用意周到
今日の跳び箱のような仕掛けを、プロバビリティーの犯罪と言うらしい。殺意はあるものの、『もしかしたら死んでくれるかもしれない』という、偶然性に頼った犯行を指す言葉だ。
狙っていたのは先週からだろう。茉結華は、次の体育が一限目で、跳び箱が行われることを知っていた。もちろんその前に他クラスが跳び箱を引く可能性もあったし、E組とC組の跳び箱が中止される道もある。持久走やバレーに変わったのを芽亜凛が見てきたように。
確定された仕掛けは芽亜凛にとって好都合でしかない。知っていれば確実に回避できるのだから、未知のルートを進むよりも楽だ。今日はそのいい例である。
またあの仕掛けを回避するのかと一時はうんざりしたが、放っておけば無関係の生徒が怪我するかもしれない。そう考えるとこちらで処理できてよかったと、今なら思える。
読めた動きは、答えを見ながら問題を解いているのと同じ。本当に恐ろしいのは『読めないこと』だ。
追い詰められてなりふり構わず襲いかかってくるときが一番恐ろしい。前回のように。
だから殺意はあれど、まだ可能性に頼っているうちは可愛いということだ。千里をさらう計画も阻止できたし、偶然性の犯行も回避できた。凛とネコメのおかげである。
帰りのホームルームで初日の感想を振られたネコメは、「とても刺激的でした」と、当たり障りのない回答をした。
「授業だけでなく休み時間も楽しくて、みなさんと仲良くなれたようで嬉しいです。石橋先生の教えは厳しいぃですけどね」
寡黙な担任いじりにクラスメートはくすくす笑う。石橋先生を面白おかしく言えるのはネコメくらいだろう。芽亜凛は真一文字の笑みを浮かべてそんな光景を眺めていた。
――明後日の生物学に備えて、明日はどんな一日にしようか。変化を求めて行動しなきゃいけないのなら、自分には何ができるだろう。
ホームルームを終えて、ネコメは石橋先生と一緒に教室を出ていった。生徒たちは帰宅と部活に分かれる放課後を迎える。
「芽亜凛ちゃん、部活見に来る?」
鞄を肩にかけた凛の誘いに、芽亜凛は表情を曇らせる。
「先約があって……ごめん」
「あ、そうなんだ。部活は何にするか決めた?」
「まだ迷ってる」
「そっかぁ」
凛は部活見学を理由にして、一緒に帰ろうと暗に言っているのだ。部活が終われば、千里と三人でまた帰れる。
だが、心苦しくも芽亜凛はこれから用事があった。昼休みだけでは時間が足りず、ネコメに放課後また話を聞きたいと言われていたのだ。
凛は考える素振りをして、「もしかして、」と声をひそめて続ける。
「先約って……金古せんせーのこと?」
一瞬どきりとしたが、冷静を装って首肯する。凛は眉を上げてきょろきょろと周囲を窺い、さらに芽亜凛の耳元で言った。
「あの人、警察の人だよね」
芽亜凛は凛を見て、「知ってるの?」と瞬きを繰り返した。問わなければ『そうなの?』と驚いているようにも見えるだろう。――けれどもう凛に気持ちを隠したくない。
凛は小さく頷いた。
「私、会ったことあるんだ。あの人に」
「どこで……?」
「中学のときに職場体験があってね。そこで私、あの人と話したことあるんだ」
職場体験の話なら芽亜凛も聞いたことがある。渉と一緒に警視庁に行ったという話だ。凛が張り切りすぎていて、みんなとは面構えが違っていて、とても浮いていたとか。
「話したっていうか、話しかけられたっていうか。敬礼が綺麗だねって、褒めてくれたの。それがあの人なんだ」
「憶えてるの?」
凛は当然のように頷いた。
「綺麗な人だったからね。私も最初は人違いかなって思ったけど、芽亜凛ちゃんの件もあるし、もしかしたらそうかなって。言わないほうがよかった?」
芽亜凛は思わず笑みをこぼして、ううんと首を振った。
「話してくれてありがとう。私も凛に言おうか迷ってたから……よかった」
ネコメの正体を凛に伝えようか、芽亜凛はずっと迷っていた。言えば連携は取りやすくなるが、しかし響弥に気づかれるリスクも高まる。
今まで凛が、知ってて黙っていたとすれば、もう迷うものは何もない。
「調べてもらってるの。いろいろと」
「そっか……わかった」
凛は自分で納得したように頷いてから、ニッといたずらっぽく笑った。
「それじゃあ私は、今日もちーちゃんちに行くよ」
「平気なの?」
「うん。凛ちゃんなら何日でもいていいよーって、ちーちゃんのご両親がね。ていうか、もう一週間くらい様子見しようかなーって考えてる」
前回は芽亜凛も一緒に、半ば無理やり
「凛のおうちも平気?」
「テスト近いから勉強会するって言っておいた。でも心配かけないように顔は出すよ、大丈夫」
茉結華は、防犯ブザーで追い払ったら家ごと燃やすような奴だ。手段は問わず、日程のずれも構わないだろう。しばらく凛にはいてもらったほうが賢明である。
用意周到な凛の笑顔を見届けて、芽亜凛は教室を出た。
ネコメが刑事であることを、初日で凛と共有できた。遅かれ早かれ、話すべき内容だった。
凛は口が堅い。誰にも言わないでと言えば、彼女は絶対に誰にも言わない。絶対にだ。
幼馴染の渉にさえ、彼女は誤魔化し、ときには嘘もついてきた。芽亜凛が渉に疑われたときのように。
芽亜凛がどんなに怪しいと言われても、凛は、自分の信じる芽亜凛を信じてくれた。
凛なら大丈夫だ。今までと変わらず慎重に振る舞うだろう。
芽亜凛は生徒玄関を抜けて外に出ると、ネコメに教えられた車を確認した。表の駐車場ではなく、生徒の目につかない校舎裏のほうに停めてある。
運転席にはすでにネコメが着いていた。タイミングを見計らって後部座席にお邪魔すると、彼は振り向いて缶飲料を差し出した。
「どっちがいいですか?」
「……右で」
彼の右手にはミルクティー、左手にもミルクティー。どちらも同じ種類だった。
芽亜凛は自らの経験を洗いざらい話した。自分の死も、ネコメとの繋がりも、神永家のことも。
そして、前回ネコメが調べてくれた神永響弥についても、すべての情報を彼に託す。
今後の捜査を、短縮できると信じて。
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