燃え滾る闘争心
午後の授業は体育だった。女子は体育館へ、男子は武道場で柔道と剣道の選択授業。
どちらも得意な渉は、身体がなまらないようにと柔道を選んでいる。が、残念ながら今日は見学。怪我をした手では参加させてもらえず、武道場の隅から仲間の応援をするしかなかった。
「望月その腕どうしたよ!?」
「何があったんだ!?」
「俺も聞きたかったんだよ! 病んでんの?」
「病んでない」
今日の合同相手はC組。響弥を含むいつメン――清水、ゴウ、柿沼――が揃っているわけだが、ゴウは剣道組で分かれている。それ以外は渉と同じ柔道組だ。
剣道ってなんかかっこいいじゃん! とロマンを追い求めたゴウは、武道場の反対側で
一方の柔道組は、グループを作っての組手。藤北には柔道部も剣道部もあるため、同じ選択をした経験者が監督となってクラス混同をまとめていた。渉も普段なら響弥の相手をしているが、今は彼らのアドバイス兼サポート役だ。
「俺のことはいいから真面目に取り組めよ」
「渉が心配で集中できないーっ」
響弥は口を尖らせて駄々をこねる。体育のときはいつだって集中していないくせに、調子のいい奴だ。
「怪我をしたのは俺の不注意。怒られる前に真面目にやっとけ」
渉はこれ以上勘繰られないよう、凛と萩野に言ったのと同じ理由を繰り返す。
響弥は「むうー」と、納得していない顔で唸った。怪我をしたのが逆の手だったらこの理由も通りやすいのに、利き手を傷付けたわけを誤魔化すのは大変だ。
渉は、新堂に切られたとは思っていなかった。あれは揉み合った末の事故で、新堂にその気はなかったと思う。人に刃物を向けておいて『その気はなかった』が通用するかはまた別として、少なくとも渉は事故だったと考えている。
渉が響弥に構っていると、遠くから「おーい、望月ー」と呼ぶ先生の声がした。やばい、叱られる。
ギクリとしながら振り向くと、対角線上に体育教師が腕組みをして仁王立ち――ではなく、渉を見て手招きしていた。
その後ろにいたのは――驚くべきことに、新堂明樹。新堂は渉から顔を背けて、先生の後ろに立っている。渉は目を見張り、「ちょ、行ってくる」と響弥らに告げて駆けていった。
「悪いな、望月。ちょっと手当してくれるか?」
「えっ?」
誰に? と渉が言う前に、先生は半ば無理やり救急箱を手渡すと、一瞥もなく身体の向きを変える。「よーし、お前らうまいぞー」とほかの生徒を褒めながら去っていくその背中には、あたかも俺は忙しいと文字が書いてあるように見えた。
(手当って……え?)
渉は新堂に視線を移した。新堂は舌打ちしてあぐらをかくと、気怠そうに左手を伸ばした。まさか、怪我をしたのが新堂だと言うのか。渉はその手首に目を落とし、すぐさま隣に腰を下ろす。
今日もたびたび授業をサボっていた新堂は、昼休みも教室にいなかったし、渉も探しに行っていない。それがこんな形で対峙することになろうとは、新堂自身も思っていないだろう。渉は気まずさを感じつつ、救急箱から湿布を取り出した。
新堂の手首は、ちょうど出っ張った骨の位置が、赤く打ち身みたいに腫れている。おそらく竹刀が当たったと思われるが、通常の剣道でこんな場所を怪我するだろうか? それとも
――まさか、自分でやったとか……。
そんなわけないか、と渉は湿布のサイズを手首に合わせてハサミで切る。フィルムを剥がして患部に当てて、上からテープをクロスに貼り、念のため包帯も巻くことにした。関節の湿布は剥がれやすい。後々文句を言われるより、今ここで慎重にやっておくのがベストだろう。
渉は体育教師を盗み見た。これくらいの応急処置、誰にだってできる。見学者に任せず自分でしてやればいいのに。
先生は名簿を触るばかりで、生徒らの様子など見ていない。仮に見ていたとしても、生徒を選ぶあの先生は、不良生徒の悪ふざけを注意しないだろう。新堂のことも、柄の悪さに怯えたか面倒に思ったから渉に押し付けたのだ。
「きつくない?」
包帯を巻きながら、渉は新堂に手首の加減を尋ねる。新堂は、眉間にしわを寄せた顔を大きく逸らしたまま答えない。今すぐこの場から離れたい不快感と、話しかけられたことへの苛立ちから生じる攻撃的な顔をしていた。新堂からしてみれば、渉に手当されているこの状況さえ屈辱的なことだ。
(話したくないのか……。まあ、いいけど)
だが、手当し終えたそのとき。新堂は、浮かせた渉の右手首を、素早く逆の手で掴んだ。
「っ――!」
痛みと驚きで思わず顔が引きつり、渉の身体は自然と強張る。その痛みを感じ取るや、新堂はさらに強く渉の手首を握り締めた。
「いっ……、おい……!」
声を潜めて両手で抗うも、新堂の頑丈な腕はびくともしないし、手首を引き抜くこともできない。
意味をなさない新堂の行いに、渉の内心は怪我で血が吹き出たときよりも慌てていた。どうしてこんなことをするんだ、どうして……。
傷口を抉るように爪を立てられ、抵抗する左手から力が抜ける。渉は痛みをこらえながら静かに訴えかけた。
「い、痛いんだけど」
「なら大声で言えよ」
即座に反応した新堂の答えに渉は目を見開いた。
「言えよ。俺にやられたって。言って退学にさせてみろ。得意だろ?」
得意だろ?
