緊急逮捕

「俺はこの男に脅されて、この一年半言いなりになってきた」


 笠部淳一は自身の話を締めくくる。おそらく誰にも打ち明けたことのない話を。

 井畑という男に人身事故の弱みを握られ、罪を隠すためにまた新たな罪を重ねていった。自分の良心を痛めつけることで、己に、歯止めのきかない罰をかしたのだ。

 保健室で安浦が言っていた『笠部先生、申し訳ないって謝ってました』という話とも辻褄が合う。芽亜凛が凛を助ける際、彼が狂乱したのは、撮影によるトラウマを抉られたため。

 笠部は心の奥底ではずっと、捕まりたかったのかもしれない。


「……助けは求めなかったんですか、誰かに」

「言えるはずがない。俺は、生徒からも脅されるようになっていた」


 笑える話だろう、と笠部先生は片頬だけで笑う。

 先生の目的は性行為ではない。生徒を脅し、服を脱がせ、写真を撮ることだ。それらは決して許される行いではない。だが少なくとも、先生は手を出さなかった。

 そこを逆に付け込まれたか。想像なら容易くできた。


 写真だけならいくらでも撮らせてやる。その代わり金をよこせと、複数人の女子にたかられる。または芽亜凛のように別の生徒が乗り込んできて、現場を押さえる。

 そして、バラされたくないなら――と、井畑に続いて再び悪夢のような要求がはじまった。脅していたのは在学生か、それとも去年の卒業生か。

 笠部はうろたえたはずだ。抵抗もしただろう。しかし生徒のほうが『強かった』。

 うつ病が悪化するのも頷ける。これではあまりにも、笠部先生が惨めだ。


「俺は井畑に脅し返した。俺が捕まればお前のこともバラすと。……だが、相手も同じことを言ってきた。それどころか、『証拠はどこにもない。俺は逃れられるがお前は無事じゃ済まない』と言われた。俺が捕まれば、メールのやりとりで相手の素性も筒抜けだというのにな。結局、俺は怖かったんだ、この職を失うのを。……教師失格だな」

「――そんなことないですよ」


 柔らかなテノールが落ちてくる。芽亜凛は後ろを振り向いた。来てくれると、思っていた。


「確かにあなたは過ちを犯した。人としては、半人前かもしれません。でもそれは俺も同じです。完璧な人間なんてどこにもいやしません」


 生物学室の扉に手をかけていた刑事、金古メテオは、お馴染みのモッズコートを羽織った正装で歩み寄る。


「笠部先生、あなたは俺に、心理学の楽しさを教えてくれました。どうしようもなく絶望の淵に立たされていた俺を引きずり上げ、言葉という武器を与えてくれた。リンゴの実験だって、笠部先生が見せてくれたんですよ」

「……そうだったか」

「はい。俺は憶えています」


 笠部淳一は、ネコメが時を繰り返す間に交流を深めたうちの一人なのだろう。その交流は今の笠部とも行われていて、だから芽亜凛の正体にも気づき、話も通じた。

 ネコメに心理学を教えたのは今の笠部ではないかもしれない。でもネコメにとって、笠部先生は『笠部先生』だ。この世にたった一人しかいない、確かな存在。

 何十回、何百回目の出来事かは曖昧でも、ネコメは昨日のことのように憶えている。


「先生、やり直すなら今です。罪を認めて償いましょう。俺が力になります」


 教師だって人間だ。追い詰められて正常な判断力を失い、してはいけない罪を犯すことはある。

 ネコメは知っている。大切なのは、そこから立ち上がることだ。


「……リセットか。できるか、俺に……?」

「生きていれば人は何度だってやり直せる。どこからでもいいんです。何歳からだっていいんです。必要なのは、強い意志ですよ」

「ものは言いようだな」


 笠部は苦笑をし、頷くように肩を落とした。


「橘に呼ばれてきたのか」

「ええ、話は彼女から聞きました」

「お前はまだ、そうやって手助けしているのか。さかきが死んだあとも、繰り返すチカラは健在、か」


 芽亜凛は隣に並ぶネコメを見上げた。懐かしむように目を細め、薄く微笑んでいる。


(榊って……亡くなった殺人教師……?)


 自殺した……いや、ネコメ曰く仲間に殺された可能性が高い、呪い人のすべての元凶。実名はテレビでも新聞でも控えられていたはず。

 榊先生。それが、殺人教師の正体か。


「あの……ネコメさん。笠部先生を陥れた雑誌記者の件、もし進展があったら教えていただけませんか。私も協力できるかもしれません」


 記者、井畑芳則が勤める『ムイチ』は、藤北で起きる事件を呪い人の復活として大々的に取り上げる、忌々しいオカルト雑誌だ。笠部先生の死や千里の失踪、さらには学校に送られた不審物の中身まで事細かに書かれる。

 もしも井畑が茉結華と関係しているのなら、あのときの情報源とも結びつく。


「なるほど。前の俺は教えてくれなかったんですね」


 ネコメの問いに芽亜凛は小さく頷いた。無理を言っているのは承知だ。一般人、それもただの学生に捜査情報は漏らせない。

 だが、神永かみなが家の調査を依頼したときのように、当事者として関わっておけば──


「わかりました」


 願いが通じたのか、ネコメは承諾した。芽亜凛はほっと胸を撫で下ろす。等価交換だ。

 未来を知っている者として警察に協力する。警察は協力者に情報を渡す。

 事態はこの先、大きく動くだろう。


    * * *


 ネコメは校長室で笠部の件を話した。自首という形でこれから逮捕されること。昼休みが終わる前に、この学校を去ること。罪を償い、社会復帰するときは、また藤北で雇ってあげてほしいという私情も。

 笠部は職員室で荷物をまとめていた。退職届はすでに提出済み。生徒の前で挨拶はしない。逃げも隠れもせず、彼はこれから警察署へ向かう。

 ネコメは校長室を出てスマホを掲げた。迷わず相棒の連絡先をタップする。長海はツーコール目で出た。


『なんだ』

「緊急です、引っ張りたい男がいます」

『は……?』

「名前は井畑芳則。オカルト雑誌ムイチの記者です。罪状は、児童ポルノ所持容疑。証拠はこちらで押さえました。逃げ出す前に生活安全課セイアンに応援を。所持品も押収してください」


 電話の向こうで息を呑む気配がした。カサリとビニール袋を置く音が続く。

 張り込みながら昼食を取っていただろうネコメの相棒は、数秒後「了解」と返し、エンジンをふかした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る