笠部淳一

 一月の、冬休みが明けた頃だった。藤ヶ咲北高校では三年生の登校が減り、校舎も徐々に寂しさを増していく。

 自分が担任を受け持っていたら。もっと教職に没頭し、この寂しさも紛らわせるのにと、笠部は思わずにはいられない。仕事、仕事、仕事ばかりで妻に逃げられたというのに。

 皮肉にも、担任になりたいという思いは、家族を失ってかえって向上したらしい。愚かしさに自嘲する。


 寒い冬の時期になると妻を思い出す。人肌恋しいと本能が喚いているのだ。彼女が家を出ていってもう五年経つ。別居生活と言えば聞こえはいいだろうが、この歳にもなって実家に帰られるとは、情けない話だ。

 妻は笠部の迎えを待っている。とっくに気づいていたけれど、凝り固まった強情は迎えに行く気を許さなかった。月日だけが流れていき、今年の正月も一人で鍋を食らい、一人で餅をたいらげた。

 子供がいれば妻の気持ちも関係も、少しは変わっていたのだろうか。夫婦を繋ぐ架け橋があれば――

 違うな。言い訳だ。変わるべきなのは自分自身だ。仕事ばかりでなく、少しはあいつを気遣ってやれていれば……。


 悔やんでも遅い。もう何もかもが遅すぎた。事故を起こし、取り返しのつかない罪を背負ったことだって――

 笠部の脳裏によぎるのは、冬の夜道でコントロールを失ったハンドルの感触と、車体にぶつかった強い衝撃。ヘッドライトの脇でちらつく大きな黒い塊。


 車を降りて目にしたそれは歩道で丸くなっていた。近づかなくてもわかる、初老の女の背中だった。

 どことなく、妻に似ていると思った。

 錯覚してしまったから――邪な気持ちが湧いたのだろう。

 なぜ俺ばかり苦しむんだ。お前は逃げたはずじゃないか。なのにどうして、この期に及んでまだ俺を苦しめる気か。何が望みなんだ。これ以上俺から何を奪いたいんだ。

 ――妻は逃げた。だったら俺も、逃げてしまえばいい。


 笠部が事故を起こしたのは、学校の帰り道だった。路面凍結でブレーキが間に合わず、衝突後、一度は車を降りたものの、恐れをなした笠部はすぐにその場から去った。現場は家の近くで、防犯カメラのない道だった。

 暖房の効いた車内の乾いた空気が、一気に不快なものへと変わる。頭から背中にかけて、脂汗が滝のように流れた。震える手でハンドルを強く握りしめる。

 今でも、なぜ、と不思議に思う。なぜ引き返そうと思わなかったのか。逃げることで俺は誰かに裁かれたかったのだろうか。自己防衛する一方、己の破滅を望んでいたのだろうか。


 それからしばらく、テレビの報道に怯える日々を過ごした。あの日の事故が載っていないかと新聞に目を通し、訪問者にドアを叩かれるたびに寿命が縮んだ。

 そして、あの男が訪ねてきた。

 一週間が経ったある日、藤ヶ咲北高校の駐車場で、奴は笠部を待ち伏せていた。


「笠部先生ですね。お時間よろしいでしょうか?」


 声をかけてきたのは、厚着のジャンパーに身を包んだ中肉中背の無骨な男だった。歳は三十代か二十代後半と見られる。怒鳴れば尻尾を巻いて逃げそうな、陰気な風貌だった。


「……あなたは?」


 無愛想に聞き返すと、男は印刷済みの写真をぴらりと見せてよこした。


「お話は店に着いてからにしましょう。ご安心を、私はあなたの味方ですよ」


 そんな甘い言葉を吐きながら、男は笠部の車に乗り込む。目だけが笑っていた。

 写真は、笠部の轢き逃げ現場を捉えていた。車体の横でうずくまる女の影。ナンバープレートごと収められた車。ヘッドライトに照らされた、血の気のない笠部の横顔。

 男がすぐに名乗らなかったのは職業柄だろう。明かせば笠部に逃げられると思ったのか、名刺をくれたのは予約した店に入ってからだった。

 二人は和食店の個室で相対した。


「申し遅れました。わたくし、こういった者です」


 オカルト雑誌ムイチの記者――井畑芳則の名刺を受け取って、笠部は真っ先に問うた。


「金か」

 井畑は吹き出して笑う。「ちげーよ、とんでもない」

「じゃあなんだ。なんの用があってあんな写真を……」

「撮れたのは偶然ですよ。笠部先生が教師だったのも、偶然」

「何が言いたい?」


 井畑は不敵に笑って口調を崩した。


「取引しませんか、俺と。金はいらない。その代わり、写真が欲しい」

「……写真?」

「あんた高校教師だろ。俺は


 目を爛々と輝かせて井畑芳則は熱弁した。

 ――どんな写真でもいい。制服姿、下着、着替えの最中、肌の露出は問わない。授業中でも休み時間でもいい。俺は未成年の写真が欲しいんだ、と。

 笠部は鼻白んだ。こいつは何を言っているんだ。生徒を売れだと? ふざけるのも大概にしろ。

 もちろんこんな男の戯言に乗るつもりはなかった。しかし、


「断ったら?」

「あんたが職を失うだけだ」


 冷ややかに脅されて、笠部の思考は停止した。

 笠部がまだ失っていないもの、それは教師という職である。妻に見捨てられてもなお、教師という道は手放せなかった。いや、手放すことを恐れた。

 俺の生きる、唯一の拠り所だったから――失うわけにはいかない。


 笠部は井畑の申し出を受け入れた。奴との奇妙な関係は、こうしてはじまったのだった。

 ――未成年の写真収集が趣味の、変態記者め。

 最初は、店で言われたとおりの注文で済んでいた。日常の何気ない光景を中心に撮り、井畑のメールアドレスに送信する。やましいことはない簡単な作業だった。

 だが、井畑の要求は次第にエスカレートしていった。下着や肌の露出をせがむようになり、拒もうとすれば例の内容ネタでゆすられる。仕方なく盗撮した写真を送ると、もっとアップだのカメラ目線にしろだのと、要求はさらに多くなった。


 笠部は辟易していた。奴の欲望を満たすために、いったいどれほどの時間を費やしたことだろう。

 五年前に発症したうつ病は悪化の一途を辿った。実家に逃げ帰った妻や、井畑の脅迫。そして自分自身に対する鬱屈が、募り募って時折莫大な怒りに変わる。

 笠部は自分を抑えられなくなっていった。生徒に嫌われ、愛想を尽かされるようになっても。

 それでも、笠部はやめなかった。やめる勇気がなかった。

 教師をやめたら自分自身を見失う。妻を失い、教職を失い、何もかも失った無価値な男になるだけだ。

 後戻りできない。


 ――この世は弱肉強食だ。いつしかそんな言葉が口癖になっていた。強いものが弱いものを食らう。何ひとつおかしくない、自然の摂理。

 笠部淳一は、誰よりも弱い立場にいた。教師でありながら、生徒よりずっと弱い立場に。

 とっくに自覚していた。堕ちるところまで堕ちて、自力では這い上がれなくなっていた、と。

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