価値なき優しさ
部活動が停止する月曜日の朝。
テストで渉の成績が新堂よりもよかったら、そのときはバスケ部に戻ってほしい。
言いたいことは告げた。あとは新堂がどうするかだ。
「渉くん!」
「
そんな渉の元に、クラス委員の二人が押しかけた。職員室から戻ってきたであろう
「そ、それ……! それ、どうしたの?」
「な、悩みでもあるのか? 一人で抱え込むな、まずは周りに相談を……」
「大丈夫だから落ち着け」
渉の右手首は、白い包帯がぐるぐると巻かれている。傷口は派手に抉れていたが脈の損傷は軽度だったようで、昨日保健室で手当をしている間にも出血は治まった。動脈を深く傷付けていたら危なかっただろう。
とは言え傷は痛むし、あまり力を入れられないのが現状だ。
「え、えっと、そういうあれじゃないよね? だって渉くん右利きだし……。ペン握れる?」
「代わりにノート取ろうか?」
「本当に大丈夫だから。二人共ありがとう」
左右どちらであっても、手首の包帯は目立って仕方がない。そして場所が場所なだけに、二人は見事な誤解をしたようだ。こんなに心配されるなら、今日着てきた夏服も長袖にするべきだったかと、渉は少しだけ後悔した。
「
「えっ」
凛の口から朝霧の名が出たことに渉は引っ掛かりを覚えた。こういうとき凛なら
凛は、渉が思っている以上に、渉のことをよく見ている。
「いや、朝霧は知らないと思う。響弥にもまだ会ってない」
土日も家にこもりきりだったし、怪我をしたことをわざわざメールで言い回る必要もない。まあ、そのせいでこうして朝から心配をかけてしまったわけだが。
響弥とはせっかく仲直りをしたのに、またすれ違ってばかりだ。それもこれも渉が新堂を構い出してから……。
心は繋がっているとわかっているものの、時間が合わないのはやはり寂しい。だが、ただでさえ不良に目を付けられやすい響弥だ。渉の個人的な問題で誘い込みたくない。
「どうやって怪我したんだ?」と、当然の疑問を萩野が尋ねる。
「まあ、いろいろあって……」言葉を濁す渉に、「いろいろって?」と今度は凛が続けた。
「ただの不注意だよ、そんなに大した怪我じゃない。マジで大丈夫だって――」
そのとき、ガン、と大きな音がして渉は反射的に言葉を切った。委員長の二人も驚いた顔でそちらを見ている。
音がした斜め後ろを恐る恐る振り返ると、新堂の机が、大きく前方にずれていた。椅子に深く腰掛けていた新堂は勢いよく立ち上がり、苛立った様子で教室を出ていく。「びっくりしたー」と女子の呟きが聞こえた。
(何怒ってんだよあいつ……)
新堂は登校後、珍しく教室の席に着いていた。あんなに渉を避けて、無視して、ホームルームにも出なかったのに。渉が声をかけなかった今日に限ってあっさりと教室に現れたのだ。
渉は、新堂の怒りの理由がわからず、呆れた顔で視線を戻した。
そのさなか。
こちらを振り向き、じっと見つめている
* * *
A組の前扉から一瞬顔を覗かせただけで、朝霧は廊下に来てくれた。にべもなく芽亜凛の前を通り過ぎ、足早に廊下を進んでいく。人目につきたくない芽亜凛は、一定の距離を空けながら後を追った。朝霧もそれをわかっていて声をかけない。
向かった先は生徒会室だった。芽亜凛は後ろ手で扉を閉めて、開口一番。「望月さんが大怪我したようですけど」
朝霧は適当な椅子に座って、「ふーん。心配だね」と生返事をし、クリーニングクロスで腕時計を磨きはじめた。
「あなたは関わってないんですか?」
「いくら守ると言っても個人の怪我までは防げないかな」
「そうではなくて」
そうではなくて? と、朝霧は目で話の続きを促してくる。みなまで言わずともわかっているくせに。
「あなたがしたんじゃないんですか」
「まさか。冗談だろう?」
「直接したとは思いませんが、間接的に傷付けることは可能なはずです。あなたなら朝飯前でしょう?」
朝霧は鼻で笑って、「僕はきみに協力してやってるというのに、こう何度も疑われるのは不愉快だね」と肩をすくめた。「僕を信じて任せてくれているんじゃないの?」
