言霊実験
テニス部のマネージャーになったことを凛と千里に伝えると、二人は弾かれたように笑んだ。
凛は「ちーちゃんと同じだ!」と手を叩き、千里は「やったぁ!」とガッツポーズする。
とは言え、雨天続きの梅雨時では外での練習はままならず、テニス部の活動は室内での筋トレやランニングが中心だ。藤北の部活動は緩いため、場合によっては活動自体が休みになる。
それでも千里は照れくさそうに笑っていたし、彼女に認められた気がして芽亜凛の心もわずかながらに踊った。
違う選択を選ぶのは、不安が募る勇気ある行い。けれど、今は変化そのものを望んでいる。歩みを止めてしまったらすべて崩れ去る。そんな気さえしてならない。
いつもなら独特の緊張感を、六日の四時限目に行われる生物学に抱いていた。
凛の教科書やその対処法。笠部の目をどうくぐり抜けるか。昼休みに欠けた生徒はいないか。芽亜凛は周りに気を配り、その都度対処に回ってきた。
だが、今回は違った。不思議と気持ちは落ち着いている。笠部先生の苦悩を聞き、彼を一人の人間として認識できたからかもしれない。ネコメがいてくれるという心強さはもちろんあるけれど。
「ごめんね、ありがとう」
芽亜凛が隣で教科書を見せると、凛は両手を合わせた。
授業終盤のプリント整理の時間に、笠部は通路を行き来する。指摘されても下手な小細工などせず、忘れたことを素直に認めれば、とりあえずは凛と笠部の接触は回避できるはずだ。
だが今回に限って、その時間は訪れなかった。
授業終了まで残り十五分に差し掛かったとき、
「よし、授業してみるか」
笠部はチョークを置いて、黒板脇にいた『
え? と生物学室がどよめく。笠部の授業だからと大人しくしていた女子たちも、顔を見合わせて隠しきれない笑みを浮かべる。
分厚いレンズの奥の笠部の瞳は平然としており、この展開を予想できていなかった芽亜凛たちを嘲笑うかのように口角を上げている。ネコメが刑事だと知ってか知らずか、ベテラン教師らしからぬ意地悪だ。
芽亜凛は自分の鼓動が早まるのを感じた。大丈夫だろうか。
指名されたネコメは目をしばたたかせながら教壇に立ち、クラスメートをひと目眺めてから、柔和な笑みを湛えた。
「リンゴの言霊実験を知っていますか」
しん、と静まり返った教室で「なんですかそれー」と控えめに声が上がる。ネコメは身振り手振りで話した。
「ふたつに切ったリンゴに、毎日声をかけるという実験です。ひとつはポジティブな言葉を。もう片方にはネガティブな言葉をかけ続けます」
「どうなるかわかる奴はいるかー」
笠部の問いかけに、眼鏡優等生の
「ネガティブな言葉をかけ続けたリンゴはすぐに腐り、ポジティブな言葉を続けたリンゴは長持ちします」
「そのとおり。これをリンゴの言霊実験と言います」
ネコメは頷き、完璧な歯列を覗かせた。
「言霊というのは、言葉に宿る力そのものです。私たちが日々当たり前のように交わす言葉には、念や魂が宿っている。それは相手を癒やすこともあれば、人を傷つける凶器にもなります。最も容易く、身近で、誰にでも使える魔法がこの『言葉』なんです」
彼の眼差しはどこか真剣めいていて、笑っていた生徒らもいつしか固唾を呑んで聞いていた。そこにいたのは教育実習生の金古せんせーではなく、刑事と経験者を重ね合わせた一人の大人だった。
「みなさんは使い方を間違えないように。その証明ともなるのが、このリンゴの言霊実験でした。――私が先生だったら密かにやってお見せしたんですがねー」
ふふ、と微笑んでネコメは笠部を一瞥する。
「俺はやらんぞー。お前じゃあるまいし」
「今度リンゴ買ってきますよ」
「やらんでいい」
まるでネコメはすでにやったことがあるような言い回しだった。
笠部は時計を見てプリントを手に取ると、
「リンゴには口で言うだけでなく、紙に書いて貼っておくでもいいぞー。ポジティブな言葉とネガティブな言葉で分けてな。気になる者はやってみたらいい」
