第三話
変化を求めて
今どこだ。昼間と同じ台詞を電話越しに言って、夜の捜査会議を終えた
いつ来たんだとか、どうして捜査会議に出ないんだとか、なぜ屋上にいるんだとか。文句は次々と湧いたが、まずは頭を冷やそうと自販機でコーヒーを買う。できるだけ円滑なコミュニケーションを心がけようと、ネコメの分も買って彼へと差し出した。
「俺苦いの駄目なんですよ」
手のなかで缶コーヒーがへこみかける。ぶん殴ってやろうか。
「お前は何をやっている」
「見込み捜査ですよ」
「見込み捜査?」
犯人および犯人像を決めつけて行う捜査のことだ。あまりいい意味で使われる言葉ではない。
特に、正義だの刑事の勘だのとほざく連中が使う場合は最悪である。証拠もなしに暴走した権力は、誤認逮捕や冤罪の引き金となる。
長海の表情からその思考を読み取ったのか、ネコメは小さく笑った。
「俺が十年前の未解決事件を調べてるのは長海さんもご存知でしょう?」
「それと
鎌をかけたつもりだった。
長海とて何もしていなかったわけじゃない。ネコメの異動願いを再度洗い流して、『ある学校の記事を書いた新聞記者殺しの捜査』まで辿り着いた。そのある学校というのが、おそらく藤ヶ咲北高校。ネコメが昼間いた学校というのもそこなのではないか、と。
「もうわかっているくせに」
どこか嬉しげな表情で、ネコメは素直に肯定する。長海が進んで調べたことに喜んでいるようだった。
やはりこいつは苦手だと、長海は改めて思う。何を考えているのかわからないし、そもそも本当に刑事なのかすら疑わしく思えてくる。
しかし、ネコメの言葉は本物だ。だから問いただせ、と助言をくれたのは
信じるか否かはこの際後回しにする。長海はとにかくネコメの話を聞かねばなるまい。
――オカルトに特化した刑事。見た目と言動も相まって、彼にはぴったりの肩書きだ。
長海が追及する前に、ネコメはその血色のいい唇を開いた。
「長海さんには、ある寺の張り込みをお願いしたいんです」
* * *
六月五日の朝は悪夢を見ずに目が覚めた。床に就いて目を閉じ、空白の時間を感じつつ眠りに落ちて、気づけばアラームで起こされる。
穏やかな朝を迎えられたのは、今日が『何もない日』だからだろうか。それともネコメが来てくれたという安心感ゆえか。
自由を優先するなら帰宅部一択。安定と、凛のそばにいることを取るなら柔道部のマネージャー。
考えは自然とネコメを連想させていた。学生時代の彼は何部だったのだろうか。芽亜凛の数倍もの時を繰り返していたネコメは、そもそも部に所属していたのだろうか。
変化がはじまったこの
雨の日の出会い。お泊まり会。告白の保留。花火。教育実習生。その小さな変化が一つひとつスイッチになっているとしたら、押し続けなくてはならない。
だから芽亜凛は、
みんな私の近くにいればいいんだよ、と凛は言った。優先すべきは千里の安否だという思考も通じた。お泊まり会の延期も決めてくれた。
簡単な話、凛が千里のそばにいるのなら、芽亜凛もそこへ行けばいいのだ。そうすれば凛が武道場にいる間、芽亜凛が代わりに千里の護衛に回れる。
明日は生物学が控えている。凛はきっと教科書を忘れてしまうだろう。そうでなくても、女子生徒が呼び出される可能性は大いにある。
昼休みになって凛を職員室に送り出した後、芽亜凛は保健室に足を運んだ。ここへ来るのもすっかり慣れてしまった。
『この学校の先生は、意外と頼りになりますよ』
反響するネコメの言葉に、知ってます、と心で返して扉をくぐった。
「
デスクでコーヒーをすすっていた保健教諭の猪俣は、興味深そうに眉を上げる。
「ん、なに、相談事?」
「いえ、すぐに終わる話なんですけど……」
「あーもう、あんたら散った散った! こっちは忙しいの」
休み時間に遊びに来ていた生徒らをお決まりのように追い出して、猪俣は顎で席を指した。芽亜凛はテーブルを挟んで向かいの丸椅子に腰を下ろす。