「信じてはいますが、人間性は別です」
「きみは人を傷付けるのが得意のようだ」
皮肉を言ってやれやれと大げさに首を振り、朝霧は腕時計を着け直す。表向きは守ると言っているが、彼の渉への歪んだ気持ちは健在だ。さて、どこまで問うべきか……。
芽亜凛が考えあぐねていると、「きみは何をしてるんだ?」と朝霧は切り返した。
「何とは」
「デートのときも今だってそうだろ? きみは僕の行動を尋ねるばかりで、自分の動きは話そうとしない。いい加減、共有してくれてもいいんじゃないかと思ってさ」
「……信じているのなら行動で示せということですか」
芽亜凛の問いに、朝霧はただ静かに口角を上げる。今まで訊いてこなかったのはそっちだが、いざ尋ねられると困ってしまう。
興味がないのではなかったのか? 首を突っ込みたくないのでは? 上辺だけの協力をしているだけだったのでは? 朝霧が深く訊いてこない理由は、そのどれかだろうと芽亜凛は思っていた。ここで訊く朝霧はつまり、己の信用を試しているのだ。
はあ、と芽亜凛はため息混じりに言った。
「なんてことないですよ。
「ダウト」
朝霧はにこりと笑んだまま小首を傾げ、「そうじゃないだろ」と断言する。
「ほかに協力者がいるんだろう? 生徒じゃない、大人の協力者が」
はったりか鎌をかけているようには見えなかった。痛いところを突かれて、芽亜凛は「どうしてですか」と即座に反応する。
「
「笠部先生のことは関係ありません」
「じゃあもっと前からだ。どの道きみは警察と繋がっている。そうだろう?」
「私だって、ぼうっとするときくらいあります」
「それも警察から何か聞かされたからだ。きみはいったい何を調べている? 何をそんなに恐れてるんだ?」
犯人のことに決まっているでしょう。素直にそう言ってしまっていいのか、先を知り得ない芽亜凛には正しい答えが判別できなかった。
だけど芽亜凛は、「言いたくありません」と、はっきり拒絶した。
この好奇心は危険信号だ。言えば響弥は――
「僕は死なないよ」
朝霧は、穏やかな声で言った。
「きみが周りの不幸を恐れているのなら、僕は死なないでおいてやる。きみが死ぬなと言うのなら、僕だけは生きて藻掻いてそばにいるよ」
それが当たり前であるかのように朝霧は無感動に言い切る。そう言える自信が、いったいどこにあるのだろう。
いや、自信も保証も彼には最初から存在しない。だってこれは、朝霧のジョークなのだから。本気で思っているわけじゃない。空っぽの誘惑だ。
芽亜凛は奥歯をぎゅっと噛んだ。嘘なのに。戯言なのに。不覚にも締め付けられてしまう心臓。なんてありさまだろう。本当に、笑えない冗談だ。
「あなたって……たまに、引くほど優しいですよね」
「僕はいつでも優しいよ。引かないでくれると嬉しいんだけど」
芽亜凛は目を細めて薄く笑った。
「言いませんよ。それで落ちるほど安くありません」
「残念だよ」
「でも知りたいという気持ちは受け取っておきます。だからまだ……今は言えない、です」
「それじゃ、それもきみの優しさということにしておこう」
芽亜凛は自分を優しいと思ったことはない。けれど朝霧の言葉を価値なき優しさだと感じたように、芽亜凛の隠し事を優しさだと言うのなら、それもいいだろう。
「あの、望月さんのことなんですけど」
芽亜凛は、思い出したように最初の問いを導き出した。
「最近E組の問題児たちと揉めているようなんです。それもご存知ありませんか?」
「初耳だね」
と、朝霧は眉をひそめる。「そうか、それで望月くんは怪我を……。可哀想に」心の底から残念そうな顔で首を振った。
渉が最近、新堂
あれほど朝霧と一緒にいた渉が、急に新堂たちと絡むようになった。芽亜凛はその手引きを朝霧がしているんじゃないかと懸念していたが……違うのか。
芽亜凛が響弥と付き合っていたあの頃のように。今度は渉が、危険な目に遭わなければいいけれど。
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