第四話
……泣かないで
雲ひとつない青空、
だが、
しっかり伸ばした足で水を蹴り、小さな手で水を掻く。魚みたいに――とまではいかないが、力強くそして軽やかに水中を突き進む。肺に溜めた酸素が限界を迎える前に、顔を横に上げて息継ぎをする、奇麗なクロール泳法だ。運動神経も年長児のなかでは上のほうだと自負している。
ピンと伸ばした片手の先に、ゴツゴツした岩の感触がして水中から顔を上げると、
「えへへっ、またわたしの勝ちー!」
隣で、先に着いていた少女がピースサインをしていた。花柄の水着を着ている彼女は、体格も身長もまだ幼い渉の身と変わらない。
「今のは勝たせてやったんだ」
「じゃ――もっかい!」
「もう飽きた」
「え――じゃあ――――の?」
「……」
口の動きからして「ええー、じゃあ何するの?」と言っているようである。だが、少女の声は明確には聞き取れない。声だけでない、水流の音も鳥の鳴き声も――聞こえてくるすべての音がこもって聞こえる。まるでまだ水中にいるみたいだった。
渉はペチペチと自分の耳を叩いた。けれど、耳のなかに入ってしまった水は一向に出てくる気配がない。
「わたるくん?」
「……耳、よく聞こえない」
「え?」
「水が入って耳聞こえないの! りんちゃんのせい! りんちゃんのせいだからな!」
渉は握り拳を作り訴えかけた。りんちゃんのせい――
今思えば、酷いことを言ってしまったと後ろめたさを感じる。
渉に怒鳴られて呆然とする凛は、徐々に肩を弾ませてしゃくり上げをはじめ、
「うわああああんっ!」
そして何かの拍子に、大きな声を上げて泣き出した。渉はぎょっとして、耳を叩くのをやめる。小さな両手を目元に当てている凛は、緩んだ蛇口のようにボタボタと涙をこぼしていた。
自分の言葉が原因で傷付けてしまった。そんなつもりじゃなかったのに……。
「な――泣くなよ! 何だよ、りんちゃんばっかり!」
思いとは裏腹、天の邪鬼が邪魔をする。
泣かせようとして言ったわけじゃない、傷付けたかったわけでもない。本当は優しい言葉をかけてあげたいのに――どうして口から出るのは意地っ張りばかりなのだろう。悪いことをしたという気持ちに圧されて、渉まで泣きそうになった。
「泣くなってば」
「ふえええぇえぇん……っうぅうう……」
「りん」
「ふえっ……ひっく……うーう……」
「ねえ……」
段々と弱々しくなる自身の声。気づけば渉は、凛の頬に右手を添えていた。
「……泣かないで」
懇願するように言いながら顔を寄せると、彼女も自然と顔を上げた。泣いてばかりのその唇に、自分のものを重ねる。その状態が続いたのは二秒ほど――凛は両手を硬直させてじっとしていた。きっと何が起きたのか解っていなかったのだろう。
唇を離すと、凛は思ったとおりの放心顔をしていた。涙で濡れていたリンゴ色の頬は、日差しの影響であっという間に乾いていく。自分の頬も同じ色に染まっているのだろう。
「……、……?」
「……帰ろ?」
困惑を続ける幼馴染の手を引き渉は言った。耳のなかの水はまだ入ったままである。
「わ、わたるくん、なんで……チューしたの?」
「……聞こえない」
「チューはね、好きな子同士じゃないと、しちゃだめなんだよ?」
「聞こえないってば」
隣で言う凛の言葉はところどころが聞き取れず、しかしその顔に無邪気な笑みが戻っていたため、渉は特に聞き返すこともなく、ぎゅっと握った手を離さないでいた。
「ねっ……わたるくんはわたしのことっ好きなの? わたしはね――わたるくんのこと――」
望月家と
泣いている凛の顔も、触れた唇の感触も、水で塞がれた聴覚も。そして、聞くことができなかった彼女の言葉もすべて。
あれ以来、渉は耳を塞ぐことができなくなった。取り入れたい音が、声が、聞けなくなるのが怖い。音を邪魔する音を嫌い、雨音を嫌い、ノイズを嫌い。
でも水泳は嫌いじゃない。耳掃除も嫌いじゃない。ただ音を失うのが怖いだけなのだ。また大切な言葉を聞き逃してしまうかもしれないから。
美しい記憶とはとても言えないだろう。けれど皮肉にも、色褪せず鮮明に、今も心に刺さったまま――心的外傷として残っている。
それが、今日見た夢。懐かしい日の夢。
しかし残念ながら、今目にしているのは川の水面ではなく、トイレの封水だ。
(何も飲んでなくとも、胃液は出るんだな)
ぼんやりと思いながら嘔吐を済ませる。最後に水を飲んだのは、はじめてペットボトルから摂取した一度きり。あれが最初で最後となった。
そろそろまずいのは理解している。だがこれでいい。これは茉結華の本心を探るために、行なっていることなのだから。
胃液を吐き出し終えたところで空嘔も治まり、疲労感がやってきた。薬品によって強制的に眠らされる理由は入浴と着替え、その他諸々。
例えば今日なんかは、元より長くなかった爪がさらに短くなっている。表面はピカピカに磨かれており、おそらく足の爪も同様に手入れがされていることだろう。剃毛やスキンケアもそうだ。渉が眠っている間に茉結華が引き続き行なっている。渉自身を変えないために――
トイレから出て、何もない部屋を見渡した。隅に置かれたペットボトルのストローキャップは、白色が黒に変わっている。これは茉結華が今朝新しいものに入れ替えたことを示していた。つまり、今日は学校へ行っている。――でなければ口頭で告げてくるはずだ。
現在の正確な時間はわからないが、また昼頃だと予想しよう。
(……眠りすぎだ)
だがそのおかげで、消耗しきった体力を少しばかりは回復できた。
力のすべてを出し切るには、今日がちょうどいい頃合いだろうと、渉はある決意を固める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます