アルバム
今日も一日が過ぎていく。帰りのホームルームを終えて、凛は隣で背伸びした。
「ふう、終わったー! 一緒に帰ろ? 今日部活なしだし」
朝から降り続いていた雨は止んでいる。にも関わらず今日の部活動はなしだと、掃除前に校内放送が流れた。喜ぶ者も疎む者もいたが、そのときは小雨が降っていてグラウンドの状態も悪く、疑問を抱く者はいなかった。
部活がない分、凛と千里と過ごす時間が増える。カフェでお茶するもよし、スイーツを食べるもよし、カラオケではしゃぐもよし。
だが、芽亜凛は緩む頬に鞭を打ち、首を振った。
「先に帰ってて。探したいものがあるの」
放課後凛と話すことで、一種のセーブポイントを迎えている気がする。人生にセーブアンドロードはないけれど、一歩一歩目標に近付いているようなノスタルジーに、今日は特別浸ってしまう。笠部先生の件が解決したからだろう。
凛は、気になるといった顔つきで周囲を窺い、「……手伝おうか?」と声を落とした。
正直これから探すものは、藤北に詳しい人物がいたほうが捗る。芽亜凛は逡巡したのちに目的を明かした。
「アルバムが見たいんだけど……」
凛は顎に手を当てる。
「アルバムかぁ」
「部活も急になくなったし、先生たちも忙しそうじゃない? この状況で訊くのは気が引けて、どうしようかなって考えてたの」
部活がなくなったのは笠部淳一が出頭したためである。学校は、警察やマスコミが来ることを考慮し、下校を早めたのだ。
昼休み以降、ネコメは戻ってこなかった。本職に回ったと察していたのは芽亜凛だけである。ほかの者は大して気にも留めず、留守にも気づいていない。別クラスにいるか、勉強で忙しいと思ったはずだ。
警察が来るとすれば、場所は職員室。先生たちは緊張と不安で、心なしか雰囲気がぴりついている。そんな場所へのこのこ出向いて、「アルバムが見たいです」とは言いづらい。
視界の隅で、千里が開けっ放しの扉をくぐってやってきた。
「やっほー! 一緒に帰ろ――」
「事務員の先生なら知ってるかも。私も手伝うよ」
向かい合う凛と芽亜凛の間で千里がぱちくりと瞬く。
「なになに、手伝いごと?」
「宝探しだよ、ちーちゃん」
凛は、ふふん、と得意げに笑った。
図書室に保管されている呪い人のファイルの中身は、ネコメが集めた新聞の切り抜きと名簿のみ。アルバムはまた別の場所に保管されている。
芽亜凛は凛に連れられて、事務室に立ち寄った。アルバムの場所を尋ねると、女性事務員はあっさりと教えてくれた。アルバムは古いものから新しいものまで、すべて資料室に保管されている、と。
お礼を言ってさっそく資料室に向かった矢先、ドアノブに手をかけた凛を「待って」と千里が止めた。
「何か聞こえない? 話し声……」
え? 芽亜凛と凛はきょとんとする。事務室のそばは比較的ひとけがなく静かな場所だが、足音や生徒の声は廊下を通して響いてくるもの。それ以外の声だとしたら、ひとつだけだ。
三人は、資料室の扉に耳を当てた。なかで誰かが話している。一人……二人。男子と女子の声だ。
聞き覚えがある、この声は……。
「もう好きになってほしいなんて言わない。だから、お願い。一緒にいて……?」
「…………」
二年A組の
「どうやって?」
「えっ」
「どうやって続ける気? だってほら、もうないんだろう? 親から借りられる?」
「な、なんとかする……!」
男子の冷ややかな声が続いた。
「どうやって」
「ば、バイトとか……」
「無理しなくていいよ」
「む、無理じゃないもん!」
小坂は捨てられまいと食い下がる。相手の口調は淡々としていて、突き放した物言いだ。学年のカースト上位にこんな態度を取れる男子は一人しかいない。朝霧
三人は顔を見合わせる。
「喧嘩してるね……」
「修羅場、いやこの場合は痴話喧嘩かぁ」
