングに戻ったときに洗って乾かすとしよう。
茉結華は渉を一瞥し、わざとすり足で音を立てつつ背後から近付いた。警戒は決して怠らない。音を立てるのは自分の居場所を相手に伝え、反応を誘発するためである。そうすることで、万が一寝たふりだったとしても対処がしやすくなるのだ。
(ん? あれれ……本当に寝てる? 寝ちゃってる?)
横たわる渉を見下ろして、頭、腕、足の先までじろりと舐める。もっと近くで確認すべく、茉結華はその場にしゃがんで、ぬっと横顔を覗き込んだ。
渉は苦しそうに顔をしかめて、静かに寝息を立てていた。額に滲んだ汗が前髪ともみあげを濡らしている。身動きの取れぬまま床に身体を預けているのだから、寝苦しさで顔を歪めることもあるだろうけれど、それにしては寝汗を酷くかいている。
茉結華は首元に視線を移した。衣替えの移行期間に、着たり脱いだりを繰り返していた冬用の学生服。その詰襟から覗く首筋には、正午に絞めた跡がくっきりと残っている。そして額と同様に汗がつっと垂れていた。
起きちゃうかなと思いながら、茉結華は首筋に手を伸ばす。頸動脈に指を当てて、脈拍とついでに体温を測る。
(……脈は正常。体温はちょっと高いかな……?)
六秒間で七回だった脈拍は、十倍して七十。日頃から運動しているのを考慮すると、これくらいは正常の範囲だ。
問題なのは体温。渉は平熱が高めなので、茉結華が触れても毎度高いように感じてしまうのだ。
しかし仮に熱があったとしても微熱程度のものだろう。問題視せずに指を離したそのとき、「……ん」と、短く唸った渉の瞼がゆっくり持ち上がった。茉結華の心が『あっ』と小さく跳ねる。
「起こしちゃった?」
茉結華が声をかけても、渉の眠たげな横顔は、瞳の開閉を緩慢に続けるだけでリアクションがない。
またすぐにでも眠ってしまいそうな、朦朧とする渉の頬に、茉結華は人差し指をつんつんと触れた。眠気さえなければ噛み付きそうな勢いで、渉はぎろりと眼球を動かす。
「ふふっ」
ようやく存在に気づいてもらえて、茉結華は柔和に表情を崩した。
渉は重々しく身体を動かし、誰の助けも必要とせず自力で起き上がる。拘束された身で動くのは初日に比べるとだいぶ慣れたようである。あぐらをかき、眠たげな目で渉は言った。
「……触って」
「え――」
「首、熱いから……触って」
(……ええっ?)
茉結華は思わず目を丸めて困惑した。
渉は熱のこもった双眸で射抜いてくる。飼い主に愛でられるのを待つ犬のように。尻尾――はとても振っていないが。
「しょ、仕様がないなあ」
茉結華は先ほども触れた渉の首筋へと手を伸ばし、指先をぺたりと当てた。ドクドクドクと、確かな拍動が直接めいて伝わる。その速さは先ほどとまったく同じである。なんだ、緊張してるのは私だけかと、茉結華はどこか腑に落ちないものを感じた。
「……手、冷たい」
「触ったほうが暑くない?」
渉はとろんと目を細めている。猫ならゴロゴロと喉を鳴らすのだろうか。茉結華は皮膚を這う鳥肌がバレぬよう、けらけら笑って誤魔化した。
「汗すごいね」
「ごめん……」
「っ――べ、つに、嫌じゃないけど」
言葉とは真逆に、茉結華は触れていた手を引っ込める。
(って、動揺してどうする……寝起きの渉くんなんかに)
おそらく彼は天然でしているのだろうけれど、不意に見せる消極的な態度は渉らしくなくてドキリとする。押して駄目なら引いてみろとは言うが、それに等しく、こちらの心が揺さぶられるような、言葉にできない心理に気圧される。
(昼間のこと……怒ってないのかな)
茉結華はぽりぽりと頬を掻き、ちらりと目線を上げた。渉はぼうっとした目で何か考え込んでいるように見える。まだ頭が覚醒していないのだろうか。
「渉くん寝ぼけてるでしょ? あんまり無防備だとイタズラするからね」
冗談っぽく宣告し、茉結華はハーフパンツのポケットに手を入れる。なかの物を取り出そうとしたとき、渉の挑戦的なぼやきが耳朶を打った。
「お前の手は冷たいから、触られたらすぐにわかる」
「――っ」
ピタリと、茉結華は動きを止めた。
――すぐに、わかる?
