第三話

新しい部屋

 ケホッ――

 誰かの咳き込みが聞こえた気がして、わたるは重い瞼を開いた。

 視界に広がったのは見覚えのない白い天井と、こちらを見下ろしている――もう見慣れてしまった白い髪の、


「…………」

「……」


 茉結華まゆかが目の前にいた。


(なんでいるんだよ)


 今さらこんなことで驚きはしない。代わりに渉は怪訝そうに眉をひそめた。

 表情で言えば茉結華のほうが目を真ん丸くしていて、まるで驚いているようだった。だがそれも束の間のことで、何度か瞬きをした後『えへへ』とふにゃけた笑みを作る。見ているとこちらの力まで抜けそうなその笑顔は、何かやましいことを隠し誤魔化したようにも見えた。


 渉は茉結華から目線を外し、身体を起こそうとする。両腕とその付け根辺りがミシリと軋む。それから背中から腰にかけて、じんわりとした筋肉の痛みを感じる。

 寝て覚めたときはいつもこうだ。また同じ姿勢で眠っていた――いや、眠らされていた。

 渉は、やや横向きの姿勢になりながら、上半身をひねるようにして起こした。


「おはよう渉くん」


 傍らにいる茉結華からお馴染みの挨拶を受けるが、渉は背中を丸めたまま周囲を窺い、端的な疑問を漏らす。


「ここ……どこ?」


 床は畳で和室ではあるが、今までいた仕切りのある部屋ではない。

 壁は装飾のない白色が続いており、ある一面には太い柱が通っていて――本来は仏間だろう――物置スペースを作っている。最初に目にした天井は木製ではなくなっているし、灯っていない照明も別物だ。


「新しい部屋。渉くんだけの部屋だよ」

「俺の……?」


 そう聞き返すと、視界の隅で白い頭が縦に振れた。


 昨晩、ルイスが部屋を出ていった後、入れ違いに茉結華がやってきた。おやすみの時間と称して――その先のことは前日と同じ。渉は薬品の染み込んだハンカチを嗅がされて、意識を失った。

 そうして目を覚ます頃には、場所を移されていた。


(まだ整ってない……ってのは、この部屋のことだったのか)


 ルイスがいない分、部屋の利用を独占できるが、それは決してありがたい話ではない。

 扉の出入り方法は確認済みだったというのにその鍵を奪うこともできず、唯一の連絡手段であったパソコンへは接触できずに終わってしまった。ルイスから盗めたものと言えば、茉結華との出会いくらいで……あの部屋で考えていた作戦はすべて水の泡となってしまった。

 そして環境が変わった今、そのような手段をまた一から考えなくてはならない――


「渉くん?」


 浮かない表情の渉に茉結華が声をかける。


よだれ付いてるよ」


 そう言って伸ばされた手が顔に触れる前に、渉は後ろ向きにパタリと倒れて白い天井をシャットアウトした。


「渉くーん?」

「……気持ち悪い」


 渉は眉間にしわを寄せて強く目を瞑ったまま答える。


「拭いてあげるだけだって」

「……、そうじゃなくて……」


 薄く瞳を開けると、きょとんとした顔の茉結華が見下ろしていた。こちらの言っている意味が彼には伝わっていない。


(また……すっげえ、気持ち悪い……。なんでだ?)


 口元の涎なんてどうでもよかった。吐いてしまいそうだったので横になったまでである。

 昨日の、あの時と同じむかつきが生じている。頭痛もしている。二日酔いみたいだ、と――したこともないのに考えて、渉はもう一度瞳を閉じる。


(……あの薬か)


 ただ寝て起きたときではなく、共通するのは薬品を嗅がされてから眠り、起きた後だ。薬の副作用とでも言うのだろう。目眩、頭痛、嘔吐はそのせいだ。


「指、切って……」

「え?」

「指の結束バンド……。腕、前にできない」


 らしくもない弱音を口にした。

 後ろ手に親指を縛っている邪魔なプラスチックバンド。腕を前にするには下半身をくぐらせなくてはならない。初日に比べればスムーズにできるようになったが、今行う余裕はなかった。


「……吐きそう?」という茉結華の問い掛けに渉は小さく頷く。

 本当は嘔吐などしたくはないし、できることなら寝転がったままスッキリしてしまいたい。けれど、そんなことは無理だとわかっているため、渉は頷きさえも加減する。じゃないと少しの刺激で口から出そうに――


「んーじゃあトイレまで連れてってあげるから」

「っ! い、いいっ! 今、さわ……っ」


 言いながら茉結華は肩に手を回して無理やり起こし、渉は言葉を被せながら声を荒げる。

 そして、起き上がった身体がぐっと硬直したのを見て、茉結華はようやく事態を察する。


「えっ……、やばい?」

「…………」


 声を発する余裕もなく、渉は畳の一点を遠目に見つめて口を結ぶ。


「吐く?」


 視界で首を傾げた茉結華を横目に、渉は目だけで訴えた。

 皮肉にも通じてしまうアイコンタクト。

 茉結華はイエスの合図を読み取ると、はい――と言って、両の小指側をくっつけてお椀のようにした手をずいと突き出した。


「いいよ。出して」


(………………は?)


 渉は茉結華の顔と手のひらとを交互に見やる。


(出して……?)


 ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、その心を読んだ茉結華がコクリと頷いた。

 渉は固まったまま、瞳をわずかに動かして畳敷きの床を見る。


「床は駄目。畳に染みちゃう」


(んなこと……言ったって……、人の手のなかに……)


 そう思っているうちに吐き気が込み上げてくる。ギリと歯を食いしばってこらえるが、しかし嘔吐きばかりは抑えられなかった。


「っ……う――」


 渉は、もうどうにでもなれという気持ちで背中を丸めて、ゴホゴホと咳き込み、嘔吐する。涙の滲んだ瞳は強く瞑っていた。

 ――ちくしょう、なんで俺がこんな目に。


 やがて治まりゆくむかつきに呼吸を整え、己の霞んだ視界と向き合った。突き出されている茉結華の手のひらは、ほとんど唾液に近い少量の吐瀉物をしっかりと受け止めていた。

 その透明な汚物をぼんやり見つめていると、「終わった?」という声がした。


 渉は顔を上げた。茉結華は何食わぬ顔をしていた。大きくてキツめの双眸がこちらを射抜いていて、渉は無意識に妙な思考をする。


、こんな顔してたっけ……)


 そう思った瞬間、カメラのフラッシュが焚かれたように一瞬だけ別の姿が重なった。

 見間違えるはずがない、黒い髪の親友の姿が。


「――あ、――――う」


 弾かれたように視線を下げて目を泳がせる。目の前には彼の両手と、自身が出した嘔吐物。相手の両手に吐いてしまった自覚が明確に湧く。それと同時に、ゾッとするほどの罪悪感が溢れてきた。


「終わったね」


 目を見開きうろたえる渉に、茉結華は一言だけ告げると、出入り口らしい戸のほうへと進んでいく。


「トイレは端の引き戸だから、見ていいよ。水も新しいのに替えたけど、んー、まあ飲む飲まないは好きにして」


 それだけ視線で伝えると、茉結華は襖柄の戸を片足で器用に開閉し、部屋を出ていった。カシャン――と扉のロックが掛かる音が微かに聞こえた後、静寂がその場を支配する。


「終わったね、じゃ……ないだろ」


 渉は声に出して愚痴る。もう十分動けるようになったと判断し、軽く腰を上げて腕を前に持っていくと、結束バンドで縛られた両手を見つめて指を組んだ。

 あんなふうに――自身で触ることさえためらうというのに――他人の吐瀉物を抱えて平然としている彼の姿が信じられなかった。


(少しは……顔に出せよ)


 そうすればきっと、こちらの気も幾分か楽になる。

 汚してやった、ざまあみろって。きっとそんなふうに思えるのに。


「……暑い」


 渉は口元を手で拭い、薄暗い一室を見渡した。この部屋にも窓はない。エアコンはあるが動いていなかった。リモコンも見当たらないが、そちらがであるのは把握しておく。押入れらしき襖はひとつ。中身は空かもしれないが、一応確認しておこうと頭に留めた。

 茉結華が替えたと言っていたペットボトルを一瞥し、端に設けられた引き戸のほうへと移動する。手の甲で開けた個室は、前いた部屋のトイレよりおよそ三倍は広かった。

 

(……マジ、か)


 公共施設にあるような外装に目が丸くなる。何より目立つのが洗面台だ。

 洋式トイレとは別に設けられた――鏡のない洗面台。置かれた透明のコップのなかには歯ブラシが一本入っている。その向かいにあるのは歯磨き粉だろうか。

 顔が洗いたい、歯が磨きたい――とは言ったけれど。


(……ここまで、するのか。俺のために……?)


 ――?

 そう考えて、自問して、渉はぶるぶると首を振る。


「そうじゃないだろ……何言ってんだ……」


 あいつは俺を殺そうとしてて、弄んでいるだけだろう。馬鹿馬鹿しい思考はさっさと切り替えて、渉は洗面台のほうへと爪先歩行で近寄った。

 コップの反対側に置かれていたのは、歯磨き粉ではなかった。


「え――――」


 洗顔フォーム――だが、それはただの洗顔料ではない。

 渉が家で使っていたものとまったく同じ種類の、洗顔料だった。

 ドッドッドッと、心拍数が跳ね上がる。どうして、なぜ、どこで知った、なぜ知った。

 異様な疑念が一気に噴き出す。家のこと、家族のことまでもが頭のなかを駆け巡る。


(落ち着け、……落ち着け。偶然だ――偶然)


 深呼吸をして心を落ち着かせるも、浮かんだ疑念が晴れることはなく。渉は腕を曲げて学生服の匂いを嗅いだ。


(臭わない……いや、わからないだけか)


 汗臭さや体臭は感じられない。だがそれは自分自身だからわからないのだろう。それとも下着と同じように替えられているのか。

 思えば思うほど妙な点は浮上してくる。

 朝起きて、歯磨きと洗顔をしたい気持ちはあるが、特に顔がベタついていることも、ざらついていることもない。服装だってそうだ。ここ数日間毎日着ているはずの学生服も、肌に引っ掛かることなく滑らかだ。髪がごわつくこともなければ、頭皮の不快感もまるでない。


 今の今まで、自分のことに注意が向かなかった。

 身の回りの管理を勝手に行なっている人間がいるとするなら、それは一人しかいない。


 はあ……、と渉の口からよくわからないため息が漏れた。とりあえず用を足して、顔を洗い、歯を磨く。袖は噛んで捲ろう。

 体内時計はとっくに狂っていて当てにならない。空腹は依然耐え難いが、茉結華が戻ってくるまでの間、この部屋を探索するとしよう。

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