奥の衝立にはまだ人の気配を感じたが、猪俣は別段気にしていない様子だった。追い出された女子生徒らがキャーキャー言っていた場所である。……どうせいるのだろう。
猪俣先生がどうして彼に信頼を置くのか悩ましいが、まあいいかと芽亜凛は諦めて口を割った。
「お聞きしたいのは、
「笠部くん?」
芽亜凛にコーヒーを入れて猪俣先生は聞き返す。ミルクとガムシロップ入りのアイスコーヒーだった。ありがたく頂戴するとする。
「うつ病って噂、本当なんですか?」
以前
猪俣は少しだけ目を見開いて、口元を隠すようにマグカップを運ぶ。
「まあ笠部くんも、いろいろ苦労はしてるみたいね」
一拍置いて出た答えだった。教師の個人情報だからか、明確な開示は避けたらしい。
……前から疑問に思っていたが、この人はいったいいくつなのだ。女性に年齢を聞くのはタブーとわかっていても、その突っ込んでくれと言わんばかりの呼び方は気になってしまう。
笠部も石橋先生もだいぶ年上に見えるが、猪俣先生の手に掛かれば両者共にくん付けだ。単なる癖なのかもしれないが。
「僕もその噂知ってる。薬飲んでるところ見た人もいるよ」
衝立の奥からひょこっと顔を出し、さも当然のように
やはりいたのか。わかっていたので驚きはしないが、逆に彼らは動じない芽亜凛に意表を突かれたようだ。
「大丈夫よ。こいつのことは気にしないで」
「知ってます。気にしてません」
「あら、気づいてたの?」
「大丈夫だよ、僕口堅いから」
「あんたは黙ってなさい」
口が堅そうには見えないが、私益しか望まぬ彼にこの話題は無意味だろう。朝霧のテリトリーに入らぬ限り、彼は無害な優等生。つまり安全である。
「病気の原因はご存知ありませんか?」
「なんでそんなこと知りたいのよ」
「猪俣先生ならご存知かと思って……。知らないのならほかを当たります」
ここで答えなくとも芽亜凛には痛くも痒くもない、と仄めかす。もちろん嘘だ。本当は猪俣先生に懸けている。
「教えてあげなよ先生。減るもんじゃないし」
いつの間にかコーヒーをすすっている朝霧が、先生の隣に腰を下ろした。
猪俣は「あんたたちねぇ」と呆れて額を指で掻く。
「プライバシーって言葉があるでしょうが、まったく」
そう言って彼女は、観念したように芽亜凛を正面から見据えた。どうやら嘘がつけない人らしい。
「前に、奥さんといろいろあったって聞いたわ。別れたのか逃げられたのか……笠部くんが病気になったのはちょうどそんな頃よ」
猪俣は言い終えると、マグカップの中身を一気に飲み干した。
笠部は結婚していたのか、それも初耳だった。家庭に問題を抱えていて、妻とのトラブルが原因でうつ病に?
しかしそれが生徒を毒牙にかける理由になるだろうか。
「笠部先生は写真がお嫌いだったんでしょうか。自分が撮られることに対してです」
「さあ? 聞いたことないわね」
「笠部先生に叱られて過呼吸を起こした生徒がいたけど、そのきっかけが盗撮だったって話はあるよ」
横から朝霧がナイスアシストで割り込む。芽亜凛は思わず食いついた。
「盗撮?」
「そう。先生のことを面白がって撮ったんだろう。それに気づいて、先生は激昂したと」
他人に撮られることへの恐怖が、笠部
芽亜凛はお礼を言って席を立った。
「あら、もういいの?」
「大体のことはわかりましたから。コーヒーごちそうさまでした」
「またいつでも来なよ」
朝霧はテーブルに頬杖をついて手を振る。芽亜凛はそんな彼をじっと見据えて、釘同然の置き土産を用意した。
「遊園地。凛じゃなくて、
彼のための助言でもある。
芽亜凛は、朝霧の顔から笑みが消えたのを確認して、保健室を出ていった。
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