喧嘩するでもなくむしろネコメの話をフォローして、笠部先生はプリントを配る。
芽亜凛は人知れず、ネコメらしい話だと思った。前に教えてくれたじゃないか。
言葉には魂が宿る。時を繰り返すことで、いつか芽亜凛のことを憶えている人が現れる――
忘れかけていた。今はっきりと思い出した。
そんな人がすでにいるとは、芽亜凛はまだ気づいていない。
プリントを配り終えてすぐチャイムが鳴った。次までに各自まとめておくようにと笠部は言って、号令がかかる。凛の忘れ物には気づかぬまま、四時限目は終了した。
念願の昼休みに、みなウキウキと生物学室を出ていく。ネコメを囲むようにして廊下をスキップする者もいた。
芽亜凛は「先に行ってて」と凛に告げて、クラスメート全員がいなくなるまで出入り口の隅で待った。
笠部は誰も引き止めていない様子だった。前回の被害者である
芽亜凛は、蛇口で手を洗っている笠部のもとに歩み寄った。
「笠部先生」
笠部は振り返り、少し驚いた顔をする。芽亜凛は小さく一礼した。
「金古せんせーと、お知り合いなんですか」
「ああ、元生徒だ」
二人のやり取りを見てもしやと悟ったことだが、的中したようだ。ならば話が早い。
「私を見て、何も感じませんか」
笠部は探るような視線を芽亜凛に向ける。水道の水を止めてタオルで手を拭いた。うんざりしているような、退屈そうな顔つきになる。
「前の俺が話したのか。それとも何かしたのか」
芽亜凛がネコメと同じであると、完全に見抜いたようだった。経験者に話す口ぶりで彼は言う。
「忠告か、説教か、俺を懐柔しに来たか。助言でも欲しいのか」
「話を聞きに来ました」
「なんの話だ」
「笠部先生の話です」
芽亜凛は物怖じしない。
「先生がしていることも、これからすることも、私は知っています。どうしてなんですか、教えてください」
「……はははっ」
笠部は乾いた笑い声を上げて、眼鏡の奥の瞳を細める。目尻のしわがいちだんと深く刻まれた。
「金古が言いそうなことを言うなぁ、
笠部の声色は友人に接するみたいに温かかったが、有無を言わさぬ厳しさも含んでいた。子供に構っている暇はないと、机上の片付けに移る。
芽亜凛はおもむろに口を開いた。
「私はカメラが嫌いでした」
笠部の手は休まらない。
「許可なく向けられるスマホのレンズが。どこからともなく鳴るシャッター音が。すべて自分に向けられているんじゃないかって、今でも怖くなります」
「いじめか」
「はい」
芽亜凛はうつむいた。
「私の助けての声は、誰にも届きませんでした。差し伸べられた手は力強かった。でも自分勝手で……見返りを求めて穢れていた」
――だから、先生のことも。
笠部は手を止めて目線を持ち上げる。
「嫌いでした」生徒に手を出す教師が。「最低でした」笠部も、
死んでしまっても、「自業自得だろうって、思ってました」
芽亜凛は自分の胸に手を当てた。心臓の音を確かめるように、鼓動を感じ取るように。
「憎しみからは何も生まれない。笠部先生は、被害者なんです。外れた世界に取り残された、自分の意思で帰れなくなってしまった、たった一人の人なんです」
笠部先生のことも救いたいんです。芽亜凛はそう続けた。
ネコメのようにうまく言えなくたっていい。この気持ちが、ほんの少しでも笠部先生に届けば――
笠部はじっと耳を傾けていたが、やがてゆっくりと息を吐き踵を返した。準備室に消えていく白衣の背中を見つめて、芽亜凛は静かに肩を落とす。
説得は失敗に終わったかと思った、次の瞬間。
準備室から出てきた笠部は、一枚の白いカードを手にして戻ってきた。
まっすぐ芽亜凛に差し出したそれは名刺。
書かれていたのは、見知らぬ男の名前。
『オカルト雑誌ムイチ 記者
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