「気にせず入っちゃう? 音立てれば気づくかな」
「でももうちょっと聞きたい」
「もう、ちーちゃんってば」
言いつつ凛もノリノリで聞き耳を立てる。なかの二人がしているのは金銭の話だが、凛と千里にはちんぷんかんぷんだろう。
「僕は身体のほうが心配だよ。病院には行ったの?」
「まだ……」
「不安なら付いていくし、お金なら僕が払う。二人の問題なんだから、ちゃんと検査しないと」
「うん、そうだけど……そう、だけど……」
小坂の声が弱々しく消えていく。凛と千里は険しい顔をして首を傾げた。
「何の話?」
「うーん、昼ドラ? なんかドロドロしてるね」
想像妊娠の話よ、と言えば二人は声を上げて飛び退くだろう。凛は姿勢を低くしたまま、そっと扉を開ける。
資料室は薄暗く、見回しても人はいなかった。代わりに、隣の物置部屋でふたつの人影が揺れている。
「この続きはちゃんと診てから話そう。いいね?」
扉に塞がれたくぐもった声が続き、背の高いほうの影が消えた。芽亜凛たちが入ってきたことにいち早く気づいたのか、めざとい奴だ。
朝霧が出てしばらくし、小坂の影も消える。三人はどっと息を吐き出した。
「あぁ、ドキドキしたぁ」
「なんか悪いことした気分だね……」
「いいじゃんいいじゃん、たまにはこういう刺激も大事だよ。青春青春!」
真面目な性格の凛だからこそ、やんちゃな千里と相性がいいのだろうか、と芽亜凛は改めて思った。資料室の電気をつけて二人が歩き回る。
二人は人影の正体に気づいていないようだ。それでいい。口封じに接してこられても面倒事が増えるだけである。
それにしてもあの男……朝霧は、渉に声をかけただろうか。二人が揃っているところをまだ見ていない。せっかく助言してやったのに、凛を誘ってきたら水の泡。不本意だが、行動の読めない彼にはもう少し後押ししたほうがよさそうだ。
「えーっと……あった! 芽亜凛ちゃん、こっちこっち」
先に資料室の棚を見ていた凛に呼ばれる。アルバムは、日の当たらなそうな奥まった場所にずらりと並べられていた。背表紙から二〇〇九年のものを選んで抜き取る。埃っぽいにおいが鼻先をくすぐった。
校舎の風景に続いて『お世話になった先生方』のページを開く。教師だけの集合写真だ。下部の名前欄から榊先生を探す。一番下の列の左から三番目に『榊創』の二文字が見えた。
――サカキ……ソウ?
前列で椅子に腰掛けて微笑んでいる男。これが例の殺人教師なのか。C組担任の
芽亜凛は二年E組のページを開いた。もっと大きく榊先生の写真が載っている。真っ黒なスーツをラフに着こなして、やはり穏やかに微笑んでいた。
写真だけでは性格も人柄も読み取れないが、どこか陰りのある印象を拭えない。目に光がないのだ。あの茉結華でさえ瞳は鋭くギラついているというのに。
――彼の目は、澄んだガラス玉だ。
芽亜凛を挟むようにして、凛と千里はアルバムを覗き込んだ。「あ、金古せんせー!」と、千里が生徒の顔写真を指さす。芽亜凛はぎくりとした。
十年前のアルバムで、ページは二年E組。担任ばかりに気を取られていたが、当然そこにはネコメがいる。
「もしかして芽亜凛ちゃん、せんせーが目当て?」
「えっと……まあ、うん」
苦笑いで答えると、千里は「意外だねえ」と腕組みした。
芽亜凛は、十年前のネコメの写真に目を落とす。撮影したのは屋上から飛び降りる前か。怪我もなく、薄い笑みを湛えてカメラを見つめている。
今より髪が長く、線が細い。病弱そうな印象を受けた。普段は厚着で体格を誤魔化しているのだろうか、失礼ながらそんな感想を抱いてしまう。
「せんせー昔から綺麗だね……」
「うん。てかほんとに地毛なんだね、すごいね」
「モテそう」
「どっちに?」
「どっちって?」