渉は肯定するかのようにまっすぐ茉結華を見据えていた。その首筋に、あるはずもない白い手が映る。黙れ、黙れと込められる指の力。
永遠とも思える一瞬で、己の手よりも冷たい空気が、茉結華の背中を掠めていった。
(いや、あの時は、確かに眠っていたはず……。だって――我慢できるはずない)
わざと絞められていただなんて、あってたまるか、そんなこと。
そう思考回路を動かせば、嫌な気配は去っていく。だけど茉結華は敢えて真実を聞き出そうと試みた。
「へえー、寝てても起きるくらい?」
「……」
渉は問いには答えなかった。その手には乗らない、と無言で言われているようである。代わりに「で、何……?」と茉結華のポケットに目線を送り、渉は中身の登場を促した。
「おやすみの時間です」
そう言って引き抜いたのは、白いハンカチと小瓶。
茉結華の掲げたそれを目にした途端、渉は露骨に嫌そうな顔をする。
「それ、やめてほしい。……起きた時、すげえ気持ち悪い」
渉が嘔吐を繰り返していることは茉結華も承知の上である。現にこの液体には個人差はあれど、嘔吐や頭痛などの副作用がついてくる。
「でも……しないほうが渉くんは苦しいよ?」
「なら、睡眠薬とか……」
「睡眠薬と知ってて、渉くん飲むの?」
意地の悪い返しをしてやると、渉は言葉を失った。
茉結華は小瓶を開けて、ハンカチに液体を染み込ませる。
「待って……制服はやめてほしい」
「暑いから?」
「……うん」
ふーん、と言いながら、茉結華は渉の素直な反応にほくそ笑んだ。いくら自分に疎い渉でも、さすがにもう気づいているか。
梅雨とは言え、夏は夏。肌着とシャツ、そして学ラン。計三枚を常に着せられている渉は、茉結華の軽装と比べてだいぶ暑いだろう。寝汗をかくのも大いに頷ける。
けれども茉結華は優しく諭した。
「渉くん、何か勘違いしてない? 私と渉くんって、監禁してる側とされてる側なんだよねぇ。……なんかさー、普通の服着せちゃったら友達みたいじゃない?」
「――――」
「それこそお泊り会じゃん。ね?」
茉結華の口元は笑っている。だが、目は笑っていない。
忘れてしまっているようだから、茉結華は互いの立場というものを教えてやる。自分はあくまで監禁者で、
「私は渉くんの、服も匂いも、変えるつもりないから。安心して?」
変わらない。綺麗なままで、変わらせない。
「…………そうだな……」
喉の痛みそうな細い声で、渉は同意した。何か大切なものを諦めたような、悲しげな表情を隠さずに。
小さくなったその肩に、茉結華は片手を回す。
「寝てる間はクーラーつけといてあげる」
だからおやすみ。
茉結華は液体の染みたハンカチで渉の鼻と口を覆った。三度目にしてはじめての無抵抗。体力を消費することもなく安らかに、渉の意識は遠ざかる。
ほんの十秒ほどで片腕に渉の体重のすべてが掛かるが、それでもいつも決まった秒数を刻む。今日は三十秒でいいかな……。心のなかで秒数を数えて、完全に眠りにつくまでハンカチを当て続ける。眠ったふりを許さないためであるが、これが効き目と副作用を強めてしまっていることは否めない。
「よし」
茉結華はポケットから折り畳みナイフを取り出して、手足の結束バンドをスパッと切った。そしてお姫様抱っこで渉の身体を持ち上げる。
これから連れて行く場所は、本人も気づいていた、風呂場だ。
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