第四話

……泣かないで

 雲ひとつない青空、燦々さんさんと照らす太陽。小石だらけの地面に、そばを流れる美しい川。揺らめく陽炎の先にはカラフルな大型テントがふたつ、三つ、もしくはそれ以上。そのなかで休む大人たちには、蝉の鳴き声も野鳥のさえずりも聞こえているのだろう。

 だが、望月もちづきわたるの耳にはくぐもった音しか入っていない。

 しっかり伸ばした足で水を蹴り、小さな手で水を掻く。魚みたいに――とまではいかないが、力強くそして軽やかに水中を突き進む。肺に溜めた酸素が限界を迎える前に、顔を横に上げて息継ぎをする、奇麗なクロール泳法だ。運動神経も年長児のなかでは上のほうだと自負している。

 ピンと伸ばした片手の先に、ゴツゴツした岩の感触がして水中から顔を上げると、


「えへへっ、またわたしの勝ちー!」


 隣で、先に着いていた少女がピースサインをしていた。花柄の水着を着ている彼女は、体格も身長もまだ幼い渉の身と変わらない。


「今のは勝たせてやったんだ」

「じゃ――もっかい!」

「もう飽きた」

「え――じゃあ――――の?」

「……」


 口の動きからして「ええー、じゃあ何するの?」と言っているようである。だが、少女の声は明確には聞き取れない。声だけでない、水流の音も鳥の鳴き声も――聞こえてくるすべての音がこもって聞こえる。まるでまだ水中にいるみたいだった。

 渉はペチペチと自分の耳を叩いた。けれど、耳のなかに入ってしまった水は一向に出てくる気配がない。


「わたるくん?」

「……耳、よく聞こえない」

「え?」

「水が入って耳聞こえないの! りんちゃんのせい! りんちゃんのせいだからな!」


 渉は握り拳を作り訴えかけた。りんちゃんのせい――りんのせいだと言って不貞腐れた。彼女は川遊びに付き合ってくれただけなのに、競争に負けてばかりの渉は悔しさのあまり八つ当たりをした。

 今思えば、酷いことを言ってしまったと後ろめたさを感じる。

 渉に怒鳴られて呆然とする凛は、徐々に肩を弾ませてしゃくり上げをはじめ、


「うわああああんっ!」


 そして何かの拍子に、大きな声を上げて泣き出した。渉はぎょっとして、耳を叩くのをやめる。小さな両手を目元に当てている凛は、緩んだ蛇口のようにボタボタと涙をこぼしていた。

 自分の言葉が原因で傷付けてしまった。そんなつもりじゃなかったのに……。


「な――泣くなよ! 何だよ、りんちゃんばっかり!」


 思いとは裏腹、天の邪鬼が邪魔をする。

 泣かせようとして言ったわけじゃない、傷付けたかったわけでもない。本当は優しい言葉をかけてあげたいのに――どうして口から出るのは意地っ張りばかりなのだろう。悪いことをしたという気持ちに圧されて、渉まで泣きそうになった。


「泣くなってば」

「ふえええぇえぇん……っうぅうう……」

「りん」

「ふえっ……ひっく……うーう……」

「ねえ……」


 段々と弱々しくなる自身の声。気づけば渉は、凛の頬に右手を添えていた。


「……泣かないで」


 懇願するように言いながら顔を寄せると、彼女も自然と顔を上げた。泣いてばかりのその唇に、自分のものを重ねる。その状態が続いたのは二秒ほど――凛は両手を硬直させてじっとしていた。きっと何が起きたのか解っていなかったのだろう。

 唇を離すと、凛は思ったとおりの放心顔をしていた。涙で濡れていたリンゴ色の頬は、日差しの影響であっという間に乾いていく。自分の頬も同じ色に染まっているのだろう。


「……、……?」

「……帰ろ?」


 困惑を続ける幼馴染の手を引き渉は言った。耳のなかの水はまだ入ったままである。


「わ、わたるくん、なんで……チューしたの?」

「……聞こえない」

「チューはね、好きな子同士じゃないと、しちゃだめなんだよ?」

「聞こえないってば」


 隣で言う凛の言葉はところどころが聞き取れず、しかしその顔に無邪気な笑みが戻っていたため、渉は特に聞き返すこともなく、ぎゅっと握った手を離さないでいた。


「ねっ……わたるくんはわたしのことっ好きなの? わたしはね――わたるくんのこと――」




 望月家と百井ももい家、家族ぐるみで行われるキャンプは毎年恒例の夏休みイベントだった。印象深い出来事は幼ければ幼いほど、そのとき感じた衝撃が強く脳裏に焼き付く。あの日川で起きた出来事もそのうちのひとつだ。

 泣いている凛の顔も、触れた唇の感触も、水で塞がれた聴覚も。そして、聞くことができなかった彼女の言葉もすべて。


 あれ以来、渉は耳を塞ぐことができなくなった。取り入れたい音が、声が、聞けなくなるのが怖い。音を邪魔する音を嫌い、雨音を嫌い、ノイズを嫌い。

 でも水泳は嫌いじゃない。耳掃除も嫌いじゃない。ただ音を失うのが怖いだけなのだ。また大切な言葉を聞き逃してしまうかもしれないから。

 美しい記憶とはとても言えないだろう。けれど皮肉にも、色褪せず鮮明に、今も心に刺さったまま――心的外傷として残っている。

 それが、今日見た夢。懐かしい日の夢。


 しかし残念ながら、今目にしているのは川の水面ではなく、トイレの封水だ。


(何も飲んでなくとも、胃液は出るんだな)


 ぼんやりと思いながら嘔吐を済ませる。最後に水を飲んだのは、はじめてペットボトルから摂取した一度きり。あれが最初で最後となった。

 茉結華まゆかには洗面台の水があると仄めかしておいたが、渉は口にしていない。

 そろそろのは理解している。だがこれでいい。これは茉結華の本心を探るために、行なっていることなのだから。


 胃液を吐き出し終えたところで空嘔も治まり、疲労感がやってきた。薬品によって強制的に眠らされる理由は入浴と着替え、その他諸々。

 例えば今日なんかは、元より長くなかった爪がさらに短くなっている。表面はピカピカに磨かれており、おそらく足の爪も同様に手入れがされていることだろう。剃毛やスキンケアもそうだ。渉が眠っている間に茉結華が引き続き行なっている。渉自身を変えないために――


 トイレから出て、何もない部屋を見渡した。隅に置かれたペットボトルのストローキャップは、白色が黒に変わっている。これは茉結華が今朝新しいものに入れ替えたことを示していた。つまり、今日は学校へ行っている。――でなければ口頭で告げてくるはずだ。

 現在の正確な時間はわからないが、また昼頃だと予想しよう。


(……眠りすぎだ)


 だがそのおかげで、消耗しきった体力を少しばかりは回復できた。

 力のすべてを出し切るには、今日がちょうどいい頃合いだろうと、渉はある決意を固める。

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