左右で凛と千里が議論する間、芽亜凛は名前にふりがながなくてよかったと安堵した。『金古流星』のままならまったく問題ない。最悪凛にはバレてしまってもいいが、年齢詐称にも千里が気づいた様子はなかった。
榊は神永家と繋がっていたようだが、内部の人間じゃないらしい。神永榊という名前の可能性も秘めていたため、ひとつの憶測を払拭しておきたかったのだ。
だが同時に疑問も増えた。榊先生は、神永家とどういう繋がりがあったのだろう。
* * *
透視鏡の向こう側で、井畑芳則の取り調べが行われている。捜査員は生活安全課のベテラン刑事。元生活安全課の
「どういうことだ、これは」
捜査室にやってきた班長の
長海は苦い顔で口ごもる。
「それが……高校教師が関与を自白したようで」
ネコメとの通話後、長海は急いで朱野警部に伝言を回し、逮捕と家宅捜索令状を取ってもらった。その頃井畑は会社におり、生活安全課の協力を得て緊急逮捕。ならびに家宅捜索も行われ、主にパソコン、スマートフォン、デジタルカメラなどの私物を押収した。
井畑芳則、年齢は三十四歳。痴漢、盗撮などの前科は今のところ挙がっておらず。しかし証拠は揃っているのに、彼は黙秘を続けていた。
風田はネコメの背中に視線をやる。普段なら生安に任せて終わりの捜査に何を肩入れしているんだ、と言いたげな表情だ。まるで自分まで責められているような焦りが、長海の胸を掠めた。
「押収品のチェックを任されました。報告書はきちんとまとめます」
「そうしてくれ」
実際はネコメが自らやると言い出したが、生安から頼られていることを長海は必死にアピールする。
ネコメは押収したパソコンを開いて見ていた。機械音痴な長海が触るより、優秀な相棒が扱ったほうが早いのは火を見るよりも明らか。
長海は、スクロールされる画面を一瞥し、思わず目を逸らした。映し出されていたのは大量の写真だった。
「くそ……」
悪態をつき、深呼吸をして画面を見る。写真はどれも過激の一言で表せた。被写体は中高生と思われる層がほとんどだ。
制服姿の女子高生や、白い体操服の中学生。なかには裸同然の格好をした姿もある。藤北女子の制服は一目瞭然だった。角度からして隠し撮りらしい男子のものもある。さらには、もっと幼い子供の裸体まで。
「撮影者は笠部先生だけじゃないようですね。もっと広範囲。井畑本人が撮影したものもあるでしょう」
「ほかにもゆすっていたのか」
「パターンとしてはありえます。メールはほとんど削除されていますが、写真はこのとおりですね」
淡々と呟きながら、ネコメは次々と写真一覧を更新する。長海はミラー越しに井畑を睨みつけ、チッと舌打ちした。
人畜無害そうな顔で今も平然と黙秘を続けているが、こいつはとんでもない変態野郎のようだ。削除されたメールは
「余罪の追及が必要だな」
ほかにも井畑に脅迫され、加害者となってしまった者がわんさか出てきそうだ。撮られた未成年者たちの今後の人生も危ぶまれる。
ネコメは突如として立ち上がり、押収品のノートパソコンを持ったまま捜査室を出ていった。長海が呼び止める間もなく、相棒は向かいの取調室に現れる。
「この子との関係は?」
パソコンを机に置き、画面を井畑に向けてネコメは問いただした。割り込まれた捜査員は「何かねいきなり」と眉をひそめている。
長海はため息を殺して取調室に乗り込んだ。
「ノックのみで失礼します」
ただでさえ班長がご立腹なのに、これ以上勝手な真似をされては庇いきれない。
長海はネコメの腕を掴み、連れ戻そうとした。が、細い体躯からは想像できないような力で、ネコメはその場に踏み留まる。
何なんだと、長海はパソコンを覗き込んだ。映っているのはやはり、写真である。
公園のベンチに腰掛けている少年。キャップ帽を目深に被っている――髪が真っ白だった。
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