その言葉の意味に腹の底がぞわりと疼き、渉は額が熱くなるのを感じた。
渉が同級生を退学させたのは一年生の冬のことだ。自分の役目を果たしたと思い込んでいた渉は、その後酷いバッシングを受けた――
あいつに近付くと退学になるぞ。
噂は学年全体に広まって、一時はクラスメートからもハブられ、避けられ、関係修復に時間を費やした。火消しを先導してくれた凛や響弥がいなかったら、今頃どうなっていたことやら。
しかし、それと今の新堂とは関係のないことだ。
「……俺はもう、そんなことはしない」
「じゃあ何だよ、庇ってるつもりか?」
「庇ってねえよ……」
「そういうのマジでキモいんだよ。偽善者」
――だから、どうして……。
どうしてそんなふうに、言われなきゃいけないんだ。こっちはただ、バスケ部に戻ってほしいだけなのに。渉は泣きたい気持ちになって、ぐっと息を呑み込んだ。
「いいから離せよ」
「俺の手、折れたかも」
「は……?」
「これじゃ当分バスケできねえな。テストが終わっても治らねえかも」
まるで、バスケができないようわざと負傷したみたいな言い草である。柔道を見ていた渉には、剣道組の新堂がどういった経緯で怪我をしたのかはわからない。が、手当した感触で言わせてもらうと、折れているようには見えなかった。
「もう諦めろよ。俺に関わるの、マジやめてくんね」
新堂の放つ言葉はまっすぐなのに、瞳は泥水のように濁り果てている。憐れみと嫌悪と煩わしさの満ちた、曇った瞳だ。
渉は、「諦めないよ」と淀みなく言った。諦めない。さらにもう一度言うと、新堂の目が冷ややかな色に転じて据わる。
諦めない。新堂が渉を遠ざけようとしていることはわかった。だから渉は諦めない。諦めてやらない。たとえ新堂が嫌がろうと、逃げようと、攻撃的に傷付けてこようと。
渉は絶対、新堂を諦めてやらない。
「あいにくと俺はしつこいんでな」
「……馬鹿じゃねーの」
新堂は渉の手を離して立ち上がる。相変わらずの口の悪さだが、ひとまず解放されたことに安堵して渉は手首をこすった。
「テスト、その腕でできるなら受けて立ってやるよ」
ハッと見上げた新堂の顔は渉を向いてはいなかったが、足は隣に留まっていた。
「本当?」
「どうせ俺が勝つけどな」
そう言い残して、新堂は話しかけてくる男子をすべて無視して武道場を出ていく。この手じゃ剣道はできないと判断したのだろう。サボり込むことを決めたようだ。
――テスト勝負。
先週の金曜日に持ちかけたその話を、新堂は覚えていてくれたのだ。
渉は、ぎゅっと拳を握り締めた。右手の包帯には、薄っすらと血が滲んでいる。平気だ。この程度の痛み、どうってことない。それよりも――それよりも、
(絶対に、絶対に負けねえ)
約束の決まったテスト当日に向けて、渉は闘争心を燃やした。もう幽霊部員なんて言わせない。何としてでも新堂を、バスケ部に戻してやる。
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